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2018年4月5日木曜日

主の復活(イースター)主日説教


「あの方は復活なさった」


主日の祈り
憐れみ深い神。主イエスは生きておられます。私たちは もう主イエスを死者の中に捜しません。主は復活し、私たちの命の主となられました。復活の主キリストと共に生きる命を私たちのうちにさらに増し、あなたの民として、永遠の命に与るときまで、共に歩んでください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編118:1-2&14-24
118:1恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
2イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。

14主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。
15御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。
16主の右の手は高く上がり/主の右の手は御力を示す。

17死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。
18主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。

19正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。
20これは主の城門/主に従う人々はここを入る。
21わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。

22家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
23これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
24今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

本日の聖書日課
第1日課:イザヤ書25章6節‐9節 ()1098頁
25:6万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
7主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし
8死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
9その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。

第2日課:使徒言行録10章34節‐43節()233頁
10:34そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。35どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。36神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、37あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

福音書:ヨハネによる福音書20章1節‐18節()209頁
20:1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10それから、この弟子たちは家に帰って行った。

11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

イースターおめでとうございます。主の復活をお祝いするこの時をみ言葉と共に与れましたことを神に感謝いたします。この時、ご一緒に与えられたみ言葉を通して主の復活の恵みとは何か神に聴いていきたいと思います。

今日与えられている主日の祈りにおいて、私たちは心を合わせて「主イエスは生きておられます。私たちは もう主イエスを死者の中に捜しません。」とお祈りをいたしました。そうです。イエスは、もはや死の中にいません。それは、マリアが告げているように「墓から取り去られ」たのです。墓は、死者を葬る器として用いられています。たしかに、十字架の死の日、イエスは墓に埋葬されました。イエスは十字架の上で死に、たしかに死の中に置かれたはずです。

しかし、復活の朝、イエスは、死の中に居られないのです。主イエスは死から復活されたから。それは、弟子たちは墓の中に「亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」ことを認めていたわけですが、これはイザヤ書で語られている「主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし8死を永久に滅ぼしてくださる。」という預言の実現を思い起こさせます。

つまり、主イエスは、死に勝利され、それを「永久に滅ぼしてくださ」ったのです。しかも超自然的な存在として、霊的な存在として復活することによって、永遠の命の約束をお与えになったのでなく、人間として確かに死に、人間としてたしかに復活することによって、私たちもまた、この神のみ子のみ業によって、同じ恵み、同じ死の力への勝利に与っていることをお示しになられたのです。

しかも、この方は、私たち自身が十字架に架けて殺してしまった方です。何の罪もピラトが見いだせなかったにもかかわらず、私たち自身が「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫び、鞭打ち、荊の冠を被せ、その衣を裂き、平手で打ち、十字架を負わせた方です。主なる神は、その事実をご存じです。私たち人間が神の愛する御子を殺したということを。しかし、神は、この十字架の死こそが、私たちの救いのためであり、私たちを愛し、赦すためであることをお示しになりました。

そして、罪の贖いの小羊として自らの命を捧げ、赦しを現実としてくださったのです。しかし主の救いの出来事は、十字架の死で終わったのではありませんでした。復活という出来事を含めて、私たちの信仰の恵みが在ります。なぜならば、罪に死んだままであれば、私たちは赦しを得ただけであり、その先の希望については分からないままだからです。

主が復活なさったということは、罪に死んだ私たち自身が、その先に示されている神の希望に生きるかということをもお示しになっているのです。それが、先に申しましたように、墓から取り去れた、死から取り去られたということと繋がっていくのです。すなわち、主イエスが、死から復活の命に生きるお姿を示してくださったことによって、私たちもまた罪に死んだ者の一人であり、復活の命に生きる存在とされているという約束を復活のイエスを通して与えられているのです。

永遠の命に生きるということは、肉体の死がな、不老不死ということではありません。永遠の命に生きるということは、始めから終わりまで世を生きて支配されているのは神なのですから、その神の御手の内に私たちはいつまでも生かされているということです。永遠の命に生きる約束、復活の命に与る恵みとは、この神の御手の内に在る者として祝福されているのだということです。

肉体的には、誰もがいずれ衰え、弱り果て、死を迎えます。肉体は滅びてしまうかもしれません。しかしながら、永遠を生きる主と共に私たちは生きるのです。
つまり私たちに与えられている希望とは、主イエスの復活を通して、私たちもまた罪に死んだが、イエスの贖いの十字架、赦しの十字架を通して罪に死んだ者とされた。しかし、イエスは復活をすることによって、神が罪に勝利される方である方を示し、この方を信じる信仰によって、神の永遠の御手の内に在る希望を与えてくださったのです。

