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2014年7月30日水曜日

7月6日 聖霊降臨後第4主日の説教

「宣べ伝える」

主日の祈り
私たちの造り主、救いの神様。新しい祭司の群れに入れられた私たちが、誠実にあなたの召しに応え、福音の証し人として、あなたの約束を全世界に告げ知らせる者にならせてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課: 出エジプト記1918a節 ()124
18:1イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。2彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。3モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。4あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。5今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。6あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」 7モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。8民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。

第二日課:ローマの信徒への手紙51215()280
5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。13律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。14しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。15しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

福音書:マタイによる福音書935節‐1015()17
9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。9帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。11町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。12その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。13家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。14あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。15はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」


【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日私たちが与えられている福音の日課は、イエス様のこの世でのお働きの要約のような御ことばが初めに私たちに与えられています。イエスがこの世でされたことは、あらゆる街や村に行かれて、人々の会堂で教え、御国の福音を宣言され、あらゆる病と弱くされていることを癒されたと記されています。
まさに、これがイエスがこの世に来られてされたお働きの要約です。まずもって、天の国の福音、すなわち神の御ことば、救いの確信を人々に教え、そして、宣べ伝えたのです。そして、ここで「宣べ伝えた」とありますが、もう少しとがった言い方をするならば、「宣言したこと」となります。つまり、イエスはこの世で神の事がら、御ことばについて、直接に神から与えられ、それを人々に宣言したのです。
これは、言ったとか、思ったことを宣べ伝えたというようなことではなく、今述べましたように、ギリシャ語の意味から推察するならば、個人的な思想ということではなく、神との交わりの中で直接に与えられた御ことばを人々に宣言するという意味合いで使われている「宣べ伝え」なのです。
ですから、これはイエスの個人的な思想ではありません。神との絶えざる交わりの中で、語るべき御ことばが与えられているということを言っていますし、私たちが宣教、伝道という言葉を思い起こす時、何が大切かと言うならば、この神との絶えざる交わりの中で与えられる御ことば、宣べ伝えるべきことが与えてくださる神との交わりが大切なことなのです。

そして、それはどこで実現するかと言うならば、聖書を通して与えられる出来事であると言えます。聖書が聖書たる所以は何でしょうか。ただ単にいい言葉が書いてある書物だからでしょうか。私の考えに沿っている言葉が書いてあるからでしょうか。
おそらく、そうではないでしょう。私たちが聖書が聖書たる所以は、この書物を通して、神を知るからではないでしょうか、そして、神がこの私に何をなしてくださったか、御ことばを与えてくださったかということを悟らせてくださるから聖書は、聖書なのです。
すなわち、聖書とは、ここに記されている一つ一つの御ことばが、私に語りかけてくる、そして、それは神の声として私たち一人ひとりの信仰に語りかけられているから聖書なのです。

そして、もう一つ注目したいのは、今日与えられている第一日課です。
第一日課は、イスラエルの民がシナイ山に到着したときの事がらが記されています。そこでモーセは、山に登り、神との交わりの中に置かれます。そこで神は、モーセに対して、神の御ことばに従う時、イスラエル「わたしの宝となる」「祭司の王国」「聖なる国民となる」と宣言されました。そして、その賜った御ことばをモーセは、人々に語り伝えたのです。この第一日課の記事においても、モーセが個人的な事柄を民たちに語り伝えたのではなく、山に登り、神との交わりの中で神から語るべき御ことばを与えられたことが、記されています。

すなわち、宣教とは、私の言葉を伝えるということではないということです。宣教とは、神の御ことばを宣べ伝えることなのです。そして、それは御国の福音とあるように、神の国を顕す言葉であるということです。
すなわち、私たちの宣教とは、この世において神の国を実現させることだということです。しかし、そこで注意せねばならないことは、そこで極めて私的な事柄に囚われることです。神の国を宣べ伝える、神の御国を宣べ伝えるという名目で、人々の上に立ったかのように錯覚してしまうのです。
しかし、そうではありません。イエスが宣べ伝える働きを与えられ、神の御言葉を語り伝える時、起こったことは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」という情動です。
この箇所について原典に戻って見るならばこの御ことばは、次のようになります。「群衆が羊飼いもなく捨てられ、疲れ果てた羊のようであったのを見て、憐れまれた」となります。

この時、そこに居たのは、イエスが9章であらゆる人々を癒した出来事に続いて、着いてきた人々です。イエスの行われた奇跡、マタイを弟子にするという驚くべき事がら、罪人や徴税人たちと食事を取られたという出来事を受けて従ってきた人々を指します。つまり、彼らはこの世にある権力や、律法学者、ファリサイ派という人々をもってしても導くことも、癒すこともできなかったものを御ことばによって変えられた真実を目の当たりにして、なお未だに迷いの中に在った人々なのです。健康な人々も、不健康な人々も、指導者ですら、この世に救いを見いだせずに、誰に従うべきか知らない状態なのです。
まさに迷える羊であり、本当に従うべき人を見出させず迷い疲れ果て弱っている羊のような状態に多くの人があったということを如実に語っています。

そのような人々を見てイエスは「憐れまれた」のです。これはとても大切な事柄です。
この言葉がラテン語に訳される時、使われた言葉は「コン」という言葉と「パソス」という言葉です。これは前者が「共に」と言う意味であり、後者が「苦しみ」という意味です。すなわち、古の人々は、このイエスの憐れみと言う感情について、ただ単に上から憐れむという、すなわち憐憫という強者のような目線ではなく、そのような人々を目の前にして、そこに居る人々一人ひとりのもとに降りてこられて、共に苦しんでくださったという救いのできごとを表しているのです。
それは聖書に「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」とあるように、そのような人々に向けられているイエスの眼差しがあり、この私のもとへ来てくださっているのです。

