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ようこそ日本福音ルーテル下関教会のHP兼ブログへお越しくださいました。

日本福音ルーテル下関教会は2015年に宣教100周年を迎えました。

ドイツの宗教改革者マルティン・ルターの流れをくむ伝統あるプロテスタントのキリスト教会です。

どなたでもお越しください。心より皆様のお越しをお待ちしています。

教会には聖書と讃美歌の準備がございます。どの集会も手ぶらでお気軽にお越しください。

マタイによる福音書11章28節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

2015年4月10日金曜日

4月5日の説教(イースター)

説教題 「ガリラヤで会おう」

主日の祈り
憐れみ深い神様。主イエスは生きておられます。私たちはもう主イエスを死者の中に捜しません。主は復活し、私たちの命の主となられました。復活の主キリストと共に生きる命を私たちのうちにさらに増し、あなたの民として、永遠の命に与るときまで、共に歩んでください。あなたと聖霊と共にただ独りの神、とこしえに生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書2569()1098
256万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。7主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし 8死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。9その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。

第二日課:コリントの信徒への手紙一15111()320
1兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。2どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。7次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、8そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。9わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。10神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。11とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

福音書:マルコによる福音書1618()97
161安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

イースターおめでとうございます。今日この時、イエスの復活が成し遂げられたことをご一緒にお祝いすることができますことを本当に嬉しく思います。
この時、与えられている復活の福音の出来事からご一緒にひと時、神の御声に耳を傾けてまいりましょう。

さてイエスの復活は、神の勝利のしるしと言ってよいでしょう。この出来事を通して、死の縄目を神ご自身が打ち破ってくださり、死は終わりではなく、始まりである。このイエスの死によって永遠のいのちの約束がすべての人に与えられているということが明らかになりました。
この神の大いなる約束を私たちは受ける者として、この世のただ中に生かされています。そして、驚くべき事にこの約束は、キリストを知っている人も知らない人もすべての人に与えられ、すべての人々がこの永遠のいのちの約束に生かされているということを思い起こします。

そのことが、イザヤ書においても語られています。
「主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし 8死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。」
まさにこの預言がイエスの復活を通して実現したのです。
私たちは直接に神の御顔を仰ぐことは許されていませんが、しかしながら、私たちを遮り、神を見えなくする罪の覆いは取り去られました。そして、死が滅びや終わりではなく、死によってもたらされていた滅びという力を神ご自身が滅ぼしてくださり、私たちに勝利の歌を歌わせてくださる。喜びの歌を歌わせてくださるのです。

イエス・キリストを死にわたし、悔恨と、苦しみ、悲しみの中に置かれていた弟子たちに喜びの勝鬨が聞かされる、そのような時がイースターです。そして、この勝鬨は、今を生きる私たちにも聴かされ、与えられている出来事なのです。それは、御ことばに聴くごとに、毎主日の礼拝ごとにそのことを覚えています。

そのことは、今日の福音でも豊かに示されています。
この日、婦人たちにとって暗い朝でした。イエスを葬り、その遺体の手入れをするために墓に向かっていたのです。師であり、最も慕う方を失い、失意の足取りであったことは間違いないでしょう。
だれがあの大きな墓石を転がすのかと思案しています。まさに、イエスの死は、あの大きな墓石のように、女性たちの心をすっかり覆い、婦人たちの信仰をすっかり萎えさせてしまっているのです。
しかしながら、彼女たちは、驚きに包まれます。その重い墓石は取り除かれ、中に入ってみると、そこにはイエスの遺体はなく、若者が座っているだけなのです。

しかも、この若者は驚くべきことを、婦人たちに告げます。
それは、「驚くことはない」という言葉です。イエスの墓が暴かれ、恋い慕う師であるイエスの遺体が無いことを確認したのに、「驚くことはない」と告げられるのですから、何のことか分からずに、狼狽えるほかないのです。
しかも、この御ことばは、命令形で語られているわけですから、一種の威厳ある者として彼女たちに語りかけられています。

