ようこそ

ようこそ日本福音ルーテル下関教会のHP兼ブログへお越しくださいました。

日本福音ルーテル下関教会は2015年に宣教100周年を迎えました。

ドイツの宗教改革者マルティン・ルターの流れをくむ伝統あるプロテスタントのキリスト教会です。

どなたでもお越しください。心より皆様のお越しをお待ちしています。

教会には聖書と讃美歌の準備がございます。どの集会も手ぶらでお気軽にお越しください。

マタイによる福音書11章28節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

2017年12月17日日曜日

待降節第3主日説教

主なる神様、あなたを仰ぐすべての民の思いを奮い立たせ、預言者の言葉に耳を傾けることができますように。あなたの霊によって油注がれ、あなたの光を証することができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編126
126:1【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。
2そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
3主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。
4主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
5涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

ルカ1:46b55
「わたしの魂は主をあがめ、47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、50その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。51主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、52権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、53飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。54その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

本日の聖書日課
1日課:イザヤ書6114&8-11 ()1162
61:1主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
2主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
3シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
4彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。

8主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。まことをもって彼らの労苦に報い/とこしえの契約を彼らと結ぶ。
9彼らの一族は国々に知られ/子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう/これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。
10わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。
11大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる

2日課:1テサロニケの信徒への手紙51624()379
5:16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。19“霊”の火を消してはいけません。20預言を軽んじてはいけません。21すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。22あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。23どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。24あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

福音書:ヨハネによる福音書168&1928()163
1:6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

アドヴェントクランツに3つ目の火が灯り、刻一刻と主イエスの誕生、救い主の到来が近づいていることを目に見える形で私たちは知らされています。そのような中で先週に引き続いて、洗礼者ヨハネの出来事から私たちは神のみ心に聴いています。洗礼者ヨハネと祭司やレビ人に遣わされた使者とのやりとりが展開されていますが、このやり取りが何を意味し、どのようなみ心が神から示されているのか共に聴く時としていきましょう。

さて、この時代も、というより祖国を失って以来、ユダヤ人たちはメシアの到来を首を長くして待ち望んでいました。旧約聖書に示されているメシアが神から遣わされ、自分たちを救い出してくれるという約束の実現を非常に長い間待ち望んでいますし、現代にあっても彼らはそのことを待望し続けています。そのような中で洗礼者ヨハネが登場するのです。その行い、言動はあたかもメシアのようでもあり、メシアが到来する前に現れるエリヤや預言者のようでした。

彼らはヨハネに「あなたは、どなたですか」と問いかけます。祭司とレビ人から遣わされたと記してありますから、それはある意味で何の権限でそのようなことをするのかと問うているのです。ヨハネは、悔い改めの洗礼を民衆に呼びかけていました。清めは、祭司やレビ人に与えられた働きでした。ですから、彼がなぜそのようなことをするのか。どのような権威のもとに行っているのか問いただす必要があったのです。

もし、メシアであればそれは正しい、エリヤであればそれもまた正しいことであり、預言者の場合においても然りです。そのようにして彼らはヨハネの権威について調べようとしたのです。しかしながら、ヨハネはそれら全てを否定しました。そして、彼はイザヤ書を引用して「主の道を整える者である」と答えました。その誰でもない、しかしながら、自分は救い主が来られる道を整え、神のみ旨を示す者であると言ったのです。

その方こそが真のメシアであるという証をユダヤ人たちにしたのです。救い主が来られるということを証することによって、人々の視線を神ご自身に向けさせようとしているのです。これこそが大切なことです。「証」とはその人の素晴らしい経験や体験を聞いて感嘆することではありません。「証」とは、その人の口を通して、神ご自身に出会う経験です。

極端なことを言うならばその人自身の背景や、この世的な地位とか、名誉、財産に関係はありません。それら一切無しにしても、証言者を通して、神を見る言葉こそが証なのです。ヨハネ福音書の始めに「言は神であった。」(11)「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(14)と語られています。