今日与えられている日課において「その救いを祝って喜び躍ろう。」「民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。」とあるように、私たちはこの復活の恵みを宣べ伝える者、証しする者、喜ぶ者とされています。
世には、悲しみ、苦しみ、破れ、命の渇き、嘆きの中に置かれている方々がたくさんいらっしゃいます。私たちもそうであったように、この福音に生かされていることを待ち望んでいる方が居らっしゃるのですから、私たちは今日、ここから派遣される時、この神から与えられる喜び、愛、赦し、平安を宣べ伝えてまいりましょう。永遠の命の恵みにすべての人が生かされていることを力強く証ししてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように 


2018年3月11日日曜日

四旬節第4主日説教

「信じる者は一人も滅びない」

主日の祈り
平和の神。あなたは永遠の契約の血による大牧者、主イエス・キリストを死より復活させられました。

主に従ってみ旨を行うことができるよう、あなたの永遠の契約の血によって、御目にかなうことを私たちに実現し、善いことすべてを行うことができるようにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課

第1日課:民数記21章4節‐9節 ()249頁

21:4彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、5神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」6主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。7民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。8主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」9モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

第2日課:エフェソの信徒への手紙2章1節‐10節()353頁
2:1さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。4しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、5罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――6キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。7こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。8事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

福音書:ヨハネによる福音書3章14節‐21節()167頁
3:14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」


【説教】

本日与えられている民数記におけるイスラエルの民を見てみますと私たち人間がいかに信仰において薄弱で、脆いかということが露呈されます。イスラエルの民は、エジプトを出て30年間荒野を彷徨わなければなりませんでした。それは現代の私たちにとっては途方もない旅であり、想像を絶する旅であったことと思います。

しかしながら、時間というものは私たちを時として苦しめます。特に苦しく長い出来事が続いていくと人はどうしてもその状況に対して嘆きを覚えます。聖書は「耐えきれなくなって」と書いていますが、原典から直訳すると「魂が落胆して」です。すなわち、この時、イスラエルの民は心の底から疲れを覚え、心から落ち込んでいるのです。その中で人は、神に対して疑いを持ってしまうのです。何故神は私をこのような状況に追い込むのか、苦しめるのかと神に疑いをもってしまうのです。

魂が落ち込み、力も出ないときにこそ私たちの信仰は試されます。そして、その弱まった魂に悪や、罪の力はいともたやすく私たちに牙をむきます。そして、荒野でそうであったように、私たちはその牙によって死んでしまうのです。すなわち、罪とは私たちを死に追いやる牙であり、特に魂が弱り、落ち込んでいる時にその力は凄まじい脅威となり、それに抗うことができないのです。

さらに人間は、罪という事がらにおいて、自分自身が神に対して犯した罪であるにもかかわらず、それを抗いきれない真実を今日のみ言葉は如実に語っています。自分で犯した罪の結果が死であるにもかかわらず、それを逃れる術を私たち自身は持っていないのです。ですから、私たちは罪の力に対して、裸で腹を空かした猛獣の檻に入れられているようなものでしかありません。そこから逃れる檻の鍵も持ち合わせていないのです。

罪の力に対して私たちに成す術もない姿を見て神はどのような御手を下されたかと言うならば、青銅の蛇を旗竿の先に掲げ、悔い改めてそれを仰ぐ者に命を得させることによって救いの道をお示しになりました。自分自身を死に至らしめた蛇を仰ぐとはどういうことでしょうか。それは、自分が何ゆえに死に至る牙に襲われたかということを思い起こすためではないでしょうか。

私は罪によって死に至る、死の世界に飲み込まれて行ってしまう。そのような中で主に悔い改めていくにあたって、主は己の罪を見つめよと仰っているのです。お前は何ゆえ死の牙にかけられているのか、私のゆえか、それともお前のゆえかということが問われているのです。蛇は誰の悪か、誰の罪かと問いかけているのです。その答えはパウロが「自分の過ちと罪のために死んでいた」と語っているように私の側にあるのです。神のみ前に罪を犯しているのは私自身である。

神を疑い、神を非難し、神を拒んだのは、私です。魂が落胆し、力が出ないときに、神により頼むのではなく、神に対し神を否み、疑うという振る舞いをし、神に対して罪を犯したのは誰でもなくこの私なのです。徹底的にその要因は、私にあるということを深く自覚する、それが青銅の蛇であり、そして、主イエスの十字架なのです。

この掲げられた方は、私が神に対して犯した不義、不信仰、疑い、冒涜ありとあらゆる姿を映し出すのです。そして、同時に十字架には神の愛が顕されています。十字架には神の憐れみ、慈しみ、愛、恵みといった私たちの救いにおいて不可欠の神の賜物があります。苦しみでしかないその主イエスのお姿の中に、神からの善いものが示されているということを今日の福音は告げています。

主イエスの十字架を見上げるごとに、イスラエルの民が蛇を仰ぐごとに、自分の罪を見つめ、悔い改めの機会を与えてくださり、主により頼むことによって与えてくださる恵みをお示しになってくださっているのです。主イエスは、宣教の始めに「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。悔い改めとは、自分自身の罪を神に告白することです。そして、その罪を主に差し出し、ただただ主の赦しに希うほかないという信仰の告白です。

