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2014年4月27日日曜日

4月27日の礼拝案内

主日の祈り
全能の神様。主の復活を喜び祝っている私たちを助け、すべての言葉と行ないによって、復活の力を伝えさせてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:使徒言行録222-32()215
2:22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。 26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。 28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』 29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 31 そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。 32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。

第二日課:ペトロの手紙Ⅰ13-9()428
1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、 4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。 5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。 6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。 8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。 9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

福音書:ヨハネによる福音書2019-23()210
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


本日の讃美歌
はじめの歌156番|みことばの歌66番|
感謝の歌183番|聖餐の歌―番|終わりの歌196
※すべて日本キリスト教団出版局による「讃美歌・Ⅱ編」です。

本日の説教「平和の使者」 竹田大地牧師

また本日は、午後1時30分より第4回チャリティーコンサートがございます。
そちらも合わせてお越しください。どなたでもお越しいただけます。
詳しくは⇒ http://shimonoseki-lutheran-ch.blogspot.jp/2014/04/blog-post_18.html


ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~

※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

2014年4月20日日曜日

イースター、喜びの集い

本日は、2014年のイースター主日礼拝でした。

礼拝は、6時30分からの早朝祈祷会から始まりました。
5名の出席者が与えられて、御ことばと黙想をもって静かに過ごしました。

その後、9時15分から武久の教会墓地で墓前礼拝が執り行われました。下関教会では、伝統的にイースターの日の朝、教会墓地へ赴いて、先に神様の御許に召された信仰の先達の方々と共に、イースターの喜びを分かち合います。
あいにくの雨模様でしたが、5名の出席者が与えられました。

そして、10時30分からの主日礼拝は、ティーンズとの合同礼拝でした。
延べで43名の出席者が与えられ、喜びと恵みのうちに礼拝を守ることができました。
イエス様の復活をこのように多くの方々とお祝いできたことは、神様が下関教会と共にいてくださっているのだということを実感します。
また、今日は特に賛美の声が大きかったように思います。
牧師は、司式などで聖卓に向かって向きますが、背中からいつにも無いような圧と言いますか、熱を感じました。
この熱によって、下関教会の礼拝が守られ、宣教が進んで行ったのだろうということを司式をしながら思いました。
来年に下関教会は宣教100周年を迎えますが、改めて宣教の力と希望に満ち満ちているということを実感します。
どうぞ、皆さんのお祈りに、下関教会のことを加えていただければ幸いです。

礼拝後の記念写真撮影も笑顔のうちに終え、その後は、イースターを祝う会が2階ホールで行われました。
手分けして準備した具材を合わせて、美味しいちらし寿司とお吸い物が整えられ、いくつかの美味しい心のこもった持ち寄り料理も備えられました。感謝です。
出し物も、ハーモニカ、詩吟、男性コーラス、マンドリンとギターの演奏などバラエティーに富んだ楽しいものとなりました。
そして、今年はいつもと違ったのは、会の後半は、みんなで讃美合唱!!
6,7曲を歌ったでしょうか。
何人かの信徒のリクエスト曲を皆で声を合わせて大合唱。
讃美の声を合わせることは、本当に恵みそのものですね。
神様は、イースターのこの時に、素敵なプレゼントを下関教会に賜ってくださいました。

本当に喜びと恵みのうちにイースターの礼拝が守られました。
これからも、復活の主イエスのいのちに生かされて、御ことばの恵みと共に喜んで宣教の業に励んでいきたいと願わずにいられない日でした。


礼拝後の記念撮影

2014年4月18日金曜日

チャリティーコンサートのご案内

お知らせが直前になってしまいました。
今年も昨年に引き続いて「チャリティーコンサート」を開催いたします。
高橋和彦さん、夏川由紀乃さんによるマンドリンとピアノのデュオリサイタルです。
日時は、
4月27日(日)
午後1時から開場
午後1:30から開演いたします。