証はその人の言葉を通して神の出来事、神ご自身について語られ、その「言」が私たちを照らす光そのものとなるのです。人間の内には誰しも心の暗い部分があります。後ろめたさ、劣等感、不安、恐怖などそれは様々な形で私たちの心を支配しようとして、力を奮ってきます。この力に私たちはしばしば敗北します。そして、その暗闇の最大の力が罪です。罪は神を見えなくしてしまいます。神を見えないようにするのですから、自ずと私たちは神以外のものを神とし、本当の光の輝きを知ることができなくなってしまうのです。

しかし、神はこの闇に打ち勝つ方です。私たちのその暗闇に光をもたらしてくださる方です。それは「打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」と語られているように、暗闇から自由にされて安心して光の中を歩むようにするために神は「言」として、またその言は命として私たちのもとに来られるのです。私たちがどうこうしたということではなく、神ご自身が人となられた言であるイエスを遣わすことによってその光は私たちと共に在るものとなられたのです。

エレミヤ書に「陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。」とあるように、私たちは闇によって自分自身を砕かれたならば、本当は自分自身で自分を元の形に戻すことはできません。どんなに上手な修復師が直しても、100%元通りとはいかないように、私たちは闇によって砕かれ、自分自身で直した気になってもそれは歪なのです。それは、律法にある通り、自分の犯した罪の分だけ贖ったと思っても、気づかずに犯した罪は放置され、完全であるように見えて、実はそうではないということと同じです。

祭司、ファリサイ派、レビ人などの当時の特権的な地位を占めていた人々は、まさに自分が完全な者であるかのように振る舞っていました。罪など犯していない、神のみ前に真に義しい存在だと思い込んで、自分が罪人であることなど微塵も考えていませんでした。
しかし、主イエスはこの歪な私たちすべての人間をみ言葉を通して、完全に造り変えてくださったのです。「廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。」と預言の言葉にある通り、私たちを真に救い出し、完全な者として、あらゆる闇や、歪から解放するのは主イエスであるということは、明らかなことなのです。

その確かさの中で、私たちはその主イエスを証するのです。この世のどの権威にもなびくことなく、また時には抗いがたい力に晒されながらも、絶対に人間の後ろめたさ、劣等感、不安、恐怖から、また私たちの歪な命を造り変え救い出す唯一の方は主イエスであると証していくことが、私たち一人ひとりに与えられている働きなのです。

ですから、この主イエスを待ち望む時にあって、洗礼者ヨハネを通して示されていることは、神を証し、全ての人がこの救いに与っているという恵みを私たち自身も告げ知らせることなのです。私たちは主イエスを待ち望む者でありながら、同時に神の救いのみ心を知らされている者でもあります。そうであるならば、今、この世に来ようとしている方がどのような方か宣べ伝えずにいられるでしょうか。

私たちの周りには、私自身を含めて神の救いを切実に望んでいる方々がたくさんいらっしゃいます。今年は、様々な不安が襲った出来事が起こりました。戦争になるのではないかという不安、核の脅威に晒され続けている人々、人の不安や弱さ、脆さに漬け込んで起こった凄惨な殺人事件、私たちの聖地であるエルサレムでも争いの火種が起こってしまいました。本当に世には沢山の闇が存在し、人々を飲み込んでしまっています。

私たちはそこへ遣わされています。「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」と語られているみ言葉は、今ここに居る私たち一人ひとりに当てはまります。すべての人が光によって平安を得るようになるためにこの世に命を与えられ、ここに立っているのです。何の後ろ盾もないのでしょうか。いいえ、そうではありません。私の後ろ盾は、あらゆる権威に優る神ご自身なのですから、その神から与えられる光を受け取った者として、闇に光を灯す方があなたのもとに来られるのだという希望を携えてまいりましょう。そして、その光である救い主イエスの証し人として立てられているのだということを心に留めつつ歩む日々とし、言葉と行いを通して豊かさに溢れる光を証していきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように