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2014年4月12日土曜日

4月6日 四旬節第5主日の説教

「主よ共に居てください」

主日の祈り
私たちの贖い主なる神様。私たちは弱く、み力によらなければ、世界にあなたの赦しと希望の福音を伝えることができません。み言葉に従い、愛のご支配を伝えるために、聖霊によって私たちを新しくしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:エゼキエル書3310-16()1350
33:10 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。 11 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 12 人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。 13 正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。 14 また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、 15 すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。 16 彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。

第二日課:ローマの信徒への手紙51-5()279
5:1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

福音書:ヨハネによる福音書1117-53()189
11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。 32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 35 イエスは涙を流された。 36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。 46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。 47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。 48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
 49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。 50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」 51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。 52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。 53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

本日先ず聴いていきたい御ことばは、第一日課の「人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。」という御言葉です。
この御ことばの表すところは、私たちは、私たちの正しさで生きる者ではないということです。そして、私たちは自分の正しさに頼るとき、罪を犯してしまうという弱さを持っているということです。
なぜならば、自分の正しさを振りかざすとき、自己中心という罪に陥るからです。自分中心は、神を見ないという生き方です。まさに罪という御ことばが、的外れであるということを意味しているのと繋がります。

そのような中で、今日与えられました御ことばは、ラザロの復活の場面です。
さて、このラザロという名前は、非常に興味深いのです。ラザロというとこのマルタとマリアの兄弟ラザロを思い起こしますが、単純に名詞的にとらえるならば、このラザロという言葉は、ヘブライ語で「エルアザー」という言葉から来ています。この言葉の意味は、「神が助ける者」という意味があります。

これは、非常に大切なことだと思います。私たちは、神の御前において何ものかといわれるならば、まさにこのラザロ、神によって助けられる者であるということなのです。
私たちは、神の御前に何者でもない、何も持たざる者であるということを覚え、もはや生きる道は神にしかないと覚える事は、この四旬節にあって大変大切なことです。そのような中で、この兄弟たちに大きな苦難が起こります。
それは、愛する者の死という出来事でした。
誰でも、愛する者の死は、非常に大きな悲しみを心に覚えます。そして、その死を前にして、自分の無力さや、あの時こうしていれば良かったと後悔の念が次から次へと押し寄せてきます。

ですから、死と生の間には、深い淵があり、私たちはそれをどうしても乗り越える事ができない存在であると言うことを覚える出来事が死という出来事の本質であるように思います。
私たちは、先日市河みどりさんを天に送りましたが、やはり信仰的にとらえて行くならば、みどりさんは、神の御許に召され、今はもう憩うているということを思うわけですが、やはり、寂しさを覚え、悲しみを覚え、虚しさを覚えるのではないでしょうか。それは、ごく自然の人間的な感情であると思います。

この時のマルタとマリアもまた、愛する兄弟ラザロの死を目の当たりにして、嘆きます。そもそもは、113節にあるように「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた」とあるように、イエスにわざわざ遣いを出してまで、ラザロの死に直面する状況から救い出してほしいと言うことを願い出ています。
しかし、それが間に合わなかったのです。と、言うよりもむしろ「なお二日間同じ所に滞在された」とあるようにあえて、ラザロのもとに行かなかったような様子さえ聖書は伝えています。

このことが示すことは何かというならば、イエスの御言葉にその真理が示されています。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそのれによって栄光を受けるのである」
とあるように、この出来事は、神の栄光、すなわち、神の救いの出来事を示す出来事としてとらえる必要があるということをイエスご自身語っておられるのです。
私たちは、死という出来事、死を前にして、その暗く、深い闇を落とす淵に恐れを覚えます。どうにかして、この状況から逃れたいと強く願います。それは、本人だけでなく、家族や、友人、ありとあらゆる人々に起こる自然な感情です。

ラザロ自身もまたこの死を前にした病を通して、自分がこの暗やみに抗いきれない思いを抱いていたのではないでしょうか。それは人間誰しもが思う感情であり、そこにあるのは絶望です。
絶望は、人の生きる力を奪います。
まさに、彼はこの時、生きる力を失い、死を迎えるのみのわが身を嘆き悲しむほか無かったのです。
そして、マルタとマリアの姉妹もまた、この愛する兄弟ラザロの死の病を前にして、絶望するほか無かったのです。
そのような中で、やっとイエスが彼女たちのもとに来たのは、ラザロが死を迎えてからでした。マルタもマリアも「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と同じ言葉をもって嘆きます。
これは人間の真実の嘆きであり、私たち神を信じる者も同じような嘆きをイエスに向けたに違いありません。
ラザロの危機のとき、イエスを呼んだにもかかわらず、イエスはラザロのもとに来られなかった、なぜなのかという深い嘆きがそこにあります。

しかし、イエスは、マルタに語りかけます。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
この御言葉は、非常に大切な御言葉です。なぜならば、イエスがイエスたる真実の姿、神の真理をハッキリと顕しているからです。すなわち、神を信じる者に与えられる栄光とは、この復活といのちであるということです。
これが114節において語られたイエスの御言葉の真の意味なのです。

私たちは、普通であれば、死という出来事は、絶望の象徴であり、深い暗やみと恐れを抱かせる出来事でしかありません。しかし、今イエスは、このことを覆すのです。
死は、もはや恐れるものでも、絶望でもない、それは神の栄光が顕されるために必要な事であるという、神の救いの出来事を示すのです。
私たちは、この神のできごとを信じ、委ねていくこの事に尽きるのだと思います。
ラザロとは、神が助ける者であるということをはじめに述べましたが、その通りなのです。私たち一人一人は、神の御前に何も誇るものでもなく、自分の正しさや、力を誇示する必要の無い存在なのです。ですから、この神の栄光の出来事に委ねていくことにのみ、救いの道があり、光があり、神はこのような私を神の栄光のために用いてくださるのです。

ラザロは、イエスの呼びかけによって墓穴から出てきます。
それは石で塞がれていました。まさに死がこの世とあの世を遮っていることを示しています。しかし、神の御言葉によってその蓋は取り除かれるのです。そして、イエスは「ラザロ、出てきなさい」と叫びます。
「出てきなさい」とは、前に出なさいという意味があります。死という重い足枷によって、本来であれば前に進むことなど不可能な状態にもかかわらず、ラザロは復活し、人々の前に出てきます。
神の御言葉は、この絶望、嘆き、悲しみから前に歩みを進める希望の言葉となると言うことです。そして、それは死をも乗り越える力をもっているのです。

ですから、私たちはこの神の御言葉、イエスの福音に心から信頼し、委ねていくことの幸いをこの時知らされているのです。四旬節のときにあって、自分が神の御前に何も持たざる者であるということを深く心に刻み、この神の御言葉に委ねていくこと、何も持たざる者にも関わらず、神がイエスを遣わし、栄光を示してくださったということを覚えてまいりましょう。
さらに、パウロがローマの信徒への手紙の中で「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」とあるように、私たちが誇りとするもの、頼るものが何であるかと言うことを覚えましょう。私たちの信仰によってのみ神の希望が示されます。他の何も必要ありません。私たちは神の前にラザロであると言うことを深く心に留めてまいりましょう。

そして、この時をもって本格的にイエスは、ファリサイ派や世の権力者から目を付けられ、十字架の道を歩み始めます。イエスの十字架が近づいています。今一度、この十字架の苦難を思い起こしながら、この十字架が何を示すのかお一人お一人が神に聴いていく、そのような時として無駄にすることなく過ごしてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。