今年で4回目を迎え、すっかりお馴染みとなりました。
毎年素晴らしい音楽を届けてくださいます。

どうぞ皆さんお誘いあわせくださりお越しください。
どなたでも歓迎しています。どうぞご自由にお越し下さい。


コンサートでは、席上献金をお願いしています。献金は、「東日本大震災の被災者の方々の為」に用いさせていただく予定です。

前回のご案内の記事です。
http://shimonoseki-lutheran-ch.blogspot.jp/2013/04/blog-post_2.html

前回のコンサートの様子の記事です。
http://shimonoseki-lutheran-ch.blogspot.jp/2013/05/blog-post_5.html

高橋和彦さんのホームページです。
http://members2.jcom.home.ne.jp/kazucarry/


2014年4月16日水曜日

4月20日の礼拝案内

この日は、私たちのみ子イエス様が復活されたことをお祝いするイースターです。
教会では、特別にこの日を覚えて礼拝を守ります。
どうぞどなたでもお越しください。
イースター礼拝は、合同礼拝となります。
9:30からのティーンズ礼拝はありませんのでお気をつけください。
また、朝の6:30から早朝祈祷会を行います。こちらも合わせてご予定ください。
ご一緒にイエス様の復活をお祝いいたしましょう。

主日の祈り
御独り子イエスによって死を征服し、永遠の生命の門を開かれた全能の神様。み霊の息吹によって私たちを新しくし、私たちの思いと行ないのすべてを祝福してください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:使徒言行録103943(新)234
10:39 わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、 40 神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 41 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。 42 そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 43 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

第二日課:コロサイの信徒への手紙3:1-4(新)371
3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

福音書:マタイによる福音書28:1-10(新)59
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」


本日の讃美歌
はじめの歌 148番|みことばの歌 154番|
感謝の歌 150番|聖餐の歌 204番|終わりの歌 146

※すべて日本キリスト教団出版局による「讃美歌・Ⅱ編」です。

本日の説教「空の墓、新しい命」 竹田大地牧師



ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~

※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

2014年4月14日月曜日

聖週間のご案内

本日から金曜日までイエス様の十字架への道のりを覚える聖週間を過ごしてまいります。
今年からルーテル下関教会では、毎日祈りと共にこの与えられた時を過ごしてまいります。
どなたでもお越しいただけます。どうぞお越しください。
ご一緒にイエス様の最後の時を御ことばと祈りと共に歩んでまいりましょう。

聖月曜日の祈り 18:30~
聖火曜日の祈り 15:00~
聖水曜日の祈り 18:30~
聖木曜日の祈り 18:30~
聖金曜日の祈り 15:00~

※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
※ルーテル下関教会では、「新共同訳聖書」と日本基督教団出版から刊行されている「讃美歌」を用いています。
※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

2014年4月12日土曜日

4月13日の礼拝案内

主日の祈り
全能の神様。あなたはみ子イエス・キリストを世に送り、十字架の死に渡されました。み子と共に、私たちがその従順と復活の勝利に与かる喜びを与えてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:ゼカリヤ書99-10()1489
9:9娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。10わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。

第二日課:フィリピの信徒への手紙26-11()363
2:6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

福音書:マタイによる福音書211-11()39
21:1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。3もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」4それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。5「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」6弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、7ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。9そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」10イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。11そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

本日の讃美歌
はじめの歌 316番|みことばの歌 129番|
感謝の歌 249番|聖餐の歌―番|終わりの歌 398

※すべて日本キリスト教団出版局による「讃美歌・Ⅱ編」です。

本日の説教「主がお入り用なのです」 竹田大地牧師



ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~

※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

4月6日 四旬節第5主日の説教

「主よ共に居てください」

主日の祈り
私たちの贖い主なる神様。私たちは弱く、み力によらなければ、世界にあなたの赦しと希望の福音を伝えることができません。み言葉に従い、愛のご支配を伝えるために、聖霊によって私たちを新しくしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:エゼキエル書3310-16()1350
33:10 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。 11 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 12 人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。 13 正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。 14 また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、 15 すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。 16 彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。

