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ようこそ日本福音ルーテル下関教会のHP兼ブログへお越しくださいました。

日本福音ルーテル下関教会は2015年に宣教100周年を迎えました。

ドイツの宗教改革者マルティン・ルターの流れをくむ伝統あるプロテスタントのキリスト教会です。

どなたでもお越しください。心より皆様のお越しをお待ちしています。

教会には聖書と讃美歌の準備がございます。どの集会も手ぶらでお気軽にお越しください。

マタイによる福音書11章28節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

2017年4月21日金曜日

復活祭(イースター)礼拝説教

「走って知らせたいこと」

主日の祈り
永遠の神様、あなたは人類への限りない愛によって、主イエス・キリストを遣わされました。主は人となられ、十字架の死を死なれました。御心に従い、栄光の復活をなさった主の生涯に従うことができるよう、私たちを憐れんでください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編1181-214-24節(旧)957
118:1恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
2イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。

14主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。
15御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。
16主の右の手は高く上がり/主の右の手は御力を示す。

17死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。
18主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。

19正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。
20これは主の城門/主に従う人々はここを入る。
21わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。

22家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
23これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
24今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

本日の聖書日課
1日課:エレミヤ書311-6()1234
31:1そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。2主はこう言われる。民の中で、剣を免れた者は/荒れ野で恵みを受ける/イスラエルが安住の地に向かうときに。3遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ。4おとめイスラエルよ/再び、わたしはあなたを固く建てる。再び、あなたは太鼓をかかえ/楽を奏する人々と共に踊り出る。5再び、あなたは/サマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人が、植えたその実の初物を味わう。6見張りの者がエフライムの山に立ち/呼ばわる日が来る。「立て、我らはシオンへ上ろう/我らの神、主のもとへ上ろう。」

2日課:使徒言行録1034-43()233
10:34そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。35どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。36神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、37あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
福音書:マタイによる福音書281-10()59
28:1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。


【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日はイースターです。キリスト教にとってもっとも大切な祝祭日を私たちは覚えています。この主イエスの復活の出来事がなければ、私たちに与えられている信仰、喜び、恵み、強さの確かさは得ることが無かったと言っても良いでしょう。それほどまでに、主イエスの復活は、私たちにとってなくてはならない出来事です。
この出来事から共に神の福音に聴き、復活の喜びを味わってまいりましょう。

だれでも子どもの頃の思い出の一つに、何かできたりしたときにお母さんやお父さんに「見て!見て!」と走り寄った思い出があるのではないでしょうか。わたしも虫を捕まえたり、上手に家の手伝いなどができた時はそんなことをした記憶があります。そういう時に子どもの心情には、喜びがあり、その喜びを分かち合いたいという純粋な思いがあるように思えます。

まさに、この復活の朝、み使いを通して知らされたこの復活の出来事を弟子たちに知らせに走った女性たちもそんな気持ちだったのではないでしょうか。「恐れながらも大いに喜び」という、彼女たちの感情表現がそのことを豊かに表しています。
この恐れとは、恐怖から来る恐れではありません。主イエスが自分たちに語り掛けてくださっていたみ言葉が成就したこと、そして、神の偉大なる御業に恐れを覚えたのです。それは信仰から来る恐れです。

そして、それとともに喜びも与えられました。真に主は復活されたという喜びです。きっと彼女たちもイエスに従って歩んできたのですから、イエスの復活の予告を聞いていたことでしょう。どんな思いで聞いていたかは分かりませんが、しかし、その主イエスのみ言葉を天使の言葉を通して思い出し、同時に、今目の前で主のみ使いである天使が語り掛けてくださっている事がらとを合わせて考えてみるならば、主のみ旨、み言葉がここに成就したのだという確信を与えられ、喜んだのです。

この神への恐れと、神のみ旨である愛する主イエス・キリストの復活の喜びが心のうちに同居する中で、彼女たちは走って言われた通り弟子たちのもとへと向かいます。一刻も早くこの神のみ言葉が成ったということを知らせたい、何よりも愛する主が復活されたという真実は彼女たちに最良の喜びを与えてくださっています。

