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2015年4月19日日曜日

4月26日の礼拝案内

この日は、礼拝の後に昼食の準備がございます。
メニューは、ハヤシライスです。女性会の方が腕をふるってくださいます!!
どなたでもお越しください。ご一緒に神様の御ことばの恵みをいただき、美味しいご飯もいただきましょう!!

また、午後1時30分から下関教会では、恒例となったチャリティーコンサートが開催されます。
東日本大震災の被災地、被災者の方々を覚えて開催されます。
また、今年は、加えて大阪の釜ヶ崎にあるルーテル教会の施設「喜望の家」も覚えて開催されます。
まだまだ震災の復興はままなりませんし、社会の中で小さくされ、光も当てられず、苦しんでいる方々を覚えていきます。
詳細は左の文字をクリックしてください。 ⇒ 「チャリティーコンサートのご案内」


主日の祈り

よい羊飼い、私たちの救い主よ。あなたは迷う者を捜しだし、ご自分の囲いに連れ戻されます。今もこれからも、私たちをあなたの羊として養い、心身を癒し、健やかな日々を送らせてください。主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

第一日課:使徒言行録4512()219
5次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。6大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。7そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。8そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、9今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、10あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。11この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

第二日課:Ⅰヨハネの手紙31624()444
16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。17世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。18子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。19これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、20心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。21愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、22神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。23その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。24神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。

福音書:ヨハネによる福音書101118()186
11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

本日の讃美歌
はじめの歌242番|みことばの歌261
感謝の歌161番|聖餐の歌―番|終わりの歌352

説教題「主はわたしの羊飼い」

諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※詩編の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00
 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。

4月19日の説教

説教題 「主の証人」

主日の祈り
聖なる義の神様。私たちをあなたの子としてくださったいのちの主よ。私たちをいのちの言で満たし、生涯み子の復活を証しする者にしてください。あなたと聖霊と共にただ独りの神、とこしえに生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

第一日課:使徒言行録31219()218
12これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。13アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。14聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。15あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。16あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。17ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。18しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、この/ようにして実現なさったのです。19だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。

第二日課:Ⅰヨハネの手紙317()443
1御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。2愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。3御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。4罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。5あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。6御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。7子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。

福音書:ルカによる福音書2436b48()161

36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日お読みした福音の日課は、ルカから与えられています。先週のヨハネにおける復活のイエスと弟子たちとの出会いでもそうでしたが、ルカにおいてもイエスは、突然に彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と告げ知らせ、恐れおののく弟子たちに向かって、手足を見せ、「まさしく私だ。」と語りかけてくださるのです。
そして、それでも尚、喜びのあまり信じ切れずにいる弟子たちに向かって、実際に魚を食べるというパフォーマンスをもってイエスが身体を伴って復活されたということを証明してくださったのです。

非常に具体的な描写を伴って復活のイエスと弟子たちとのやり取りが記されています。
そして、律法と預言、そして、詩編に書かれている事がらがイエスを通して実現したのだということを明らかにしてくださっています。ここでイエスの語られた「書かれていた事がら」とは、イエスがメシアであるということです。イエスを通して、神の律法が完成し、預言が成就され、詩編の祈りが聴かれたということです。
このことを語られたのちに、イエスは、弟子たちの心を開き、聖書を悟らせました。

このことから、示されることは、弟子たちは、イエスが聖書を悟らせることによって、イエスの復活が真実であり、聖書に記されていたことが本当に実現したことを悟り、この出来事の証人とされていったのです。
ですから、彼らは、イエスが顕れた時も「亡霊」だと思ったと記されているように、始めイエスが復活されたことを信じられませんでした。さらに、イエスが、魚を一切れ食べて尚、そこに居る人が霊ではないが、イエスだとは分からなかったのだろうと思いますし、聖書にもそこで弟子たちが、その人がイエスだと分かったとは記されていません。

しかしながら、今日の御ことばにおいて重要なことは、その後のことです。
それは、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」と聖書に記されているイエスのことについて弟子たちに説き明かしてくださって、心を開いてくださったことに依ります。

