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ようこそ日本福音ルーテル下関教会のHP兼ブログへお越しくださいました。

日本福音ルーテル下関教会は2015年に宣教100周年を迎えました。

ドイツの宗教改革者マルティン・ルターの流れをくむ伝統あるプロテスタントのキリスト教会です。

どなたでもお越しください。心より皆様のお越しをお待ちしています。

教会には聖書と讃美歌の準備がございます。どの集会も手ぶらでお気軽にお越しください。

マタイによる福音書11章28節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

2015年8月29日土曜日

8月23日の説教

説教題 「つまずき」

主日の祈り
神さま。あなたは、永遠の裁き主、正義を愛し、抑圧を拒まれます。あなたはそれらの実現のため、私たちを招いておられます。私たちに、流血と欲望の犠牲者たちの側に立つ勇気を与えて、あなたの僕や預言者と共に信仰の創始者であり完成者、イエス・キリストのみ足の跡を従わせてください。み子、救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:ヨシュア記24章1節-2節a&14節-18節
1ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると、2ヨシュアは民全員に告げた。

14あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。15もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。16民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。17わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。18主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」

第二日課:エフェソの信徒への手紙6章10節-20節
10最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。11悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。12わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、15平和の福音を告げる準備を履物としなさい。16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。18どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。19また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。20わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

福音書:ヨハネによる福音書6章56節-69節
56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」 イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、 『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

本日与えられている福音の日課には、イエスに対する弟子たちの態度で二つの対照的な姿が示されています。
一つは、イエスのもとから離れ去った者たちと、ペトロの信仰告白に表されているようにイエスのもとに留まった者たちです。この出来事が示す神の福音とは何でしょうか。このひと時、ご一緒に神のみ言葉に耳を傾けてまいりましょう。

第一日課で読まれた聖書はヨシュア記からでしたが、この個所は、ヨシュア記のクライマックスであり、約束の地に入り、神と民たちとが契約を再び結ぶ場面です。
その中でヨシュアは、様々な地の神が居て、それぞれの民族に神が居るということを認めつつも、主なる神に仕えるということを表明します。すなわち、神の示された契約に従うということです。

私たちは、一人ひとりが主イエスのみ言葉によって救われた者です。これは個人的な出会いによるものでしょう。そのきっかけが何であれ、この出会いに込められている神のメッセージは、「私があなたを救う」ということです。
神との一対一の関係性の中で私という存在に神が信仰を与え、恵みを賜り、み言葉を聞かせてくださっているのです。私たちは、この神が生かし、助け導いてくださっていることを信じています。それは洗礼式での厳かな誓約の中で交わされた神との契約です。ですから、私たちは、神によってこの連続性の中で生かされていることを確信して歩んでいるのです。

そのような中で、私たちは、この神からの恵みを受けるだけかというならば、そうではありません。私たちは「仕える」という事柄を通して、神の宣教者としてこの世に在るのです。
もう一度、ヨシュア記に戻ってこの従うというヨシュアの告白に聞いていきたいと思います。この事柄においてヨシュアは「わたしとわたしの家は」と言っています。わたしが主に従うという事柄はわかります。信仰は神から与えられるもので、その恵みに対する応答ですから、それはキリスト者の一人ひとりが肝に銘じている事柄としてとらえています。しかし、ヨシュアはそれに「わたしの家」ということがらも付加しています。

この「家」という言葉は、アブラハムが神との契約の際に「わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」(創世記15:3)と語った時にも用いられている言葉です。この事柄からヨシュアの言葉を読み解くならば、それは継承を表す言葉であるといえます。つまり、ヨシュアは、自分に与えられた主なる神への信仰を継承していくという決心を表明しているということです。

