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2015年1月20日火曜日

1月18日の説教

第一日課:サムエル記上3110()432
1少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。2ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。3まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。4主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、5エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。6主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。7サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。8主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、9サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。10主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」

第二日課:コリント信徒への手紙Ⅰ61220 ()306
12「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。13食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。14神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。15あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。16娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。17しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。18みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。19知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

福音書:ヨハネによる福音書14351()165
43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。


【説教本文】

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

本日読まれている福音に日課は、イエスがフィリポとナタナエルを弟子にする場面です。
おそらく、聖書を長年読んでいる人でも、この二人のことについてよく知っているという人は少ないことでしょう。と、言うのも彼らは、共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカには、12弟子をイエスが指名する時以外には登場しないからです。それくらいに非常に私たちにとって馴染みの薄い弟子たちの物語から、今日私たちに神が何を語りかけてくださっているのかご一緒に耳を傾けてまいりましょう。

さて、そのような中で登場する人物の中で今日見ていきたいのは、ナタエルという人についてです。
彼は、他の共3福音書では、バルトロマイという名前で登場します。と言いましても、これは二人の人物という事ではなく、マタイ、マルコ、ルカでは、彼のことを所謂、父親の姓が「トロマイ」で「バル」が息子と言う意味ですから、トロマイの息子という事です。いずれにせよ、ヨハネは、彼の名前を明確にナタナエルであると記したのです。

しかしながら、この名前が今日の福音において重要なことであると思うのです。
彼の名前の意味は、ヘブライ語で二つの言葉に分けられます。一つが「ナータン」であり、もう一つが「エル」です。
始めの「ナータン」は、与えるという意味があります。そして、後者の「エル」は、神という意味です。
つまり、彼の名の意味は、「神が与える」という事です。
名は体を表すという言葉がありますが、まさに彼は、この名の通り、彼自身イエスの昇天後大きな働きを成していき、神が与える事がらによって、宣教者として大きな功績を残します。

そういうナタナエルでありますが、それではこの時彼が何を神から与えられたのでしょうか。
それは、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人に偽りがない。」というイエスの言葉に在るのではないでしょうか。
始め、ナタナエルは、フィリポとの対話の中で「ナザレから良いものが出るだろうか」とフィリポが信じ、従った方のことを疑います。これは、当時の人から見るならば至極まっとうな考え方です。なぜならば、ナザレはガリラヤ地方の中でもさらに田舎の小さな村です。そのような所から、モーセの律法に記され、預言者が語る様な救い主が現れるとは、とうてい思いもよらないことなのです。

すなわち、彼が弟子として召しだされる時、疑いから始まっているのです。
翻って見て私たちも神を信じる時、そういった感情から入るのではないでしょうか。本当にこの人は救い主なのか。わたしの痛みや、悲しみを癒し、励ましてくださる方なのかという思いから入ります。
信じていい者かどうか、私たちはまず疑い、推し量ろうとするのです。

しかしながら、そのような私たちにイエスの眼差しがまっすぐに向けられているのです。なぜならば、彼がイエスを知る前からイエスはナタナエルを知っていたからです。
フィリポから話しかけられる前から彼が「いちじくの木の下にいるのを見た」と言っているように、イエスは、既に彼のことを知っていたのです。これは、偶然に彼のことを見たという事ではありません。

ヨハネ福音書において「見る」という事は「知る」という事です。すなわち、イエスの眼差しは、すでにこのナタナエルという一人の人に向けられていたということなのです。
そして、彼にはじめから弟子としての召命が与えられているという事を明らかにするのです。

私たちは、この眼差しになかなか気づくことができないのです。今日の第一日課で読まれているように、サムエルでさえ、その時、その声が神の声であるということに気づくことができませんでした。エリに教えられて初めてその声が神の語りかけであるということに気づかされます。
まさに私たちもこのサムエルのように、そして、ナタナエルのように、本当に見たり、聞いたり、教えられない限り神のことは知りえないと考えてしまいます。

しかしながら、神の声も、神の眼差しも実は初めから私たち一人ひとりに向けられているのです。
私たちが知ったから、教えられたから信仰が、祝福が与えられるのではなく、神は、既に神を知る前からこの私に恵みと祝福とを与えてくださっているのです。
このことに気づかされたナタナエルは「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と信仰を告白します。「ラビ」すなわち先生という存在から、この神の眼差しによって、この方は「神の子」であるということに気づかされる、すでに自分が神に捕らわれていたのだという事を深く悟るのです。

そのようなナタナエルにさらにイエスは、恵みと祝福を与えます。
彼がイエスの偉大な出来事、しるしの目撃者となると言うのです。はじめからナタナエルのことを知っているという恵み以上の恵みが与えられるのです。
それは、何かと言うならば、十字架の贖いと、復活による永遠の命の約束です。そして、これをヤコブの夢での出来事を想起させながら、イエスこそが、神のみ国との通り道であるという事を顕かにしているのです。
つまり、この罪の贖いによる赦しと、永遠の命の約束は、主イエスと一体となることによって豊かに与えられるということを示し、パウロが言っているように私たちの体を神からの聖霊が宿る神殿とすることによって実現してくださっているのです。

ですから、私たちはまさに「ナタナエル」「神から与えられる」者なのです。この出来事によって私たちは召し出され、神の宿る神殿に作り替えられているのです。疑い、迷い、信仰を告白して尚、罪を犯してしまう弱い信仰者である私を神は神ご自身から来る恵み、すなわち十字架の贖い。それこそがパウロの語る代価です。これによって、「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」とされているのです。
だからこそ、私たちは、この世にあって主の栄光を現すために働いていきましょう。そして、この栄光とは、私たちが考えるような栄光ではありません。それは、十字架というイエスの苦しみを宣べ伝えるという事です。
この世にあって、これは馬鹿げていることのように映ります。人々が求めている事がらとは、全く違う出来事です。しかし、このイエスご自身の苦しみの中に、私たちの痛みや悲しみ、罪を癒し、慰める神の栄光があるという事を確信をもって宣べ伝えるのです。

困難なこともあるでしょう。しかし、私たちは、この十字架のイエス、ただ一点を見つめて歩んでいくのです。これがイエスの昇天後多くの弟子たちが、キリスト者たちが、連綿と宣べ伝え続けたことです。
この神の隠された恵みを私たちは明らかにされています。これを私たち自身も神の聖霊によって豊かに証しし、隠された恵みが、しかも何にも代えがたい恵みがそこに在ることを世に証しし続けましょう。
それは、あなたを知らないとは決して言わない方が居るということ、あなたの存在を知っている方が居るということ、神は苦しみを通して、あなたの苦しみを知っているのだということを宣べ伝えていきましょう。

ナタナエルは、後に宣教者としてこの神からの福音を宣べ伝え、最後は皮剥ぎの刑によって殉教していきます。非業の死です。しかしながら、彼はこの時から神が共に居て、私を捉えてくださっているということを覚えながら神の御もとに帰っていたのです。今の世、殉教という事はありません。しかしながら、この私の声は世の喧騒にかき消され、空しく響くだけという事もあるでしょう。そういう世です。けれども、声を押し殺してはなりません。高らかに神の栄光を現し続け、これからもこの地で神の福音を神の恵みと祝福に支えられながら宣教し続ける群れとして共に祈り合い、支え合い、愛し合いながら歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※詩編の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00
 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。