その告白を主は聞き入れてくださいます。自分で自分の罪を贖うことの出来ない罪深い私を神は見つめ、憐れんでくださり、賜物として主イエスの十字架を通して赦しを与えてくださるのです。主イエスの十字架を見つめつつ、その十字架に私の神に犯した罪があることを深く自覚し、悔い改めるとき、神は裁き主として厳しく臨む方ではなく、救い主、愛なる神として私たちに臨んでくださっていることに気が付かされます。

私が負わなければならなかった十字架を、赦される術を持たない私のために、罪に対して弱く、死ぬほかない私のために主イエス自らがそれを担ってくださろうとしているという驚くべき御業を私たちは今日のみ言葉から知らされています。第1ヨハネの手紙に「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」と証されているとおりです。

救いの始めは、主の愛であり、その主の愛を信じ、自らの罪を見つめ、悔い改めていくことです。主の愛によって私たちは赦され、生きる者とされているのです。光の中を歩む者となる道を神はお示しになってくださっているのです。その始めは、罪という闇に身を置くのではなく、主イエスの十字架から注がれる光に自らを晒すことです。自分の罪、悪を明るみにだすことを恐れることはありません。

神は私たちを愛してくださっています。裁くためではなく、愛するために主イエスを遣わしてくださっています。主はわたしの罪を既にご存知です。もし自分に罪が無いと言うならば「それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(第1ヨハネ1:8)。神ご自身を否むことでしかないのです。ですから、私たちは正直に神のみ前に罪や悪を告白し、主イエスの十字架にすべてを委ねていきましょう。十字架にすべてを委ねるということは、神の愛にすべてを委ねることです。

四旬節にあって、改めて主のみ前に罪を告白し、悔い改めていくことの恵みを心に留めていきましょう。裁かれるのではないかという畏れからではなく、神の愛に信頼して、赦しの御業である十字架を仰ぎ見つつ悔い改めの日々といたしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように 

2018年1月26日金曜日

顕現後第3主日説教

「私を見つけるイエス」

主日の祈り
全能の神様。あなたは、ただ恵みによって私たちを召し、あなたの働きに招いてくださいます。聖霊によって私たちを強め、あなたの招きにふさわしいものにください。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
1日課: ヨナ書315&10 ()1447
3:1主の言葉が再びヨナに臨んだ。2「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」3ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。4ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」5すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。

10神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

2日課:1コリントの信徒への手紙72931()308
7:29兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、30泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、31世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

福音書:マルコによる福音書11420()61
1:14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18二人はすぐに網を捨てて従った。19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

【説教】

顕現節を送るということは、主イエスがこの世で歩まれていた時にどのような御心を示し、教え、導いてくださっていたかということを覚えるときでもあります。そして、この働きを通して私たちは主の栄光を見る者とされています。そのような時にあって今日の主日のために与えられている福音は、主イエスの伝道の始まりと最初の弟子たちを召し出した出来事から聴いています。この御ことばに示されている神の栄光とは何か共にしばらくの間聴いてまいりましょう。

主イエスが宣言した福音の始めの御ことばは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。ここで示されている「時」という言葉は、原典の言葉は「カイロス」という言葉があてられています。ギリシャ語には二つの「時」を表す言葉があります。もう一つの言葉は「クロノス」という言葉です。クロノスは、いわゆる時間をさします。何時何分、何時間、何分とか量的に表現する場合において用いられます。

では、ここで主イエスが宣言された「カイロス」という時とはどのようなことを表すならば、それはその時には決定的な意味がある「時」がカイロスなのです。この言葉はもともと分断する、遮断するという言葉から派生してできた言葉です。平たくいうならば、妻と、夫と運命の出会いをした「時」、人生の岐路の「時」を示す場合に用いるのが「カイロス」であり、今までの持つ時の意味と決定的な違いをもたらす言葉なのです。ですから、この主イエスの宣言は、その「時」に大切な意味がある。神のみ心がそこに決定的に働いているということを意味しているのです。

では、決定的な時とはヨハネが捕らえられたという事件から始まります。と言うことは、先見者であるヨハネまでと、イエスからでは決定的にその時の意味が変わると言うことです。
何が変わったのか。結論をまず述べるならば、神が約束されたメシアをあなたがたの元に遣わすという御ことばの到来を意味するのです。そして、この時は、私たち自身において決定的な時なのです。

なぜならば、この時をもって、神の救いの御心が神ご自身の口をもって直接に宣べ伝えられ、私たちにその御手をもって救いが与えられていくからです。それまでは、ヨナ書にあるように預言者や祭司といった召しを受けた人々の口を通して御ことばが伝えられていたのが、神ご自身がこの世に現れ御心を示してくださっているのですから、それまでの時の持つ意味とは明らかに違うことは明らかです。