つまり、この「驚くことはない」という言葉には、この世の何ものでもない方の威厳がそこに示されているということです。狼狽え、何のことか分からずに居る者に対して、このことは驚くべきことではないと語りかける方が居るということです。
なぜならば、この出来事が、既にイエスを通して語られていたことであり、聖書を通して既に語られていたことだからです。目の前でイエスが十字架に架けられ、死んだのを見、そして葬った者にとって、その預言は、何の意味も成さないと思っていた事がらが、この「驚くことはない」という一言によって覆されたのです。あの御ことばは、今も生きて働いているということを、私たちに告げ知らせる福音なのです。

婦人たちは、十字架のそばでイエスの死を見届け、埋葬し、確かにイエスが死んだことをその目で見ました。しかしながらそれが、神によって覆され、ハッキリと「復活され、もうここには居ない」と告げられます。
つまり、もうイエスは、死の縄目の中にはおらず、そこから立ち上がり、既に新しい歩みの中へと行かれているということです。そして、言われていたとおりガリラヤで再びイエスとの出会いが与えられると語りかけます。

ガリラヤとは、イエスの宣教の原点です。そこから始められ、神の福音が世に響き渡りました。すなわち、その始まりの地から新しい福音も告げ知らされるということを語っているのです。と、同時に、ガリラヤは、最初の弟子たちがイエスに従っていった所でもあります。つまり、私たちは、再びイエスの招きに与る者として、初めの地から再び私たち一人一人を弟子としてくださるという慰めがそこにあるのです。

十字架の場面で、裏切り、イエスを知らないとさえ言ってしまう、散り散りに逃げ去り、その十字架の死が終わりでないと言うことを悟ることの出来ない不信仰な私、「殺せ」「十字架につけろ」と叫んでしまう私をイエスは、再び復活のイエスは招いてくださっているのです。

さらに言うならば、招きは、とりわけ現在の私たちに取って最も豊かに示されているのは、礼拝です。礼拝は、神の招きによってなり、その招きに応えるという神との交わりが与えられている時です。
すなわち、今、私たちはこの時、ガリラヤに居るのです。そして、毎週の礼拝の中で復活の主との出会いが与えられている、そういう栄光に与っているのです。この時は、ただの儀式の時ではありません。
この時、復活のイエスが、私たちを招き、復活のいのちを豊かに与えてくださるという恵みが溢れているのです。十字架も復活も一度きりの出来事です。しかしながら、私たちは、その救いの出来事と、神の約束を毎週思い起こし、罪を赦されているという深い神の愛をいつも受ける者とされ、神の御声を聴く者とされているのです。

週日の歩みの中で、私たちもまた婦人たち同様に様々な思いが去来し、心が重たくなる、悩みや、苦しみ、悔しさ、悲しみ、時には不甲斐なさも覚えながら過ごします。その足取りは、主イエスを信じていながらも、お一人お一人様々にその思いはもたれることでしょう。時として目を上げて歩むこともままならない。
しかしながら、その思いは、そのままにされないのです。墓石が転がされているように、それは礼拝毎に既に取り除かれ、そこから立ち上がり、再び神の招きに与り、癒され、慰められ、励まされるのです。

私たちは、日々そういう神の営みの中に置かれているのです。復活を通して、ガリラヤでお目にかかれるということは、今を生きる私たちにとっては、礼拝でお目にかかれるということです。このリアリティーを私たちは与えられています。復活の主が、私たちをここへと招き、御ことばの恵みを通して、私たちと出会ってくださっているのです。
イエスの死が私たちに終わりを告げたのではなく、その死を通して復活することによって私たちにあたらしいのちの在り方を示し、再び神との出会いが与えられるという福音の出来事が起こっているのです。
イースターという特別な主日を迎えています。しかし、これが年に一度の出来事ではなく、毎週与えられ、私たちを力づけてくださっているということを受けとりつつ、これから始まる一週間の歩みをそれぞれに刻んでまいりましょう。
また来週にイエスと再びお目にかかるときまで、このイエスの招きの中にある平安を携えて歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。