この出来事は、今日の福音の直前に知るされている「エマオ途上」でも同様の事がらが起こっています。二人の弟子たちは、イエスだと気づかなかったが、イエスは「聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明され」、そして、パンを裂いた瞬間にイエスだと弟子たちは、目が開けイエスだと分かったと記されています。

このように、今日の出来事においても、イエスは、御ことばについて説き明かしてくださり、イエスご自身が弟子たち心の目を開き、悟らせてくださったのですから、復活のイエスを本当に信じ、悟ることに先立って、イエスが御ことばを語ってくれたことに依ります。
つまり、私たちが、イエスの復活を信じるという時、起こる出来事は、イエスの語りかけがあるということです。
私たち自らが理解して、知り、悟ったのではなく、イエスご自身が私たちのただ中に顕れてくださり、御ことばを語りかけてくださって、知る者となった、悟るようになったのです。
ですから、この今与えられている信仰は、神からの恵みであり、神の御業によって成った事がらなのです。

この事によって私たち一人ひとりは、神の恵みに気づかせていただいているのです。
何故、イエスが十字架で死ななければならなかったのか。それは、「御子を愛するほどに、世を愛しぬかれた」神が居るからです。と、同時にイザヤを通して語られた預言が成就し、その愛が具体的に示されたしるしとして、私たちの前に十字架が掲げられているのです。

本来であれば、私たちは神の法廷に立たされれば、皆、誰もが罪人です。自分を愛し、他人を愛せない自分が居ます。仕えることよりも、人の上に立とうとする自分が居ます。謙遜よりも傲慢な自分が居ます。施すことを躊躇してしまう自分が居ます。信仰は、神からの恵みであるはずなのに、誰よりも祈っている、感謝していると信仰が行いによって与えられるのだと誤ってしまう自分が居ます。
本当に、自分自身を顧みても、多くの罪が有ることに気づかされますし、必ず自分自身気づかないうちに罪を犯していることでしょう。

そのような私は、本来であれば裁きの対象であったはずです。しかし、神はそうされなかったのです。私たち一人ひとりが、主に立ち帰るように、愛する御子を遣わし、聖書の真理を明らかにしてくださいました。御ことばの恵みを与えてくださいました。それでも尚、罪を犯してしまう、私たちのために、イエスを十字架に架け、贖いの生贄とし、この1人の人の死を通して私たちの罪を赦すという愛を示して下さいました。しかもそれは、私たちが負うはずの傷を、ご自身が傷つくことによって、私たちが負うはずであった十字架を担うことによって、私たちの罪を赦してくださったのです。上に立つのではなく、徹底的に己を低くして、私たち人間に仕えてくださったのです。

その方が今こうして私たちのただ中に顕れ、再び御ことばを説き明かしてくださり、聖書の真理を告げ知らせてくださいます。しかも、そればかりでなく、この時からイエスご自身のみが神について証しするのではなく、この小さく、罪深い私たちにも、聖書を悟る心与えてくださり、私たち自身を神の証人として召してくださっているのです。

イエスの御ことばは、真実であり、聖書の事がらがイエスを通して実現したこと、すなわち、人間の罪がイエスと言う人を通して贖われ、復活を通して、赦された者が永遠のいのちの中に置かれる。死んでも、生きる者とされるという喜びのおとずれを信じる者へと変えられているのだという恵みを伝える者にされているのです。
イエスの死が、単なる処刑ではなく、その御姿に示される神の栄光を豊かに証しする者へと、復活のイエスを通して神から召しが与えられているのです。

私たちは、一人ひとりが神を知る者とされた、イエスを知る者とされました。
知らない時、神の愛、恵み、平安、栄光、赦しを知りませんでした。それ故に、この方を十字架に架けて殺してしまいました。けれども、今や私たちは、この十字架も、復活も知る者へと変えられ、神の福音の真理を知る者とされているのです。イエスご自身が、私たちのただ中に顕れてくださり、私たちの心を開いてくださり、聖書を悟る者としてくださっている。この恵みを日々受けながら、私たちは、証しする者とされているのです。