そのような時にあって、主イエスは私たちに「悔い改めて福音を信じなさい」とお命じになられました。それまで自分が信じていたもの、富や名声、家族、教師、知識などこの世の何かではなく、神の方に向き直し、神と顔と顔を合わせて、神から出る言葉を信じなさいと命じられているのです。それは、はっきり言うならば、救いにおいて必要のない事がらであると私たちに言っているのです。ただそれまでの古い自分を捨てて、神の御ことばにのみ信頼して生きなさいという神の命令です。

そのように語りかける神が、私たち一人ひとりに呼び掛けている出来事が、まさに4人の人たちを弟子にする場面に表されています。神の救いが、主イエスの宣言をもって到来していることを示しながら、イエスはその国に人を招いてくださっているのです。しかも、それは私たちが神を選ぶということによってなされているのではありません。聖書にあるようにイエスが弟子たちを召し出しています。

すなわち、私たち一人ひとりがキリスト者としてあるのは、私がイエスという人を神の子として認めて選んだのではないのです。マルコ福音書には、ここでイエスが素晴らしい行いをしたとか、教えを説いたとは書いていません。宣教の始めに示されている御心はただ神に信頼し、今までの古い自分を捨て、神に向き直り、神に委ねていくことでした。それが福音であると本当に単純なことを教えられたのです。

その神が、その神の御ことばに従う者として、召し出したのは漁師でありました。律法に精通した学者や、熱心なファリサイ派、サドカイ派、祭司、レビ人といった人々ではなく、素朴に生業をしている人でした。彼らは無学な普通の者だったと後に使徒言行録(4)で書かれているように、市井に生きる人々でありました。神は人の評価や、評判を心には留めません。もちろん、神の救いには、祭司もレビ人もファリサイ派もすべての人が与っています。

しかし、神の弟子として召し出され、神の救いをお示しになる時にあって、初めに召し出したのはそういう仲間内で評価が高く、評判で、神の救いにあの人は相応しいと思われている人にではなく、毎日を普通に過ごし、誰も目に留めないような市井に生きる人です。顧みてみるならば、私たち一人ひとりもそうであります。普通に市井に生きる一人であります。その私を神は御心に留めてくださり、私たちに呼びかけ、神の救いに与る光栄を与えてくださっているのです。

私たちは、この神に委ねてい生きる幸いを今一度心に留めていきたいと思うのです。そして、神の救いに委ねる幸いを心に留めて、この神こそが、私の希望であり、光であり、力であり、避けどころであるということを刻んでいきたいと思うのです。主イエスの宣言によって、それまでの時の意味が決定的に変えられ、私たちは神の国に置かれ、そこへ招かれていること、福音が鳴り響いていることを覚えていきたいと思うのです。

私たちは、神の救いに与る幸い、恵みを御ことばを通して知らされています。しかしながら、この福音が私たちの世に示されているにもかかわらず、未だにそのことを知ることなく日々の暮らしを送っている方々がたくさんいらっしゃいます。その福音を告げ知らせる弟子として私たちは召されている真実を改めて知らされました。
今年も総会を間もなく迎える時季を過ごしています。どうぞ一人ひとりがこの教会の宣教の業が果たして神の福音を告げ知らせるという働きにおいて十分に成し遂げているかということを顧みていきましょう。

神の救いはもたらされています。既に光はこの世に満ち溢れています。神の呼びかけが一人ひとりにあります。この声に応えていく信仰を与えられるような宣教の業をなしていきましょう。今日の福音を通して私たちの教会の「カイロス」としていきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 

2018年1月11日木曜日

クリスマス・イヴ・キャンドル礼拝説教

本日の聖書日課
ルカによる福音書21節~14節(新)102ページ
1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」



          「喜びの誕生」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

キリスト教は、イエス様を救い主と信じている宗教です。しかもこの救いは、キリスト教徒もそうでない人も含めてすべての人間にもたらされていると我々は信じています。今日は、そんなイエス様の誕生をご一緒にお祝いする日をできますことはとても嬉しいことです。
現代は、クリスマスも大変一般化されて街では綺麗なイルミネーションが飾られたりします。またクリスマスセールなどもあって、欲しかった物がお得に買えるかもしれないという期待感が膨らむ季節でもあります。

そういう何か浮ついてしまうような気持になりますが、始めのクリスマスの出来事であるこの聖書のみ言葉を読んでみますと、現代のような煌びやかで、賑やかな雰囲気は全くありません。
キリスト教において一番大切な方がお生まれになった記念すべき時を覚えているにもかかわらず、そこに広がる情景には暗い闇ばかりが広がっていたのです。