第二日課:ローマの信徒への手紙51-5()279
5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

福音書:ヨハネによる福音書1117-53()189
11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。 32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 35 イエスは涙を流された。 36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。 46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。 47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。 48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
 49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。 50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」 51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。 52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。 53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

本日先ず聴いていきたい御ことばは、第一日課の「人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。」という御言葉です。
この御ことばの表すところは、私たちは、私たちの正しさで生きる者ではないということです。そして、私たちは自分の正しさに頼るとき、罪を犯してしまうという弱さを持っているということです。
なぜならば、自分の正しさを振りかざすとき、自己中心という罪に陥るからです。自分中心は、神を見ないという生き方です。まさに罪という御ことばが、的外れであるということを意味しているのと繋がります。

そのような中で、今日与えられました御ことばは、ラザロの復活の場面です。
さて、このラザロという名前は、非常に興味深いのです。ラザロというとこのマルタとマリアの兄弟ラザロを思い起こしますが、単純に名詞的にとらえるならば、このラザロという言葉は、ヘブライ語で「エルアザー」という言葉から来ています。この言葉の意味は、「神が助ける者」という意味があります。

これは、非常に大切なことだと思います。私たちは、神の御前において何ものかといわれるならば、まさにこのラザロ、神によって助けられる者であるということなのです。
私たちは、神の御前に何者でもない、何も持たざる者であるということを覚え、もはや生きる道は神にしかないと覚える事は、この四旬節にあって大変大切なことです。そのような中で、この兄弟たちに大きな苦難が起こります。
それは、愛する者の死という出来事でした。
誰でも、愛する者の死は、非常に大きな悲しみを心に覚えます。そして、その死を前にして、自分の無力さや、あの時こうしていれば良かったと後悔の念が次から次へと押し寄せてきます。

ですから、死と生の間には、深い淵があり、私たちはそれをどうしても乗り越える事ができない存在であると言うことを覚える出来事が死という出来事の本質であるように思います。
私たちは、先日市河みどりさんを天に送りましたが、やはり信仰的にとらえて行くならば、みどりさんは、神の御許に召され、今はもう憩うているということを思うわけですが、やはり、寂しさを覚え、悲しみを覚え、虚しさを覚えるのではないでしょうか。それは、ごく自然の人間的な感情であると思います。

この時のマルタとマリアもまた、愛する兄弟ラザロの死を目の当たりにして、嘆きます。そもそもは、113節にあるように「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた」とあるように、イエスにわざわざ遣いを出してまで、ラザロの死に直面する状況から救い出してほしいと言うことを願い出ています。
しかし、それが間に合わなかったのです。と、言うよりもむしろ「なお二日間同じ所に滞在された」とあるようにあえて、ラザロのもとに行かなかったような様子さえ聖書は伝えています。

このことが示すことは何かというならば、イエスの御言葉にその真理が示されています。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそのれによって栄光を受けるのである」
とあるように、この出来事は、神の栄光、すなわち、神の救いの出来事を示す出来事としてとらえる必要があるということをイエスご自身語っておられるのです。
私たちは、死という出来事、死を前にして、その暗く、深い闇を落とす淵に恐れを覚えます。どうにかして、この状況から逃れたいと強く願います。それは、本人だけでなく、家族や、友人、ありとあらゆる人々に起こる自然な感情です。

ラザロ自身もまたこの死を前にした病を通して、自分がこの暗やみに抗いきれない思いを抱いていたのではないでしょうか。それは人間誰しもが思う感情であり、そこにあるのは絶望です。
絶望は、人の生きる力を奪います。
まさに、彼はこの時、生きる力を失い、死を迎えるのみのわが身を嘆き悲しむほか無かったのです。
そして、マルタとマリアの姉妹もまた、この愛する兄弟ラザロの死の病を前にして、絶望するほか無かったのです。
そのような中で、やっとイエスが彼女たちのもとに来たのは、ラザロが死を迎えてからでした。マルタもマリアも「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と同じ言葉をもって嘆きます。
これは人間の真実の嘆きであり、私たち神を信じる者も同じような嘆きをイエスに向けたに違いありません。
ラザロの危機のとき、イエスを呼んだにもかかわらず、イエスはラザロのもとに来られなかった、なぜなのかという深い嘆きがそこにあります。