私たちは、一人ひとりが証し人です。牧師は、御ことばの執り成しを司っていますが、牧師だけで宣教が成されるのではありません。この時、その場にいた弟子たち全員に語りかけられ、悟らせてくださったように、私たちは今、主の語りかけによって、ここに集う者すべてが証し人として召されているのです。
この与えられた召しに私たちは誠実に応えていきましょう。神の御ことばが、この世で多くの人に知られるようになり、神の計り知れない恵みの数々が、人を癒し、励まし、慰め、力づけてくださる喜びを、私たち自身このメッセージを喜びつつ証ししてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2015年4月10日金曜日

4月5日の説教(イースター)

説教題 「ガリラヤで会おう」

主日の祈り
憐れみ深い神様。主イエスは生きておられます。私たちはもう主イエスを死者の中に捜しません。主は復活し、私たちの命の主となられました。復活の主キリストと共に生きる命を私たちのうちにさらに増し、あなたの民として、永遠の命に与るときまで、共に歩んでください。あなたと聖霊と共にただ独りの神、とこしえに生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書2569()1098
256万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。7主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし 8死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。9その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。

第二日課:コリントの信徒への手紙一15111()320
1兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。2どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。7次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、8そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。9わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。10神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。11とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

福音書:マルコによる福音書1618()97
161安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

イースターおめでとうございます。今日この時、イエスの復活が成し遂げられたことをご一緒にお祝いすることができますことを本当に嬉しく思います。
この時、与えられている復活の福音の出来事からご一緒にひと時、神の御声に耳を傾けてまいりましょう。

さてイエスの復活は、神の勝利のしるしと言ってよいでしょう。この出来事を通して、死の縄目を神ご自身が打ち破ってくださり、死は終わりではなく、始まりである。このイエスの死によって永遠のいのちの約束がすべての人に与えられているということが明らかになりました。
この神の大いなる約束を私たちは受ける者として、この世のただ中に生かされています。そして、驚くべき事にこの約束は、キリストを知っている人も知らない人もすべての人に与えられ、すべての人々がこの永遠のいのちの約束に生かされているということを思い起こします。

そのことが、イザヤ書においても語られています。
「主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし 8死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。」
まさにこの預言がイエスの復活を通して実現したのです。
私たちは直接に神の御顔を仰ぐことは許されていませんが、しかしながら、私たちを遮り、神を見えなくする罪の覆いは取り去られました。そして、死が滅びや終わりではなく、死によってもたらされていた滅びという力を神ご自身が滅ぼしてくださり、私たちに勝利の歌を歌わせてくださる。喜びの歌を歌わせてくださるのです。

イエス・キリストを死にわたし、悔恨と、苦しみ、悲しみの中に置かれていた弟子たちに喜びの勝鬨が聞かされる、そのような時がイースターです。そして、この勝鬨は、今を生きる私たちにも聴かされ、与えられている出来事なのです。それは、御ことばに聴くごとに、毎主日の礼拝ごとにそのことを覚えています。

そのことは、今日の福音でも豊かに示されています。
この日、婦人たちにとって暗い朝でした。イエスを葬り、その遺体の手入れをするために墓に向かっていたのです。師であり、最も慕う方を失い、失意の足取りであったことは間違いないでしょう。
だれがあの大きな墓石を転がすのかと思案しています。まさに、イエスの死は、あの大きな墓石のように、女性たちの心をすっかり覆い、婦人たちの信仰をすっかり萎えさせてしまっているのです。
しかしながら、彼女たちは、驚きに包まれます。その重い墓石は取り除かれ、中に入ってみると、そこにはイエスの遺体はなく、若者が座っているだけなのです。

しかも、この若者は驚くべきことを、婦人たちに告げます。
それは、「驚くことはない」という言葉です。イエスの墓が暴かれ、恋い慕う師であるイエスの遺体が無いことを確認したのに、「驚くことはない」と告げられるのですから、何のことか分からずに、狼狽えるほかないのです。
しかも、この御ことばは、命令形で語られているわけですから、一種の威厳ある者として彼女たちに語りかけられています。