まず登場するのは、イエスの父ヨセフと母マリアです。聖書に「いいなずけのマリアと一緒に」と書かれているようにイエス様の両親はまだ結婚していませんでした。しかしながら、マリアは妊娠をしていました。今日の聖書の箇所の少し前にマリアが妊娠したのは、神様の御心によるということが書かれています。今では婚前妊娠は当たり前のようになってしまっていますが、当時の社会においては非常に深刻な問題でした。なぜならば彼らが生活していたのは、ユダヤ教を中心とした社会だからです。それはユダヤ教の教えを規範とする社会ということです。

ユダヤ教には律法というものが在ります。律法とは神様から人間に与えられた掟であり、それを守ることによって神様と人間とが義しい関係にあって、その正しさ故に救いや恵み、祝福といった善いものを受け取れるのだと考えられていました。ですから、律法を破るということは、神様との関係が破綻し、神様の怒りを買い、裁かれてしまう。滅ぼされてしまうと考えられていました。

そのような社会の中で婚前妊娠はどのようにとらえられていたかというならば、十戒という最も大切な十個の律法の内の一つである「あなたは姦淫してはならない」という掟を破ったということになるのです。神様の律法が書かれている聖書箇所を読んでみますと『しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で撃ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。』(申命記222021)とあるように、結婚前に不貞があった場合には「石で撃ち殺されねばならない」と書かれています。

つまり、マリアは神様によってイエス様を身ごもったわけですが、自分自身はこの出来事によって命の危機に置かれたということです。人間的な思いに素直になるならば、とてつもない不安や、怖れを抱かざるを得ないでしょう。その怖れの中でヨセフとマリアは、そういう人間的な思いを突破してくださる神様の御心に自分を委ねました。しかしそれでもやはり恐れはあったに違いありません。

また、もう一つの登場人物である羊飼いたちを見てみましょう。彼らは夜の闇の中で羊が獣に襲われないように番をしていました。彼らはベドウィンと言われていました。現在もそういった方々がイスラエルに行くといらっしゃいます。羊を飼いながら、遊牧民生活をして生活をしているのです。
彼らは定住をしません。長年の中東の歴史の中で国同士の争いに巻き込まれながら不安定な生活をしなければならい人々でした。しかも、彼らは社会の中でも最下層に置かれている人々でした。人々から嘲笑され、無視されていた存在だったのです。

そのような人々に、イエス様の誕生はまず知らされたのです。しかもそこはエルサレムというイスラエルの首都ではなく、片田舎のベツレヘムです。ベツレヘムもイスラエルの中では非常に田舎で、誰も目を止めないような寒村でしかありません。イエス様の誕生という喜ぶべき出来事は、誰からも重要視されない場所で、社会からはじき出され、不安定な生活の中に置かれている人々に、そして、命の危機にあって怖れを抱きながら歩む名も知れない夫婦のもとに起こったのです。

しかしながらこれらの事がらこそが、神様の救いの意味を明らかにしてくださっています。翻って私たち自身を見つめてみましょう。私たちは大なるものが善いと考えます。選挙にしても結局のところ多数決です。多くを獲得したものが勝つ仕組みです。また、財産にしても多くを持っている方が素晴らしい、良いことだと考えます。東京の方が色々な物や人が溢れていて良いなと思います。煌びやかな世界に憧れを抱きます。

しかしながら、神様は救いを示すにあたって、そのような場所や人のもとには来られませんでした。救い主イエス様が来られたのは、先ほども申しましたように、誰も重要だと思わない寂れた町の家畜小屋であり、恐れの中にあるヨセフとマリアのもとに、暗闇の中で生きねばならない羊飼いのもとに光として現れてくださったのです。完全な暗闇の中に神様はイエス様という光で満たしてくださるのだと聖書は私たちに教えてくださっています。怖れの中に、不安の中に、誰も目を止めないところに神様は来られ、そこにある人々の思いを慰め、励まし、癒し、力づけ、善いもので満たしてくださるのです。

皆さんはどうでしょうか。日々の生活に追われて疲れを感じることはありませんか。何か言い表せない虚しさや、寂しさを感じたことはありませんか。一生懸命家族のために働いているのに誰からも感謝されないという思いを感じたことはありませんか。この先、自分たちの生活は、我が子の将来はどうなるのだろうかと恐れを感じたことはありませんか。

きっとここにいらっしゃる皆さんそういう思いに駆られたことがあると思います。その思いに神様は、御子イエス様の誕生を通して、あなたと一緒に居るよ、あなたのその思いを受け止め、あなたの暗い心に光を灯すために来たのだよと語りかけてくださっているのです。なぜそんなことを神様はしてくださるのかと言うならば、神様は、皆さんお一人おひとりに無関心ではいられないからです。神様は、そういう思いに囚われている人、一人ひとりをどうにかして、安心させてあげたい、癒したい、励ましたい、慰めたいと切に願っているのです。