しかし、イエスは、マルタに語りかけます。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
この御言葉は、非常に大切な御言葉です。なぜならば、イエスがイエスたる真実の姿、神の真理をハッキリと顕しているからです。すなわち、神を信じる者に与えられる栄光とは、この復活といのちであるということです。
これが114節において語られたイエスの御言葉の真の意味なのです。

私たちは、普通であれば、死という出来事は、絶望の象徴であり、深い暗やみと恐れを抱かせる出来事でしかありません。しかし、今イエスは、このことを覆すのです。
死は、もはや恐れるものでも、絶望でもない、それは神の栄光が顕されるために必要な事であるという、神の救いの出来事を示すのです。
私たちは、この神のできごとを信じ、委ねていくこの事に尽きるのだと思います。
ラザロとは、神が助ける者であるということをはじめに述べましたが、その通りなのです。私たち一人一人は、神の御前に何も誇るものでもなく、自分の正しさや、力を誇示する必要の無い存在なのです。ですから、この神の栄光の出来事に委ねていくことにのみ、救いの道があり、光があり、神はこのような私を神の栄光のために用いてくださるのです。

ラザロは、イエスの呼びかけによって墓穴から出てきます。
それは石で塞がれていました。まさに死がこの世とあの世を遮っていることを示しています。しかし、神の御言葉によってその蓋は取り除かれるのです。そして、イエスは「ラザロ、出てきなさい」と叫びます。
「出てきなさい」とは、前に出なさいという意味があります。死という重い足枷によって、本来であれば前に進むことなど不可能な状態にもかかわらず、ラザロは復活し、人々の前に出てきます。
神の御言葉は、この絶望、嘆き、悲しみから前に歩みを進める希望の言葉となると言うことです。そして、それは死をも乗り越える力をもっているのです。

ですから、私たちはこの神の御言葉、イエスの福音に心から信頼し、委ねていくことの幸いをこの時知らされているのです。四旬節のときにあって、自分が神の御前に何も持たざる者であるということを深く心に刻み、この神の御言葉に委ねていくこと、何も持たざる者にも関わらず、神がイエスを遣わし、栄光を示してくださったということを覚えてまいりましょう。
さらに、パウロがローマの信徒への手紙の中で「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」とあるように、私たちが誇りとするもの、頼るものが何であるかと言うことを覚えましょう。私たちの信仰によってのみ神の希望が示されます。他の何も必要ありません。私たちは神の前にラザロであると言うことを深く心に留めてまいりましょう。

そして、この時をもって本格的にイエスは、ファリサイ派や世の権力者から目を付けられ、十字架の道を歩み始めます。イエスの十字架が近づいています。今一度、この十字架の苦難を思い起こしながら、この十字架が何を示すのかお一人お一人が神に聴いていく、そのような時として無駄にすることなく過ごしてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2014年4月3日木曜日

3月30日 四旬節第4主日の説教

「今は見える」


主日の祈り
恵み溢れる神様。癒しと赦しのみ力によって、私たちをすべての罪から清め、強くしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書4214-21()1129
42:14わたしは決して声を立てず/黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のようにあえぎ/激しく息を吸い、また息を吐く。15わたしは山も丘も廃虚とし、草をすべて枯らす。大河を島に変え、湖を干す。16目の見えない人を導いて知らない道を行かせ/通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え/曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ/見捨てることはない。17偶像に依り頼む者/鋳た像に向かって/あなたたちがわたしたちの神、と言う者は/甚だしく恥を受けて退く。18耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。19わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。20多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。21主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。

第二日課エフェソの信徒への手紙58-14()357
5:8あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。9――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――10何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。11実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。13しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。14明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」