つまり、この「驚くことはない」という言葉には、この世の何ものでもない方の威厳がそこに示されているということです。狼狽え、何のことか分からずに居る者に対して、このことは驚くべきことではないと語りかける方が居るということです。
なぜならば、この出来事が、既にイエスを通して語られていたことであり、聖書を通して既に語られていたことだからです。目の前でイエスが十字架に架けられ、死んだのを見、そして葬った者にとって、その預言は、何の意味も成さないと思っていた事がらが、この「驚くことはない」という一言によって覆されたのです。あの御ことばは、今も生きて働いているということを、私たちに告げ知らせる福音なのです。

婦人たちは、十字架のそばでイエスの死を見届け、埋葬し、確かにイエスが死んだことをその目で見ました。しかしながらそれが、神によって覆され、ハッキリと「復活され、もうここには居ない」と告げられます。
つまり、もうイエスは、死の縄目の中にはおらず、そこから立ち上がり、既に新しい歩みの中へと行かれているということです。そして、言われていたとおりガリラヤで再びイエスとの出会いが与えられると語りかけます。

ガリラヤとは、イエスの宣教の原点です。そこから始められ、神の福音が世に響き渡りました。すなわち、その始まりの地から新しい福音も告げ知らされるということを語っているのです。と、同時に、ガリラヤは、最初の弟子たちがイエスに従っていった所でもあります。つまり、私たちは、再びイエスの招きに与る者として、初めの地から再び私たち一人一人を弟子としてくださるという慰めがそこにあるのです。

十字架の場面で、裏切り、イエスを知らないとさえ言ってしまう、散り散りに逃げ去り、その十字架の死が終わりでないと言うことを悟ることの出来ない不信仰な私、「殺せ」「十字架につけろ」と叫んでしまう私をイエスは、再び復活のイエスは招いてくださっているのです。

さらに言うならば、招きは、とりわけ現在の私たちに取って最も豊かに示されているのは、礼拝です。礼拝は、神の招きによってなり、その招きに応えるという神との交わりが与えられている時です。
すなわち、今、私たちはこの時、ガリラヤに居るのです。そして、毎週の礼拝の中で復活の主との出会いが与えられている、そういう栄光に与っているのです。この時は、ただの儀式の時ではありません。
この時、復活のイエスが、私たちを招き、復活のいのちを豊かに与えてくださるという恵みが溢れているのです。十字架も復活も一度きりの出来事です。しかしながら、私たちは、その救いの出来事と、神の約束を毎週思い起こし、罪を赦されているという深い神の愛をいつも受ける者とされ、神の御声を聴く者とされているのです。

週日の歩みの中で、私たちもまた婦人たち同様に様々な思いが去来し、心が重たくなる、悩みや、苦しみ、悔しさ、悲しみ、時には不甲斐なさも覚えながら過ごします。その足取りは、主イエスを信じていながらも、お一人お一人様々にその思いはもたれることでしょう。時として目を上げて歩むこともままならない。
しかしながら、その思いは、そのままにされないのです。墓石が転がされているように、それは礼拝毎に既に取り除かれ、そこから立ち上がり、再び神の招きに与り、癒され、慰められ、励まされるのです。

私たちは、日々そういう神の営みの中に置かれているのです。復活を通して、ガリラヤでお目にかかれるということは、今を生きる私たちにとっては、礼拝でお目にかかれるということです。このリアリティーを私たちは与えられています。復活の主が、私たちをここへと招き、御ことばの恵みを通して、私たちと出会ってくださっているのです。
イエスの死が私たちに終わりを告げたのではなく、その死を通して復活することによって私たちにあたらしいのちの在り方を示し、再び神との出会いが与えられるという福音の出来事が起こっているのです。
イースターという特別な主日を迎えています。しかし、これが年に一度の出来事ではなく、毎週与えられ、私たちを力づけてくださっているということを受けとりつつ、これから始まる一週間の歩みをそれぞれに刻んでまいりましょう。
また来週にイエスと再びお目にかかるときまで、このイエスの招きの中にある平安を携えて歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