イエスとはそういうふうにして私のもとへと来てくださっているお方です。イエスご自身神の御子であるにもかかわらず、私たちの世に降って来て、まさに苦しみの中にある人々、悩みの中に在る人々、弱くされている人々、罪人のもとに来られて、ことごとくそのような人々の思いに寄り添い、共に担ってくださっているのです。その極みが十字架の死という出来事に結集されるわけです。しかし、私たちは、この十字架のイエスを見る時に忘れてはならないのは、イエスがこの世での宣教を始められた時の事がらを忘れてはならないでしょう。そのことは、マタイ福音書で言うならば4章の中に出てきます。その宣教の始めに語られたことは「悔い改めよ。天の国は近づいた」という御ことばです。

すなわち、私たちが宣べ伝える事がらとは、この悔い改めと密接に関わっているからです。
私たちは、あまりにも自分という存在に囚われます。自分が救われるためには、この苦しみから抜け出すには、この悩みが解消されるにはどうしたらよいのか、様々な思いを抱えながら生きる者です。それが人間の本質であると言ってしまえばそうであるかもしれません。しかし、そのような時見えているもの、見つめているものは、何かと言うならば神無しの状態ではないでしょうか。その物事に囚われ、それ以外のものが何も目に止まらない状態にあるのです。
いっぱいいっぱいになって心に余裕も無くなってしまう。そういう状態です。
しかし、そこでイエスは、「悔い改めよ」と仰るのです。悔い改めとは、ただ単に自分の中にある罪を認め、神の方に向き返るということだけではないでしょう。

悔い改めとは、人間が神の方を向けなくなっている状態すべてをさすのです。神を仰ぎ見ることもできず、とぼとぼと足もとを見るしかできない状態、歩む先にある神の平安、平和、希望を見ることができずにいる状態、目をつぶってその場に蹲ることしかできない状態、様々な状態で私たちは神を見ることができなくってしまいます。それほどまでに私たちはあらゆる出来事を通して神を見ることの出来ない状態、神無しに生きてしまうのです。
まさに、今日記されている福音に登場する群衆はそのような人々の群れでありました。根無し草であり、誰を仰ぎ見て生きていけば分からず右往左往し、迷いのただなかにあった人々です。

そのような人々に向けてイエスは深い共感を覚えられたのです。一人ひとりの心の内にある思いをただひたすらにその身に感じ取られたのです。この共感が宣教の始まりであり、このことによってイエスが共に居てくださることを悟り、イエスが共に居るという恵みの中で与えられる深い交わりによって「宣べ伝えること」が与えられるのです。
そして、私たちは、この世において神から遣わされた宣教者であり、イエスの弟子の一人です。そのような時、最も大切な事柄は、隣人の思いに深く共感するということです。
それは、共に苦しむほどの共感です。これはこの世において馬鹿げたことです。あまりにも利己主義で効率主義になったこの世にあって、苦しんでいる人々と共に苦しむことは難しいのです。遠い国で苦しんでいる人が居れば、その場にいて物資や資金の支援をすれば事足りるではないかと思わされます。もちろんそれは尊い働きですが、そこに向ける思いに実態を伴わない時がしばしばあります。これは究極的に言えば、強者の発想です。ですから、このような世にあって、そこにどのような思いがあって、共に苦しむということが難しく、そこに居る人の思いが見えずらい世にあるのです。

しかし、イエスは御自分の足であらゆる町や村を訪れてくださったのです。もちろんガリラヤにおける伝道ですから、地域は限定されていたかもしれません。しかし、そのような中であっても与えられた場所においてそこに居るあらゆる人々のもとに来られ、共に苦しみを担ってくださったのです。そして、そのことに足りず、イエスは十字架に架かって死ぬことによって、すべての人々の為に苦しみを担い、贖ってくださったのです。
ローマの信徒への手紙でパウロが一人の人によって罪がこの世に現れたのであれば、恵みとして一人の人によってその罪が贖われ、すべての人に救いがもたらされるのは、当然の事がらなのですと語っているのは、このことです。
この恵みの前に私たちは、感謝しつつ、謙り、神無しに生きてしまう自分、罪を犯してしまう自分、弱い自分、悩める自分を差し出して、神の恵みの賜物であるイエスにより頼んで生きていくのです。

そして、この方が語られた福音によって私たちは、神の御言葉と救いの出来事を宣べ伝える者と作り変えられ、苦しむ者と共に歩む者とされています。
ですから、ここに集う一人ひとりもまた迷える羊でありますが、今この時、神がイエスの十字架と言う恵みを明らかにしてくださり、目指すべき道、行いを示してくださるのです。私たちは御ことばを通して神との交わりが与えられ、飼い主のいない捨てられた羊ではなく、飼い主を探し求め疲れ果てている羊のようではなく、神という確かな羊飼いが私たち一人ひとりを見つめ、苦しみを共に担ってくださっているのです。この優しいまなざしを受けながら導かれているということを知らされているのです。そして、この羊飼いがすべての人々を導き、恵みと祝福、救いとを与えてくださるのだということを、私たちはこれから遣わされるところで弱り果てた羊、迷いの中にある羊を見出しこの救いの出来事を宣べ伝えていきましょう。

一人ひとりがこの時イエスによって遣わされています。神の福音を宣べ伝えるのは、特別な職務であると同時に、誰にでも召されている務めです。一人ひとりがそのことを深く心に刻みながら、福音によって神の御ことばを力強く宣べ伝えていきましょう。共に宣教を担い合い、共に居てくださる神が導き支えてくださることを信じつつ歩んでまりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。