福音書:ヨハネによる福音書913-25()184
9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。 14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。 15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」 16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。 17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。 18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、 19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」 20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」 22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。 23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。 24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

本日あたえられている聖書の御ことばは、生まれつきの盲人がイエスによって癒され、目が見えるようになったという出来事を受けて、その後に盲人とファリサイ派の人々のやりとりが語られている場面であります。
この盲人の癒しは、大変有名なやり取りの中で起こっています。
それは、この盲人の目が見えないのは、この人、本人に罪があるからか、両親に罪があるからかという弟子たちの問いかけに対して、そうではなく、この人の目が見えないのは、神の業、栄光が顕されるためであると答えた出来事です。

当時の考え方は、何か病気や障がいを負うということは、本人か、その先祖に罪があった結果であるという考え方がありました。すなわち、因果応報の世界の中にあったということです。それは、この物語が語られている古の時代のことでなくとも、現代にあって、私たちの世においてもそのことを強調する傾向にあるようにあります。
何か物事を達成できなかったのは、その人の努力が足りなかったからだとか、また、大変凄惨な事件がよく起こりますが、それは両親が悪い、家庭環境が悪かったからだといわれたりします。そして、それを自己責任、自業自得であるという言葉で片付けようとします。

しかし、イエスは、この考え方を覆すのです。この人が生まれつき目が見えないのは、この人に罪があるからでも、両親に罪があったからでもないとハッキリと否定します。すなわち、因果応報の考えを破られたのです。
そして、それをイエスは「神の業、栄光が現されるためである。」と語るのです。
この神の栄光が現されるということがらは、大変重要な事柄であると思います。
すなわち、神の栄光、恵みが現れるということは、その人の過去がどうであったとか、現状がどうであろうかということを問わないのです。重要な事は、イエスとの出会いがあたえられた後の事がら、すなわち未来を見つめる視点が与えられるということです。言って見るならば、「神の業、神の栄光が現される」ということは、その人の人となりを越えて、これからこの人は神の栄光を現す者とされるのだと語っているのである。

そのような癒しの出来事を受けて、この盲人だった人は、ユダヤ教の規定に従い、祭司たちのところへと行き、自分が癒されたとことを承認して貰いに行きます。その為に彼はファリサイ派の人々のところに連れて行かれたのでしょう。
さて、今日は、この時のやり取りが福音として語られています。
この時のファリサイ派の様子は、前段のイエスの弟子たちと似ているように思います。それは、ユダヤ教の律法に従うならば、イエスが行われたことは、安息日に行われたので、労働の違反であるということを主張します。しかし、一方で罪人であるならば、このようなしるしを行うことはできないであろうという戸惑いも見せます。

このファリサイ派の戸惑いは何を意味しているのでしょうか。
それは、彼らは、自分の正しさに囚われているということです。自分たちの信仰の礎は、そもそもは神が与えてくださった律法によるものでした。すなわち、神の意志、神の御こころに生きる事を大切にしていたわけです。しかし、それがいつの間にか、律法の本質である神の御こころに思いを寄せるのではなく、そこに記されている文字にのみ思いを向け、そのことの守れない人々は罪人であると断罪するようになったのです。それは、言ってみれば、自分たちが神にでもなったかのような振る舞いです。
そして、自分こそが、律法を一字一句守って居るのだから正しく、救いに与るに相応しい人間であると考えていたのです。

しかし、イエスが、安息日にもかかわらず盲人の目を癒されたことによって、その正しさが脆弱であるということが露呈されたのです。なぜならば、そこに働いているはずの神の栄光、神のできごとを理解することが出来なかったゆえに、自分の信じていた正しさが揺らいだからです。
すなわち、自分の熱心さを振りかざすあまりに神の栄光が見えなくなり、いざ本当に正しいことが起こった時、心の中に迷いが生じていたのです。この福音の出来事は、目が見えるようになった盲人に起こった神の出来事、神の栄光を見ようとしない人間の罪深い姿が描かれているのです。
自分こそ正しい、イエスは正しくないから何とかして陥れようという思惑に囚われ、そこに働く神の御こころ、出来事に対して逆に盲目になっていた、見えなくなっていたのです。

