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ようこそ日本福音ルーテル下関教会のHP兼ブログへお越しくださいました。

日本福音ルーテル下関教会は2015年に宣教100周年を迎えました。

ドイツの宗教改革者マルティン・ルターの流れをくむ伝統あるプロテスタントのキリスト教会です。

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マタイによる福音書11章28節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

2017年6月12日月曜日

聖霊降臨祭説教

「聖霊を受ける」

主日の祈り
神様、あなたはこの日、あなたを信じる者に聖霊を送って心を開いてくださいます。聖霊の光で導き、私たちが全てにおいて正しく判断し、あなたの平和の内にいつも喜ぶことができるようにしてださい。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編10424-34&35b(旧)942
104:24主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
25同じように、海も大きく豊かで/その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
26舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
27彼らはすべて、あなたに望みをおき/ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
28あなたがお与えになるものを彼らは集め/御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
29御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。
30あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。
31どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。
32主が地を見渡されれば地は震え/山に触れられれば山は煙を上げる。
33命ある限り、わたしは主に向かって歌い/長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。
34どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。

35bわたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。

本日の聖書日課
1日課:民数記1124-30()232

11:24モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。25主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。26宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。27一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。28若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。29モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」30モーセはイスラエルの長老と共に宿営に引き揚げた。

2日課:使徒言行録21-21()214
聖霊が降る
2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
ペトロの説教
14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

福音書:ヨハネによる福音書737-39()179
7:39祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日は、キリスト教における三大祝祭である聖霊降臨祭、ペンテコステを覚えています。イエスが約束されていた霊を受け、ペトロをはじめ弟子たちがイエスは主である。すなわち、イエスこそが神が人間に約束されていた救い主であるということを宣教し始めた記念すべき時を覚えているのです。
そのような日にあって、主の霊が注がれ、とどまるということはどのようなみ旨が示されているのかご一緒にみ言葉から聴いていきたいと思います。

聖霊降臨祭は「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあるようにまったく天的な出来事によって弟子たちに齎されたのです。これは真に神の出来事であったと言ってよいでしょう。
そのような出来事を通して、彼らは神のみ言葉を預かる者として語らずにはいられなかったのです。

そして、これはイエスご自身が弟子たちに約束された「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハネ16:7)というみ言葉の成就です。このみ言葉の成就は、この始めの聖霊降臨の出来事をもって、永遠に私たちに与えられているみ言葉の恵みです。この恵みが私たちに信仰を確信させ、救い主イエスを証する喜びを与えてくださっているのです。そうでなければ、主イエスのみ言葉は廃れ、2000年以上もの間語り伝えられることは無かったでしょう。

ですから、私たちもまたこの聖霊の付与の恵みに与っています。この聖霊の力によって、私たちの行いや語る言葉は、主を主と信じ、主を顕すのです。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と語られているように、主の聖霊が私たちの内に留まり、命の源泉となり、川となり、神の御業、恵み、喜びといった善いもので溢れさせてくださいます。

神は、罪人の一人である私という存在に、聖霊を注いでくださることによってそのように私たちを造り変えてくださっているのです。「聖」とは、神のみが持っている性質です。私たちは罪人なのですから、決して「聖」ではありません。霊という言葉も「息」とも訳すことができますから、それは初めの人間が創造された時にそうであるように、神から与えられたものだということが分かります。

すなわち、まったく神から与えられている賜物によって私たちは神を信じる信仰が与えられているということです。罪人である私たちの内からは善いものは出ないのです。そして、何よりも最初の人も、この聖霊降臨の出来事に際した弟子たちがそうであるように、この神からの聖霊の付与に依らなければ、主を主として生きることができないのですから、これは神と人とを結ぶ触媒として与えられているということです。

この聖霊が私たちの内に来られ、まさに化学反応して、その物体の性質が変わるように、私たちは聖とされ、神の御業、神のみ旨を顕す器として用いられるのです。聖霊がなければ、私たちの行っている業は人の業にすぎません。人の業であるならば、それには限界がありますし、畏れや、不安、傷つけられると尻すぼみになってしまうことでしょう。しかし、その後のイエスの弟子たちの歩みを見れば分かるように、彼らは自分自身の命も顧みずに宣教の道を歩みました。

その根底には、神の約束が成就されたことによる愛の確信です。弟子たちは、自分たちの師であるイエスを天に送って不安の中に在ったはずです。イエスの仲間だと分かれば捕らえられ、死ぬことは自明の中で、この約束が成就されたことによって、神は私たちを捨て置くのではなく、この霊によって強め、神に対する信仰を与えてくださっている。神との繋がりの中で生かされている温かな愛を知るのです。

神は人を一人にしておくのではなく、この聖霊を送ることによっていつも私たちに呼びかけてくださり、一人でありながら、一人ではないという平安を与えてくださいます。神の守りと導きの内にある喜びを味わわせてくださいます。この神の愛が広がるように働くことの力の源泉となってくださっています。
それが聖霊によって私たち一人ひとりに与えられている力の要素です。私たちは等しく、同じ神からの聖霊によって生かされ、造り変えられ、確信をもって神を宣べ伝える者とされています。

ですから、この出来事によってモーセが「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」という願いが叶えられたのです。特別に預言者として立てられた者だけが、神のみ言葉、み旨を顕すのではなく、今、聖霊によってすべての人が神のみ言葉を伝える預言者とされているのです。人の能力の優劣は関係ありません。ましてや、弟子たちは等しく主イエスから一度離れ、裏切った罪人なのです。そこに清く正しい人は居ませんでした。

しかし、神はその弟子たちに聖霊を与えてくださったのですから、同じ罪人の一人である私たちにも同じように主を宣べ伝える預言者としてくださっているに違いないのです。そして、私が語るのではありません。語るのは、私たちの内に来てくださった聖霊自らが語ってくださいます。
神の息吹が私たち一人ひとりの内から吹き荒れるのです。

詩編作者の一人はこの神からの息、霊について「息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。
30あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。」(詩編104:29b30)と語っています。この神からの賜物なくして私たちの宣教はあり得ないことを見事に証しています。聖霊が与えられたからこそ、私たちは、私たち自身生かされていること、そして、隣人を生かす者とされ、塵や虚無の中から命溢れる恵みに引き上げられていることを知るのです。

この聖霊がいつも共に在ることを私たちは改めて今日覚えてまいりましょう。私たちの一切を力づけ、希望に溢れさせ、平安に導く弁護者、命の水の源泉が私たちの内に留まり、神の愛の源泉としてくださっています。聖霊によって神と結ばれ、神の愛に溢れさせ、神の愛を宣べ伝える者として立てられている喜びを抱きながら、遣わされる日々を聖霊と共に歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。