それはつまり、神様は一人ひとりがとても大事なのです。順番はつけられません。すべての人を平等に愛してくださって、私たちのそういう弱さと引き換えに、神様の力や善いものを一人ひとりに惜しみなくいつも与えてくださっているのです。
何か私が素晴らしいことをしたから善いものが与えられたのではなく、神様自らが私たち一人ひとりのために働いてくださって、私たちの弱さや不安、怖れを引き取ってくださって、愛という素晴らしいプレゼントをくださったのです。この神様の愛に照らされているわたしの命であるということを心に留めてください。

そのことを心に留めることによって、神様が私を愛してくださっているのだから、私の家族も友人も、生活の中で視線に入ってくるすべての人にも神様は愛してくださっているのだということに気が付かされます。そうすると、自然と生活にしても、仕事にしても、子育てにしても、誰かのために何かをするということは「しなければいけない」という思いから解放されて、神様に同じように愛されている人たちを私も愛して、その人たちが本当に生きるようになるために働くことこそが喜びだという思いに変えられるのです。

他者のために生きることとは、そういう神様の愛に照らされて本当にできるようになるのです。ぜひ皆さんこのクリスマスの時にあたって、私たち一人ひとりが抱える暗いところに神様が愛をもって来てくださったという喜びを心に留めてください。つまり、喜びの誕生とは、本当の愛の誕生の日であり、その愛によって私たちもまた互いに愛し合い、生かし合うことの喜びに活かす出来事であるということを心に留めるクリスマスのひと時としていきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 

2017年12月17日日曜日

待降節第3主日説教

主なる神様、あなたを仰ぐすべての民の思いを奮い立たせ、預言者の言葉に耳を傾けることができますように。あなたの霊によって油注がれ、あなたの光を証することができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編126
126:1【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。
2そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
3主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。
4主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
5涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

ルカ1:46b55
「わたしの魂は主をあがめ、47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、50その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。51主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、52権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、53飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。54その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

本日の聖書日課
1日課:イザヤ書6114&8-11 ()1162
61:1主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
2主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
3シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
4彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。

8主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。まことをもって彼らの労苦に報い/とこしえの契約を彼らと結ぶ。
9彼らの一族は国々に知られ/子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう/これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。
10わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。
11大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる

2日課:1テサロニケの信徒への手紙51624()379
5:16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。19“霊”の火を消してはいけません。20預言を軽んじてはいけません。21すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。22あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。23どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。24あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

福音書:ヨハネによる福音書168&1928()163
1:6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

アドヴェントクランツに3つ目の火が灯り、刻一刻と主イエスの誕生、救い主の到来が近づいていることを目に見える形で私たちは知らされています。そのような中で先週に引き続いて、洗礼者ヨハネの出来事から私たちは神のみ心に聴いています。洗礼者ヨハネと祭司やレビ人に遣わされた使者とのやりとりが展開されていますが、このやり取りが何を意味し、どのようなみ心が神から示されているのか共に聴く時としていきましょう。

さて、この時代も、というより祖国を失って以来、ユダヤ人たちはメシアの到来を首を長くして待ち望んでいました。旧約聖書に示されているメシアが神から遣わされ、自分たちを救い出してくれるという約束の実現を非常に長い間待ち望んでいますし、現代にあっても彼らはそのことを待望し続けています。そのような中で洗礼者ヨハネが登場するのです。その行い、言動はあたかもメシアのようでもあり、メシアが到来する前に現れるエリヤや預言者のようでした。

彼らはヨハネに「あなたは、どなたですか」と問いかけます。祭司とレビ人から遣わされたと記してありますから、それはある意味で何の権限でそのようなことをするのかと問うているのです。ヨハネは、悔い改めの洗礼を民衆に呼びかけていました。清めは、祭司やレビ人に与えられた働きでした。ですから、彼がなぜそのようなことをするのか。どのような権威のもとに行っているのか問いただす必要があったのです。

もし、メシアであればそれは正しい、エリヤであればそれもまた正しいことであり、預言者の場合においても然りです。そのようにして彼らはヨハネの権威について調べようとしたのです。しかしながら、ヨハネはそれら全てを否定しました。そして、彼はイザヤ書を引用して「主の道を整える者である」と答えました。その誰でもない、しかしながら、自分は救い主が来られる道を整え、神のみ旨を示す者であると言ったのです。

その方こそが真のメシアであるという証をユダヤ人たちにしたのです。救い主が来られるということを証することによって、人々の視線を神ご自身に向けさせようとしているのです。これこそが大切なことです。「証」とはその人の素晴らしい経験や体験を聞いて感嘆することではありません。「証」とは、その人の口を通して、神ご自身に出会う経験です。

極端なことを言うならばその人自身の背景や、この世的な地位とか、名誉、財産に関係はありません。それら一切無しにしても、証言者を通して、神を見る言葉こそが証なのです。ヨハネ福音書の始めに「言は神であった。」(11)「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(14)と語られています。