さて、「罪」ということばは、そもそもは「的外れ」という意味があります。すなわち、人間が神の御こころとは違う生き方をしているという状態を表しているのです。私たちは、このファリサイ派のように自分の正しさや、自分の思いを誇示しようとする時、その事に囚われ、神を省みなくなってしまいます。しかし、それはいつでも神の御旨とは違うものとなってしまうのです。まさに的外れな生き方をしてしまうのです。

しかし、この癒しをあたえられた盲人は非常に素朴な思いをもってこの出来事を受け止めています。
それは、今日の福音の最後のことばである「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」という答えにあります。
この言葉が示すことは、彼がただ純粋に、素朴に神のできごと、神の恵みに立ち、この出来事に思いを寄せ、神の御心に思いを向けていたという生き方です。この事こそが私たちに取って非常に大切な事であると思います。
私たちは生きていく上で様々な思惑の中で生きます。そこに渦巻く思いに囚われそうになります。しかし、そのような中で私たちは、この盲人のように神から与えられた恵みに素直に、素朴に生きていくということが本当に大切な事のように思うのです。

彼は、この後のやり取りでこのように語っています。
「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
実に堂々と臆することなく、自分の身を癒された方のことを証ししています。

この盲人の姿は、ひとつのキリスト者としての生き方を示しています。それは、先ほども述べましたように神の恵みに素朴に立ち、そこに委ねる生き方です。そして、それは神の栄光を現すのです。どのような境遇であろうと、過去であろうと、人となりであろうと、そこに立つことで見えてくるものは、主にある喜びと、主にあって希望の未来に生きる姿です。
私たちは今日、この盲人からキリスト者としての生き方を教えられています。この時、ファリサイ派の人々は、最後にこの盲人に対して「お前はまったく罪の中に生まれたのに我々に教えようというのか」と吐き捨てます。
どこまでも自分の正しさに囚われ、神の御旨に思いを向けることができないまさにまったく的外れな言葉です。

しかし、私たちは本来はそのような者ではないはずです。「人間」とは、ギリシャ語では顔を上げるという意味があります。すなわち人間本来の姿は、神を見上げる者であるという本質を現しているのです。そして、それはすなわち、神の栄光、御旨を現す生き方であるということです。
私たちは、いま四旬節の中にあり、イエスの十字架のできごとに思いを寄せ、悔い改めの時として過ごしています。ですから、今一度自分自身を顧みて、自分が囚われて居るものは何か、自分が他の人に押しつけてしまっていることは何かと言うことを問い直し、そうではなく、神は私に働かれている、ほかの人がどうであるとか、自分の考えにそぐわないからと断罪する生き方ではなく、素直に私に起こっている神の恵み、御旨、栄光に思いを寄せていくそのような時として与えられたこの時を過ごしてまいりたいと願っていきましょう。イエスの十字架を見上げて歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。




4月6日の礼拝案内

主日の祈り
私たちの贖い主なる神様。私たちは弱く、み力によらなければ、世界にあなたの赦しと希望の福音を伝えることができません。み言葉に従い、愛のご支配を伝えるために、聖霊によって私たちを新しくしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:エゼキエル書3310-16()1350
33:10 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。 11 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 12 人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。 13 正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。 14 また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、 15 すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。 16 彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。

第二日課:ローマの信徒への手紙51-5()279
5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

福音書:ヨハネによる福音書1117-53()189
11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。 32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 35 イエスは涙を流された。 36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。 46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。 47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。 48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

 49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。 50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」 51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。 52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。 53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

本日の讃美歌
はじめの歌493番|みことばの歌354番|

感謝の歌130番|聖餐の歌205番|終わりの歌262

※すべて日本キリスト教団出版局による「讃美歌・Ⅱ編」です。

説教題 主よ共に居てください」 竹田大地牧師

ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~

※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。