その途上で彼女たちは、主イエスと出会います。復活の命を顕す方が、主の復活という福音を告げ知らせる者の行く手に立っていてくださるのです。マタイ福音書の一つの大切なメッセージは、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)というみ言葉です。まさに、復活の主を告げ知らせる者と共に主イエスが共に居てくださる、行く手に居てくださるということをこの時、顕してくださっています。

しかも、その時に主は「おはよう」と語り掛けてくださいます。この言葉は、ギリシャ語ではカリスという言葉で「恵み」という意味です。回りくどい言い方をするならば「あなたがたに恵みがあるように」という言葉になります。すなわち、主の復活を告げ知らせる時、それは私たちの宣教の業にも言えることですが、復活の主イエスご自身がその道行きに共にあって、「あながたに恵みがあるように」すなわち、主の復活の命によって与えられる神からのすべての善いものがあるようにと祝福してくださっているのです。

私たち罪人のために主イエスは、十字架の上で死なれました。そして、その十字架によって流された主イエスの血によって、贖いの生け贄の血としてくださり、私たちは赦され、救われました。さらにそれにも増して、神は復活のイエスを私たちとの出会いを与え、復活の主ご自身から「恵みがあるように」と語り掛けられる者、そして、主の復活の命の恵みにいつまでも生きる者とされている真実を明らかにしてくださいます。

そして、何よりも主イエスは死を超えて、すなわち死に打ち勝って新しい命の在り方を私たちに示してくださいました。それが「永遠の命」です。これは不老不死ではありません。神が初めから終わりまで世を支配されているように、その神との関わりの中でいつまでも生かされている命であるということです。この世で肉体的に滅びても、神の御国において生きる者とされ、終わりの時まで神共に居るということを確信させるのです。

ですから、肉体的な別れは迎えたとしても、霊的な、信仰的には主イエスが聖霊の息吹によって今も働いてくださっているように、私たちの信仰もいつまでも残るのです。その生きた信仰によって教会は脈々とその神の福音を告げ知らせてきました。死んだ信仰であれば、それは停滞していたことでしょう。しかし、2000年経った今も主のみ言葉が私たちを生かし、恵みと歓びに満たしてくださるということは、この種の復活の出来事以来、すべての信仰者に与えられた神からの生きた信仰があるからに他なりません。

この主の復活に際して与えられている永遠の命の恵みと信仰と喜びは、この女性たちにだけ与えられたものではありません。この神のみ言葉を読むごとに、主イエスの死と復活の出来事を覚える礼拝毎に、わたしたちにも同じように与えられています。すなわち、古の信仰者たちと同じ信仰が、今を生きる私たち一人ひとりにも与えられ、私たちを間違いなく喜びに満たす力として与えられているのです。

だからこそ、私たちは主を主とする喜び、恵みの確信を与えられているのです。姿形は見えなくとも「恵みがあるように」と語り掛けたもう主イエスが共にある、そして、そのことを私たちは告げ知らせる者として立てられている伝道者、宣教者として今ここに在るのです。
この救いの喜びを私たちは自分たちだけの固有のものとするのではなく、彼女たちが走って知らせにいったように、私たちも今日からまた遣わされる各々の場において、主イエスの復活を喜び、走って知らせたくなるほどの情熱をもって伝えていければと思います。

「民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」とペテロが語っているみ言葉を胸に刻みたいと思うのです。私たちもペトロ同様に、罪に躓きながら、主イエスの復活の命に与り、み言葉を宣べ伝える宣教者として神から立てられ、力強く証するようにと命じられています。ぼそぼそと語るのではなく、力強く主を証しし、主の恵みを全ての人に語りかけ、福音を恥とせずに堂々とそれを語りましょう。

この女性たちの走って知らせたことが、世界中に広がり、今私たちのもとに届いているのですから、多くの人のこの女性たちと同じ思い、ペテロの宣教者として力強く証ししたことが主の福音を世界中に知らせたのだということを改めて思い起こしながら、私たちもなすべきことがら、語るべき主のみ言葉をとらえて、あなたにも神からの赦しと恵みと永遠の命の約束が与えられているということを力強く走って告げ知らせてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。