証はその人の言葉を通して神の出来事、神ご自身について語られ、その「言」が私たちを照らす光そのものとなるのです。人間の内には誰しも心の暗い部分があります。後ろめたさ、劣等感、不安、恐怖などそれは様々な形で私たちの心を支配しようとして、力を奮ってきます。この力に私たちはしばしば敗北します。そして、その暗闇の最大の力が罪です。罪は神を見えなくしてしまいます。神を見えないようにするのですから、自ずと私たちは神以外のものを神とし、本当の光の輝きを知ることができなくなってしまうのです。

しかし、神はこの闇に打ち勝つ方です。私たちのその暗闇に光をもたらしてくださる方です。それは「打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」と語られているように、暗闇から自由にされて安心して光の中を歩むようにするために神は「言」として、またその言は命として私たちのもとに来られるのです。私たちがどうこうしたということではなく、神ご自身が人となられた言であるイエスを遣わすことによってその光は私たちと共に在るものとなられたのです。

エレミヤ書に「陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。」とあるように、私たちは闇によって自分自身を砕かれたならば、本当は自分自身で自分を元の形に戻すことはできません。どんなに上手な修復師が直しても、100%元通りとはいかないように、私たちは闇によって砕かれ、自分自身で直した気になってもそれは歪なのです。それは、律法にある通り、自分の犯した罪の分だけ贖ったと思っても、気づかずに犯した罪は放置され、完全であるように見えて、実はそうではないということと同じです。

祭司、ファリサイ派、レビ人などの当時の特権的な地位を占めていた人々は、まさに自分が完全な者であるかのように振る舞っていました。罪など犯していない、神のみ前に真に義しい存在だと思い込んで、自分が罪人であることなど微塵も考えていませんでした。
しかし、主イエスはこの歪な私たちすべての人間をみ言葉を通して、完全に造り変えてくださったのです。「廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。」と預言の言葉にある通り、私たちを真に救い出し、完全な者として、あらゆる闇や、歪から解放するのは主イエスであるということは、明らかなことなのです。

その確かさの中で、私たちはその主イエスを証するのです。この世のどの権威にもなびくことなく、また時には抗いがたい力に晒されながらも、絶対に人間の後ろめたさ、劣等感、不安、恐怖から、また私たちの歪な命を造り変え救い出す唯一の方は主イエスであると証していくことが、私たち一人ひとりに与えられている働きなのです。

ですから、この主イエスを待ち望む時にあって、洗礼者ヨハネを通して示されていることは、神を証し、全ての人がこの救いに与っているという恵みを私たち自身も告げ知らせることなのです。私たちは主イエスを待ち望む者でありながら、同時に神の救いのみ心を知らされている者でもあります。そうであるならば、今、この世に来ようとしている方がどのような方か宣べ伝えずにいられるでしょうか。

私たちの周りには、私自身を含めて神の救いを切実に望んでいる方々がたくさんいらっしゃいます。今年は、様々な不安が襲った出来事が起こりました。戦争になるのではないかという不安、核の脅威に晒され続けている人々、人の不安や弱さ、脆さに漬け込んで起こった凄惨な殺人事件、私たちの聖地であるエルサレムでも争いの火種が起こってしまいました。本当に世には沢山の闇が存在し、人々を飲み込んでしまっています。

私たちはそこへ遣わされています。「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」と語られているみ言葉は、今ここに居る私たち一人ひとりに当てはまります。すべての人が光によって平安を得るようになるためにこの世に命を与えられ、ここに立っているのです。何の後ろ盾もないのでしょうか。いいえ、そうではありません。私の後ろ盾は、あらゆる権威に優る神ご自身なのですから、その神から与えられる光を受け取った者として、闇に光を灯す方があなたのもとに来られるのだという希望を携えてまいりましょう。そして、その光である救い主イエスの証し人として立てられているのだということを心に留めつつ歩む日々とし、言葉と行いを通して豊かさに溢れる光を証していきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように  

2017年10月2日月曜日

聖霊降臨後第17主日説教

「悔い改めて生きる」

主日の祈り
命の与え主・愛の神様、あなたは私たちがいつも過ちを犯す者であることをご存じです。恵みによって私たちを過ちから守り、それを乗り越え、救いの道へと導いてください。み子、主イエス・キリストによって祈りのます。アーメン。

詩編唱 詩編251-9()855
25:1【ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
2わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。
3あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
4主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。
5あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。

6主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
7わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。
8主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。
9裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。

本日の聖書日課
1日課:エゼキエル書1814節、2532 ()1321
各人の責任
18:1主の言葉がわたしに臨んだ。2「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。/『先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。/3わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。4すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。

25それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。26正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。27しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。28彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。29それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
30それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。31お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。32わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

2日課:フィリピの信徒への手紙2113()362
キリストを模範とせよ
2:1そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
共に喜ぶ
12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

福音書:マタイによる福音書212332()41
権威についての問答
21:23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
「二人の息子」のたとえ
28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

