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2015年4月19日日曜日

4月19日の説教

説教題 「主の証人」

主日の祈り
聖なる義の神様。私たちをあなたの子としてくださったいのちの主よ。私たちをいのちの言で満たし、生涯み子の復活を証しする者にしてください。あなたと聖霊と共にただ独りの神、とこしえに生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

第一日課:使徒言行録31219()218
12これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。13アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。14聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。15あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。16あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。17ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。18しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、この/ようにして実現なさったのです。19だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。

第二日課:Ⅰヨハネの手紙317()443
1御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。2愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。3御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。4罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。5あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。6御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。7子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。

福音書:ルカによる福音書2436b48()161

36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日お読みした福音の日課は、ルカから与えられています。先週のヨハネにおける復活のイエスと弟子たちとの出会いでもそうでしたが、ルカにおいてもイエスは、突然に彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と告げ知らせ、恐れおののく弟子たちに向かって、手足を見せ、「まさしく私だ。」と語りかけてくださるのです。
そして、それでも尚、喜びのあまり信じ切れずにいる弟子たちに向かって、実際に魚を食べるというパフォーマンスをもってイエスが身体を伴って復活されたということを証明してくださったのです。

非常に具体的な描写を伴って復活のイエスと弟子たちとのやり取りが記されています。
そして、律法と預言、そして、詩編に書かれている事がらがイエスを通して実現したのだということを明らかにしてくださっています。ここでイエスの語られた「書かれていた事がら」とは、イエスがメシアであるということです。イエスを通して、神の律法が完成し、預言が成就され、詩編の祈りが聴かれたということです。
このことを語られたのちに、イエスは、弟子たちの心を開き、聖書を悟らせました。

このことから、示されることは、弟子たちは、イエスが聖書を悟らせることによって、イエスの復活が真実であり、聖書に記されていたことが本当に実現したことを悟り、この出来事の証人とされていったのです。
ですから、彼らは、イエスが顕れた時も「亡霊」だと思ったと記されているように、始めイエスが復活されたことを信じられませんでした。さらに、イエスが、魚を一切れ食べて尚、そこに居る人が霊ではないが、イエスだとは分からなかったのだろうと思いますし、聖書にもそこで弟子たちが、その人がイエスだと分かったとは記されていません。

しかしながら、今日の御ことばにおいて重要なことは、その後のことです。
それは、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」と聖書に記されているイエスのことについて弟子たちに説き明かしてくださって、心を開いてくださったことに依ります。

この出来事は、今日の福音の直前に知るされている「エマオ途上」でも同様の事がらが起こっています。二人の弟子たちは、イエスだと気づかなかったが、イエスは「聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明され」、そして、パンを裂いた瞬間にイエスだと弟子たちは、目が開けイエスだと分かったと記されています。

このように、今日の出来事においても、イエスは、御ことばについて説き明かしてくださり、イエスご自身が弟子たち心の目を開き、悟らせてくださったのですから、復活のイエスを本当に信じ、悟ることに先立って、イエスが御ことばを語ってくれたことに依ります。
つまり、私たちが、イエスの復活を信じるという時、起こる出来事は、イエスの語りかけがあるということです。
私たち自らが理解して、知り、悟ったのではなく、イエスご自身が私たちのただ中に顕れてくださり、御ことばを語りかけてくださって、知る者となった、悟るようになったのです。
ですから、この今与えられている信仰は、神からの恵みであり、神の御業によって成った事がらなのです。

この事によって私たち一人ひとりは、神の恵みに気づかせていただいているのです。
何故、イエスが十字架で死ななければならなかったのか。それは、「御子を愛するほどに、世を愛しぬかれた」神が居るからです。と、同時にイザヤを通して語られた預言が成就し、その愛が具体的に示されたしるしとして、私たちの前に十字架が掲げられているのです。

本来であれば、私たちは神の法廷に立たされれば、皆、誰もが罪人です。自分を愛し、他人を愛せない自分が居ます。仕えることよりも、人の上に立とうとする自分が居ます。謙遜よりも傲慢な自分が居ます。施すことを躊躇してしまう自分が居ます。信仰は、神からの恵みであるはずなのに、誰よりも祈っている、感謝していると信仰が行いによって与えられるのだと誤ってしまう自分が居ます。
本当に、自分自身を顧みても、多くの罪が有ることに気づかされますし、必ず自分自身気づかないうちに罪を犯していることでしょう。

そのような私は、本来であれば裁きの対象であったはずです。しかし、神はそうされなかったのです。私たち一人ひとりが、主に立ち帰るように、愛する御子を遣わし、聖書の真理を明らかにしてくださいました。御ことばの恵みを与えてくださいました。それでも尚、罪を犯してしまう、私たちのために、イエスを十字架に架け、贖いの生贄とし、この1人の人の死を通して私たちの罪を赦すという愛を示して下さいました。しかもそれは、私たちが負うはずの傷を、ご自身が傷つくことによって、私たちが負うはずであった十字架を担うことによって、私たちの罪を赦してくださったのです。上に立つのではなく、徹底的に己を低くして、私たち人間に仕えてくださったのです。

その方が今こうして私たちのただ中に顕れ、再び御ことばを説き明かしてくださり、聖書の真理を告げ知らせてくださいます。しかも、そればかりでなく、この時からイエスご自身のみが神について証しするのではなく、この小さく、罪深い私たちにも、聖書を悟る心与えてくださり、私たち自身を神の証人として召してくださっているのです。

イエスの御ことばは、真実であり、聖書の事がらがイエスを通して実現したこと、すなわち、人間の罪がイエスと言う人を通して贖われ、復活を通して、赦された者が永遠のいのちの中に置かれる。死んでも、生きる者とされるという喜びのおとずれを信じる者へと変えられているのだという恵みを伝える者にされているのです。
イエスの死が、単なる処刑ではなく、その御姿に示される神の栄光を豊かに証しする者へと、復活のイエスを通して神から召しが与えられているのです。

私たちは、一人ひとりが神を知る者とされた、イエスを知る者とされました。
知らない時、神の愛、恵み、平安、栄光、赦しを知りませんでした。それ故に、この方を十字架に架けて殺してしまいました。けれども、今や私たちは、この十字架も、復活も知る者へと変えられ、神の福音の真理を知る者とされているのです。イエスご自身が、私たちのただ中に顕れてくださり、私たちの心を開いてくださり、聖書を悟る者としてくださっている。この恵みを日々受けながら、私たちは、証しする者とされているのです。

私たちは、一人ひとりが証し人です。牧師は、御ことばの執り成しを司っていますが、牧師だけで宣教が成されるのではありません。この時、その場にいた弟子たち全員に語りかけられ、悟らせてくださったように、私たちは今、主の語りかけによって、ここに集う者すべてが証し人として召されているのです。
この与えられた召しに私たちは誠実に応えていきましょう。神の御ことばが、この世で多くの人に知られるようになり、神の計り知れない恵みの数々が、人を癒し、励まし、慰め、力づけてくださる喜びを、私たち自身このメッセージを喜びつつ証ししてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。