4月26日開催のチャリティーコンサートのお知らせ

下関教会では、東日本大震災を覚えて、毎年チャリティーコンサートを開催しています。
今年は、合わせて、日本福音ルーテル教会が行っている事業である、大阪・釜ヶ崎にある「釜ヶ崎ディアコニア喜望の家」の支援もいたします。

今年も、高橋和彦さんと夏川由紀乃さんによるマンドリンとピアノのデュオのコンサートです。
毎年、本当に素敵な音色を教会堂いっぱいに広げてくださり、
髙橋さんの軽妙なトークでご来場いただいたお客様を楽しませていただいています。

東日本大震災の被災地から遠く離れていますし、
4年を経て記憶が段々と薄れているように思いますが、
下関教会では引き続き覚えて祈り続けていきたいと考えています。

また、私たちの周りには、本当に社会から、
人々から見向きもされずに小さくされ、捨てられ、苦しんでいる方々が居ます。
その方々を支える事業の一つが「釜ヶ崎ディアコニアセンター喜望の家」の働きです。
昨今の経済不況によって、釜ヶ崎に暮らす人々の状況は、
益々窮乏し、その中で様々な問題が発生しています。

どうぞ多くの方がお越しくださり、東日本大震災の被災地で暮らす方々、
震災以来、故郷を離れて暮らさねばならない方々を覚える時、
また、私たちの生きる社会の中で小さくされている方がを覚える時をご一緒いたしましょう。


日時:2015年4月26日(日)
     13:00開場
     13:30開演

出演:高橋和彦(マンドリン)
    夏川由紀乃(ピアノ)

高橋和彦さんのホームページです。
 右記アドレスをクリック⇒ http://members2.jcom.home.ne.jp/kazucarry/


入場無料(東日本大震災、喜望の家を覚えて席上献金をお願いいたします。)

釜ヶ崎ディアコニアセンター喜望の家ホームページ
 右記アドレスをクリック⇒ http://www.geocities.jp/kama04kibonoie/





4月12日の礼拝案内

主日の祈り
憐れみ深い神様。主イエスは生きておられます。私たちはもう主イエスを死者の中に捜しません。主は復活し、私たちの命の主となられました。復活の主キリストと共に生きる命を私たちのうちにさらに増し、あなたの民として、永遠の命に与るときまで、共に歩んでください。あなたと聖霊と共にただ独りの神、とこしえに生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:使徒言行録43235()220
32信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。33使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。34信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、35使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。

第二日課:Ⅰヨハネの手紙1122()441
1初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――2この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――3わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。4わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

5わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。6わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。7しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。8自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。9自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。10罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。

2:2わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。2この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。

福音書:ヨハネによる福音書201931()210
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

本日の讃美歌
はじめの歌291番|みことばの歌149
感謝の歌150番|聖餐の歌―番|終わりの歌515

説教題「キリストの平和」 竹田大地牧師

諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※詩編の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00
 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。

2015年4月3日金曜日

4月5日の礼拝案内

イースター


4月5日はイースターです。
イエス様の十字架の死からの復活を喜び祝います。
この日は、9時30分からのティーンズ礼拝はありません。10時30分から合同礼拝をいたします。
また、9時30分から武久の教会墓地にて墓前礼拝を執り行います。

礼拝後には、イースターの祝会がございます。どなたでもご参加できますので、お気軽にお越しください。会費は大人500円、こども200円です。


主日の祈り
憐れみ深い神様。主イエスは生きておられます。私たちはもう主イエスを死者の中に捜しません。主は復活し、私たちの命の主となられました。復活の主キリストと共に生きる命を私たちのうちにさらに増し、あなたの民として、永遠の命に与るときまで、共に歩んでください。あなたと聖霊と共にただ独りの神、とこしえに生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書2569()1098
256万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。7主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし 8死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。9その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。

第二日課:コリントの信徒への手紙一15111()320
1兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。2どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。7次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、8そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。9わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。10神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。11とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

福音書:マルコによる福音書1618()97
161安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

本日の讃美歌
はじめの歌262番|みことばの歌146
感謝の歌148番|聖餐の歌205番|終わりの歌164

説教台「ガリラヤで会おう」 竹田大地牧師

諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※詩編の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00
 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。