この時、祭司長や民の長老たちは、主イエスに近づき、神殿から商人を追い出したり、病人を癒したりする、また教えている事がらに対して「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」と問いかけます。なぜそのような問いかけをしたのでしょうか。それはイエスが誰のもとから来られたか知らなかったからです。そして、彼らは何よりも自分たちの権威はモーセ以来、神から与えられた者であるという自負があったからです。これを脅かすような存在はあってはならなかったのです。

そのような問いを受けて主イエスは「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と逆に祭司長たちに問いかけます。なぜそのようなことを問うのかというならば、彼らが洗礼を受けていないという事に由来いたします。もし、受けていたのであればそれが天来のものであることであると信じ、従ったということです。しかしながら彼らはおそらくヨハネから洗礼を受けていないでしょう。すなわち、それは神に対する不従順を露にするのです。

なぜならば、ヨハネは「悔い改めよ、天の国は近づいた。」と宣教していたからです。ヨハネの洗礼とは悔い改めの洗いです。水においてそのしるしとしたのです。そして、そこに来るものとは、天の国を望み、御国に相応しい者となりたい、自分自身の罪について悟り、悔い改めを必要としていたということを表すのですから、自分が正しく御国に相応しい身分であるという祭司長たちがそこに来るはずがないのです。自分はすでにこの権威のゆえに神のみ前に正しいという思い上りが、この問答に見て取れます。自分は善であるという最も愚かな思い上がった人間の姿がそこに映し出されているのです。

そこでイエスは一つの譬えを用いて彼らに語りかけます。二人の息子が登場いたします。ぶどう園へ行って働きなさいという父に対してどのように振る舞ったかということが語られています。兄は嫌ですと言いながら出かけた。弟は模範的に応えながら行かなかった。本当に単純な二人の息子の対比が示されています。そして父親の意思を行ったのは誰であるかということは明白です。最初、拒否していた兄が父の思いを行ったということです。

ここに祭司長たちの天の国における不義が示されるのです。徴税人、娼婦とは、祭司長たちやまたユダヤ教徒の人々にとっては罪人の筆頭のような存在です。それらの人々は、神の救いに与るにふさわしくない人間だと思われていましたし、その人の人となりに関係なく、蔑まされていた人々でありました。しかし、彼らこそ自分が神のみ前において正しくない、神の義さに恐れを抱いていた者でした。この正しさの前に自分は滅びるしかない、死する存在でしかないということに絶望していたのかもしれません。

しかし、そのような時に洗礼者ヨハネが現れました。彼は「悔い改めよ」と叫びます。今日の福音にあるようにそれは「考え直す」ということでしょう。考え直すということは、その対象の物事に向き合っていくということです。その真剣な思いをもって向き合った時に、神という存在を前にして、そこにこそよりどころがある、むしろ、罪深い自分には神のみがより所であるということを悟るのではないでしょうか。

神のみ前において不義であるということを深く自覚するとき、悔い改めるほかないという思いが与えられていくのです。今日の第一日課で「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。28彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」と示されているように、神は悔い改める者の悔い改めを赦し、死ぬ者から生きる者、命ある者としてくださると預言を通して教えてくださっています。

すなわち、私たちは自分自身の罪を悔い改めるとき、その罪の重さ、罪の深さ、滅び、死ぬべきものでしかないということを悟る時、真の悔い改めをしようという思いが与えられ、その真の心からの悔い改めを聴いてくださる方が居てくださるということを知らされているのです。
すなわち、悔い改めて生きるということは、たしかに何か暗い自分の部分を見つめるということをしなければなりませんから、苦しいですし、悩みます。けれども、私たちはその悔い改めを聴き、赦し、命を与えてくださる方をみ言葉を通して知らされています。

そうであるならば、悔い改めて生きるということは、命の中に入るということであり、希望をもって生きるという前向きな生き方なのです。二人の兄弟の兄は始め、父の前において父に従いませんでした。まさにそれは神の律法の前において従えない私たち一人ひとりを映し出します。しかし、そこから悔い改めてぶどう園に行ったということは、御国に行ったということです。

悔い改める者は、御国に行くのです。この約束が今日の二人の息子の譬えを通して示されています。私たちは、兄です。従えない者でしかありません。ですから、毎週の礼拝の中で、毎回の祈りの中で自分が神のみ前において足らざる者、欠け多き者、不義生る者であることを覚え、この悔い改めを真に聴いてくださる方へそれを正直に告白していきましょう。

それが「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。」とあるように私たちは罪を告白するごとに、新しい心と新しい霊を造り出し、命へと行くのです。光の方へと歩むのです。重ねて言いますが、悔い改めとは、自分の暗い部分を見つめながら、それを光へと変えてくださる方に信頼していくという前向きな生き方です。悔い改めて生きる恵みを覚えてまいりましょう。命へと歩んでまいりましょう。