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ようこそ日本福音ルーテル下関教会のHP兼ブログへお越しくださいました。

日本福音ルーテル下関教会は2015年に宣教100周年を迎えました。

ドイツの宗教改革者マルティン・ルターの流れをくむ伝統あるプロテスタントのキリスト教会です。

どなたでもお越しください。心より皆様のお越しをお待ちしています。

教会には聖書と讃美歌の準備がございます。どの集会も手ぶらでお気軽にお越しください。

マタイによる福音書11章28節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

2017年5月21日日曜日

復活節第6主日礼拝説教

「約束の聖霊」

主日の祈り
永遠に生きておられる全能の神様。あなたは天と地のすべてを一つに結び付けてくださいます。豊かな憐れみによって、あなたのすべての子どもたちの祈りを聞き入れ、全世界に真理と平和の聖霊を授けてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編668-20節(旧)898
66:8諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。
9神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。

10神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。
11あなたは我らを網に追い込み/我らの腰に枷をはめ
12人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが/あなたは我らを導き出して/豊かな所に置かれた。

13わたしは献げ物を携えて神殿に入り/満願の献げ物をささげます。
14わたしが苦難の中で唇を開き/この口をもって誓ったように
15肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を/雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。〔セラ
16神を畏れる人は皆、聞くがよい/わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。
17神に向かってわたしの口は声をあげ/わたしは舌をもってあがめます。
18わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。
19しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。
20神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく/慈しみを拒まれませんでした。

本日の聖書日課
1日課:使徒言行録1722-31()248
17:22パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。23道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。24世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。25また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。26神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。27これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。28皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。29わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。30さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。31それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

そのことの確証→悔い改めることの意味

2日課:ペトロの手紙Ⅰ 313-22()432
3:13もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。14しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。15心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。16それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。17神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。18キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。20この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。22キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

福音書:ヨハネによる福音書1415-21()197
14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

【説教】

復活節は、主イエスの復活を覚え、神から与えられる永遠の命に生かされていることを心に留める時です。しかし、今日のみ言葉にあるように、主イエスは間もなく天に帰られることを私たちに示唆しています。そのような中で主イエスはただ私たちの目の前からいなくなるのではなく、「別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」という約束を与えてくださっています。
私たちはまさにこの約束の弁護者が遣わされているがゆえに、神の真理を知り、主イエスの救いの御業を信じる信仰が与えられているのです。そして、この約束は、使徒たち以来、連綿とすべての人間に遣わされている真理の霊なのです。ですから、この真理の霊は、今も私たちの内に働き続けてくださっています。
この真理の霊が働いてくださっているという神の出来事の中にある恵みを覚えながら、この真理の霊が示す事がらは何か共に聴いてまいりましょう。

私たちは、主イエスに実際にお会いしたことはありません。しかしながら、不思議なことにキリスト者といわれている人々は、主イエスの存在をとても近しい存在として感じ、そして、会ったことも、見たこともない人を信じ、その方によって教えられ、戒められ、心に平安を与えられています。私個人としても実際に触れあったことのある使徒たちや、回心の時に主イエスと出会ったパウロが羨ましくもあります。
実際にお会いし、その顔を仰ぎ、声を聴くことができたらと誰しもが思うことです。

では、キリスト者であるということは、そういうあやふやで、曖昧で、幻のような存在を信じているのかと思わされます。実際に見たことも、聞いたこともない方を信じているのですから、そのように思われても仕方がないことのように思います。しかし、そういう私たちの疑いや不安に対してハッキリと応えてくださるのも神であり、まさに今日与えられているみ言葉を通して、その事がらについて語り、約束してくださっているのです。

というのは、まず弁護者という言葉にそのことが示されています。ギリシャ語ではパラクレートスといいます。これはパラとカレオーという言葉が合わさってできた言葉です。直訳するならばさ「そばから(パラ)呼ぶ(カレオー)」となります。すなわち、たとえ主イエスが見え無くなろうとも、この弁護者が私たちのそばで呼び出してくださり、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」という約束を確信に至らしてくださるのです。
キリスト教における召しとは、英語でcallingと表されます。このことからも示されているように、キリスト者として召され、神のみ言葉を聴く者とされていくということは、私たちが聴く耳を持ったからではないのです。

この真理の霊が、たとえその姿を見ることが適わなくとも、私たち一人ひとりを呼び出し、主の御許へと招いてくださったからに他ありません。どうしようかと途方に暮れている時に、悲しみの淵にある時に、孤独を抱え寂しさを覚えている時に、どんな時にも、この真理の霊が私たちを呼び求め、時に人を通して、時に教育を通して、時に出来事を通して顕れてくださり、お一人おひとりを神の御許に導いてくださったのです。

そして、この導きによってここに集う全員が今まさに同じ主の御声を聴くときが与えられ、主イエスの働きを五感で感じ取り、ここに生かされているのです。たとえ見えなくともたしかに主イエスが約束して下さった真理の霊によって私たちは今あるという確かさの中に置かれていることをこの礼拝を通して私たちは確信する時を与えられているのです。

もし、自分の思いで行きたいから行く、行きたくないから行かない、奉仕したいからする、しないであるならば、教会は教会として一致して宣教に励むことができるでしょうか。そうではないはずです。ですから、私たちがこうしてここに集い、日々を生かされているのは同じ霊によって、私たちのすべてが満たされ散るからに他ありません。同じ霊が働き、同じ神を知るようにしてくださり、十字架から等しく愛と赦しとを賜っているから私たちは一致して宣教に励むことができるのです。

私たちは確かに目で見て、耳で聞くことは適わないかもしれません。しかしながら、この主イエスが約束された真理の霊によって「あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」というみ言葉を悟らせ、主イエスが今も共に居て、私たち一人ひとりを霊を通してそばにいて読んでくださり、見えなくとも見る者とされ、聞こえなくとも、聞こえる者とし、触れることができなくとも、触れる者としてくださっているのです。

この神の御業の中に私たちは信仰によって味わい知る祝福と恵みをいただいています。孤独のうちに主イエスを見出し、悲しみの内に主イエスを見出し、喜びの内に主イエスを見出し、人生の歩みのあらゆる場面に主イエスが共に居てくださっているという確信を得ています。だから平安なのです。すでに罪に死に、主イエスの復活の命によって救われているという確信を与えられているのです。

ですから、私たちはもはや自分の平安のためにあくせくする必要がありません。自分の悲しみを癒すために何かを探し求める必要はありません。自分の孤独を埋めるためにほかの何かで埋め合わせる必要はありません。しかし、世にはこの恵みがすべての人に与えられているにもかかわらず気づかずに、それらの思いに囚われ、不自由にしている人々を多く見出します。

ペテロがアテネの人々に「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」と証したように、私たちはまだ主イエスを知らない人々に、真理の霊によってあなたはいつも神と共に生き、生かされているのだということを証していきましょう。そして、世の人々の内に真の平安が沁み渡っていくように働いてきましょう。「わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」と主イエスが語られているように、主に愛され、主を愛している私たちなのですから、私たち一人ひとりを通して働かれる主に信頼して宣教の業に励んでまいりましょう

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。