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2015年3月13日金曜日

3月8日の説教

説教題「三日で建て直す」

主日の祈り
聖なる神様。あなたは私たちを召し出して、信仰に忠実に生き、よき業にいそしむよう励ましてくださいます。私たちをみ恵みの契約に堅く立たせ、イエス・キリストだけがくださる知恵をお授けください。あなたと聖霊と共にただ独りの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

第一日課:出エジプト記20117()126
20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

第二日課:コリントの信徒への手紙一11825()278
1:18十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。19それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」 20知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。21世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。22ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

福音書:ヨハネによる福音書21322()166
2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。


【説教本文】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

四旬節も第3主日を迎え、今日与えられている御ことばは、宮清めと言われている場面です。この場面を読むごとに思わされることですが、イエスがこれほどまでに激しい行動を取られることになぜそのような事をされるのかと思われる方があると思います。
イエスの出来事の中でも非常に印象的なこの出来事を通して神の福音にご一緒にひと時の間、耳を傾けてまいりたいと思います。

さて、このような場面を与えられてつい私たちは、その行動に目が行きがちですが、本当に今日大事な事は、やはり最後の弟子たちの気づきではないでしょうか。
つまり、少々極端なことを言うことが許されるならば、この宮清めの出来事は、イエスの十字架の死と復活なくして、意味を成さなかったということです。
弟子たちが、そうであったように、その時が来るまでは、決して明かされることのない神の御旨であり、ご計画の一つであったということです。
そうであるならば、この出来事は何を意味しているのかということを聴く時、それはイエスの十字架の死と復活から聴くということが大切な事がらであると思うのです。

そういう観点から見ていくと、イエスが語られている神殿とは、ご自身の体を言っているということです。つまり、これは一つの受難と復活の予告であったということです。ご自身が壊されることによって、神の秘められた計画が成就されるということを顕しているのです。
何故そう言えるかというならば、ここで示されている「立て直してみせる」という言葉にそのことが表されています。
というのも、この言葉について原典に当たってみるならば、これは建物を立て直すという意味ではなく、直訳するならば「立ちあがる」という意味があるからです。そして、この御ことばは、他の聖書の個所では、復活の事がらをイエスが述べる時に用いられている言葉だからです。

同じヨハネ福音書520節~21節で「5:20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」と、御子の権威について述べた時に、復活の命を与えるという権威を有している事がらを明らかにするときに用いられているからです。

ですから、私たちは、今日の福音を通して、イエスが、これらの事がらを語られたのは、ご自身の十字架の死と復活を予告しつつも、その神の出来事における神の権威がご自身にも与えられていることをも先取って示されているのです。この時には、そのことまで明らかにされていませんが、私たちは、聖書を通して、この出来事がこの権威についてまで御子イエスにあることを知らされています。

そして、イエスの体の復活という事がらをもう少し掘り下げて考えて見ますならば、私たち一人ひとりもまたキリストの体に連なる者とされています。ですから、この十字架の死と復活の命の恵みは私たち一人ひとりにも神から与えられているということです。

しかし、一般的に考えて、十字架とは、罪のしるしであり、最大の刑罰です。本来であれば、そこに何一つ正しさは存在しません。ですから、一般常識で捕えるならば、それを救いのしるしとして掲げること、覚えることは、本来であればありえないことです。また、復活という事がらも、当時の人にしても、現代の私たちにしても時には虚言、妄想のように聞こえます。なぜならば、そのようなことはありえないからです。
しかしながら、私たちは、この一般常識で考えるならば、ありえないこと、虚しいことを信じているのです。

何故そのような事が可能かというならば、この十字架の死と復活の命の光から与えられる神の力によるのです。私たちは、十字架のイエスの背後に隠されている、罪の贖いという恵み、このイエスの死によって義しい者とされているという神の救いのご計画によって、この出来事が真実で、私たちを十字架の信仰へと導くしるしであるという信仰が与えられているのです。

真に不可思議なことです。常識では考えられない事です。しかしながら、コリントの信徒へパウロが語っているように、人知では語り尽くすことのできない神の知恵によって、はじめて私たちは、イエスの十字架の死も復活も知るようになるのです。
この出来事に、神の御救いがあることを知らされているということに気づかされた時、その時点でもはやそれは滅び、敗北、死ではなく、命であり、恵みであり、神の救いの出来事そのものとなるのです。
この信仰が与えられていなければ、私たちは一向に救いの確信を得られません。聖書のイエスの御ことば、神の語りかけ、掟、戒めを聴いても、そのことが決して私には適わないという思いを抱え、いつまでも悩み、苦しみ、嘆きながら人生を歩まねばならなかったことでしょう。また、いつまでも私たちは、神の御前に義しい者でなく、罪人のまま滅び、死を迎える空しい存在であったことでしょう。

そのような神と人間との関係を、神ご自身が私たちに働きかけることによって和解してくださったのです。しかもそれは、私たちが罪人であるにも拘らず、神の御前に一向に義しい者となれない者にも拘らず、神の一方的な恵みによって、つまり、イエスの十字架の死と復活によって赦してくださり、しかも、それだけでなく、キリストの体に連なる者として永遠の命の約束の中に置いてくださったのです。

ここに旧約の十戒に示されている約束でもなく、神殿でのみ顕される神の御旨でもなく、ただその場にあってイエスの十字架を仰ぎ、信じる時に与えられる恵みとして新しい契約が交わされたのです。
約束ということは、神との絶えざる交わりの中にあるということです。いつでも、どこでも私たちは、イエスの十字架の恵み、復活の命の中に置かれているということです。
もはやどこでということは問われません。神殿でのみでもないのです。私たちが礼拝の中心とするのは、神殿ではなく、主イエス・キリストの十字架です。このしるしを中心に、ただただこの傷だらけの、弱々しいイエスの御姿を仰ぎ見ていくことによって、私たちは生きる者とされているのです。

この恵みに与る者として私たちは召されています。ここに集い、御ことばに聴いています。そして、私たちはこの十字架の恵みを宣べ伝える者としてこの世に立たされています。
人の思いからするならば、弱く、乏しく、罪の極みである十字架から、神の恵み、愛、希望、信仰を与えられているという驚くべき神の力を私たちは知らされています。
私たちは、この神の恵みを宣べ伝えねばなりません。世には未だに多くの人々が、この恵みを知らずに、右往左往している人が居ます。苦しんでいる人々が居ます。悩んでいる人々が居ます。嘆き悲しみの中に居る人が居ます。
しかし、それらの一切がイエスの十字架の死と復活によって取り払われるということを知らせましょう。
なぜならば「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
いつでも神の力が私たちを通して示されます。神が語るべき言葉、行うべき事がらを示してくださいます。
この確信をもってこれからも宣教の道を歩んでまいりましょう。
皆さんの上に十字架の恵みが豊かにありますように。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。