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2014年1月31日金曜日

1月26日の説教

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聖書箇所については上のリンクから


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日読まれた福音書の日課は、イエスの最初の弟子であるペトロとアンデレ、そして、ヤコブとヨハネの兄弟の出会いの物語です。
聖書の中でも大変有名な個所であり、そして、この箇所は、私たちにイエスの弟子として、即ちキリスト者として生きるということがどういう事かということを教えてくださっている御ことばです。
さて、先ずこの弟子たちについて見ていきたいと思います。
ペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネの兄弟は、それぞれに漁師としての人生を歩んでいました。ガリラヤ湖畔ではごく一般的な職業であったようです。なんら特別な職業でない人々であったということです。イスラエルの市井の中で、おそらく誰からも注目されずにこれまで生きて来たのだと思います。
そして、何よりも彼ら自身も自分たちが何かをなしえようとも思わなかっただろうし、何かをなしえる力を持っているとも思わなかったことでしょう。しかし、そのような本当にしがない漁師たちを最初の弟子として召しだしたのです。

このことの意味を私たちは今日この時御ことばに聴いていきたいと思うのです。
彼らは、福音書を読み進めていくと明らかになりますが、信仰的に素晴らしかったというわけではなかったようです。ペトロは、イエスが主であると告白するという記事がありますが、十字架の場面では、イエスの仲間ではないかと問い詰められ、怖れを抱き三度知らないと言い、イエスを裏切ってしまいます。また、ヤコブとヨハネの兄弟もまた来るべき世が来たときには、あなたの右と左に置いてくださいと頼み、権威や権力というものに囚われている姿が露わにされています。
ですから、彼らは決して素晴らしい信仰を持っていたということではないのです。イエスによって弟子として召しだされてなお、迷いと恐れ、誘惑に対して弱い者であるということが語られています。

しかし、このような彼らの姿を思ってみますと、私たち一人ひとりもまたイエスを信じると告白し、キリスト者として歩んではいますが、ひとたび誘惑に陥るとなかなかそれを克服することが難しいなと思わされます。そういった経験を誰しもがしてきたことだろうと思います。

それは何故でしょうか。考えて見ますと、私たちはこの世で生きる中で何かを獲得するという人生を歩んでいるからだと思います。赤ん坊としてこの世に生を授かり、成長する中で私たちは身体的にもハイハイができるようになり、つかまり立ちができるようになり、歩けるようになるということを獲得していきます。
また、言葉を獲得し、知識を獲得していきます。さらに成長していけば、地位や、名誉、何かしらの権威、財産など様々なことを獲得していくのです。私たちは、このようにして何かを足し算していくことが人生を豊かにすることだろうと思っています。

それは、人間の事がらだけでなく、この世の仕組みなどにも言えることです。もっと便利にという思いが、炭やガス、油という天然の資源を利用することへと進歩していきました。料理一つとっても、もっと時間を有効利用するために、冷凍食品や、レトルト食材というものを生み出したのでしょう。
つまり、私たちは何か生きている限り、進歩させよう、発展しようというプラス、プラスという考え方をもって生きていくことが当たり前になっているのです。

しかし、ペトロたちがイエスの弟子として召しだされた時に何をしたかと言うならば、漁師という職業にとって最も大切な網を捨てたということです。さらには、父親すらも残して行ったのです。おそらく、この時代に生きる人々もまた、もっと稼ぎをとか、漁師であれば、もっと魚が取れるためにはということを考えていたでしょう。それはすなわち、足し算の生き方です。つまり、私たちと同じように何かを獲得していくことこそ、人生を成功に導くと思っていたのです。

イエスの弟子として生きるということの本質は、そのような足し算の人生ではないのです。
結論から申しますとキリスト者として生きるということは、徹底的に引き算の歩みであるということです。
今、聖書を読む会で詩編118編を学んでいますが、その中でこの詩編作者を通して、神の他に頼る者の無いこと、そして、何よりも何かにこだわり、心を囚われることは無いという力強いメッセージを貰いました。
まさに、この時弟子たちに起こったことは、このイエスに従うということ以外何も必要のないことを悟らされたのです。

ここで注意せねばならないのは、その時にも私の決断が必要かと不必要かという問いは意味を持たないということを覚えることです。
本日読まれた、イザヤ書の日課においてそのことが明らかにされています。主なる神は、イザヤに「わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。」という預言を与えます。すなわち、このことが意味していることは、キリスト者として生きることは、何か資格が必要であるとか、相応しい心持で居なければならないということではないのです。それは徹底的な神からの呼び出しであるということです。

ですから、私たちはその声にただただ付き従うというこの一点に集中するのです。そして、そのような私たちに対して神はそのみ手を伸ばし、私たち一人ひとりを導いてくださっているのです。これは、神の恵みの中に置かれているということです。神は徹底的に私という存在を恵みで満たし、導いてくださっているのです。
パウロが、「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」とあるように、神ご自身が、イエスご自身が、私のすべてとなってくださったのです。
ですから、私たちは、ペトロたちが弟子とされた時、生きる術を全て捨ててイエスに従ったという姿に疑問を抱く必要はないのです。人間的に見れば、その人のすべてを失い、おろかに見えます。
けれども、キリスト者として生きるということは、この引き算の生き方に有るのです。

徹底的に自分を着飾っている物を脱ぎ捨てていくこと、そして、自分を露わにしたとき現れる自分の持っていたエゴや、欲望、力への羨望が何の役にも立たず、むしろそれが罪ということを自覚するに至るのです。
そして、同時にそのようなモノに対して私たちが無力であり、成す術がないことを覚えるのです。その時に変わらずに輝き、真実なものは、神の御ことばであり、神の愛であり、神の癒しであり、慰めなのです。
私たちは、この神からくるものに徹底的に自分を委ねていけばよいのです。

私たちは、新しい年を迎え、今年の教会について話しあう時を持とうとしています。
そのような中で、私たちは大きな事がらを話し合おうとしています。このことがどうなるかと思わされます。本当になすことができるか、何かトラブルが起こるのではないかと色々な思いが頭をよぎります。
けれども、今日の福音に描かれている弟子たちの姿を通して、むしろ何もないことによって与えられる多くの恵みがある、そして、そのような何もかもを主に委ねたときに、注がれる恵みがあるということを覚えました。

あえて自分を無にすることを恐れずに生きましょう。そこに注がれる神の恵みに信頼し、歩んでまいりましょう。必ず神がこの教会の群れに相応しい実を実らせてくださいます。相応しい器を備えてくださいます。神の恵みが絶えず私たちに注がれています。これまでの教会の歩みもそうであったように、これからも神の栄光を顕すものとして、この地で神の御ことばを確信をもって宣べ伝えていきましょう。
イエスがその宣教の働きにおいて「巡回し」「教え」「宣べ伝え」「癒された」ということをマタイは伝えています。このイエスの宣教の業に私たちも召しだされているのです。
ですから、主の恵みを全ての人々に告げ知らせる召しをそれぞれに与えられた賜物を活かして、共に祈り合い、共に担い合い、共に愛し合いつつ歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。