すなわち、私たちは一人一人が神への信仰を表し、信仰者として祝福されています。そのような中で、同時に私たちは、この継承という事に取り組んでいくことが大切な責任として課されているのです。
私たちは、主なる神からの恵みを受けています。私たちは、神のみ前においては徹底的に受けるものでしかありません。しかし、この受けた物を自分のうちに留めるのではなく、それを世に証しし、人々にこの信仰を継いでいくことが一つの使命として与えられているのです。

仕えるということは、それは働くということですから、具体的な行動を伴います。イエスが、昇天の際に「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と命じておられることからも、私たちは恵みを受けるばかりではなく、具体的にこの世で働いていく使命が与えられているのは自明の事柄です。
しかしながら、神のみ言葉を述べ伝える中で私たちは、「弟子たちの多くが離れ去り」という現実を目の当たりにするのです。なぜならば、それはイエスのみ言葉が時にひどい話であり、つぶやかずにはいられなくなるからです。
ひどいという言葉は、固いとか、乱暴な、厳しいという意味があります。つぶやくとは、不平を言うとも訳すことができます。このことに表されているようにイエスのみ言葉は時として人をつまずかせ、落胆させ、不平をもたらします。

金持ちの青年が、イエスのもとを離れていったように、ラクダが針の穴を通るほうが易しいと言われるように、敵を愛せと言われるように、時としてイエスのみ言葉が私たちには理解に苦しむことがあります。そして、イエスから離れて行ってしまうこともあります。
救い主であるイエスご自身が語りかけてくださっているにもかかわらず、人は離れていくのですから、私たちにおいても同様でしょう。伝道するということは時として困難と、苦難とを伴うものなのです。

ましてや、イエスご自身が宣教されていた時にすらもそのようなことが起こったのですから、神のみ言葉、御救いを述べ伝えるということはいかに難しいことであるかということを思わされます。

翻って私たち自身この宣教するという事柄を考えてみますと、このことを通して、信徒の数を増やすことこそが正義であるかのように錯覚します。それは今の世においてもそうでしょう。右肩上がりであることがよいことであるかのように刷り込まれています。そうでなければいけない、そうじゃないものは不要なものであると思いがちです。

しかしながら、そのようなこの世の尺度、物差しで伝道という事柄、主に仕えていくということをとらえるのではないのです。私たちがこの世において神に仕えることができるのは、霊において生かされているが故です。それは、この世の尺度や物差し、常識の中で生きるのではないということです。あらゆる事柄において霊が働き、霊が導き、霊がなすべき事柄を成してくださるという信頼に基づいていくということです。
そのような中で対立は起こります。時として神のみ言葉が受け入れられないこともあります。しかし、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」(ヨハネ15:20)と語られているように、世との間に隔たりは時として起こるのです。

そのような中にあったとしても私たちは、この主なる神が私たちを救いへと導き、良いもので満たしてくださるのだという信頼をもって歩んでいきたいと思うのです。
仕えるということは、時に困難さを思わせます。私たちにとっても時としてイエスのみ言葉が理解しがたく、固く、激しく、不平を言いたくなるようなこともあります。主のみ言葉に躓く弱い者です。
しかしながら、そのような中で私たちは、主に仕えていくという事を告白しました。主イエスの「すべての人に」というご命令を受け入れました。そして、何よりも主なる神は、他のどの民よりも貧弱であった人々を選び出し、約束の地に導きいれ、再び契約を結び、どの民よりも祝してくださいました。それは神の愛が根本にありました。神が愛するということによって、私たちは生かされ、祝され、恵みを与えられているのです。この神の愛に裏付けられて私たちは、宣べ伝えるのです。

そうであるならば、私たちは喜んでこの使命に励んでいきましょう。従うということは、神のために労するということであり、この弱い信仰の私に力を与えてくださいます。時に主から離れる人の多さに絶望を覚えることもあるでしょう。しかし、主の願いは、すべての人が救うことです。このことは変わりありませんし、必ず実現する事柄です。この神の思いに信頼し、私たちは具体的に一所懸命に働いていきましょう。福音が前進するように老いも若いもともに主のみ言葉に信頼し、礎にし歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。