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ようこそ日本福音ルーテル下関教会のHP兼ブログへお越しくださいました。

日本福音ルーテル下関教会は2015年に宣教100周年を迎えました。

ドイツの宗教改革者マルティン・ルターの流れをくむ伝統あるプロテスタントのキリスト教会です。

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教会には聖書と讃美歌の準備がございます。どの集会も手ぶらでお気軽にお越しください。

マタイによる福音書11章28節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

2017年4月12日水曜日

聖週間・聖水曜日礼拝説教

「神の善きものを受け取りながら」

主日の祈り
全能の神様、御子は罪人の手に渡され、十字架の辱めを耐えられました。私たちも主の十字架の道を歩み、命と平和の道だと悟ることができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編70編(旧)904
70:1【指揮者によって。ダビデの詩。記念。】
2神よ、速やかにわたしを救い出し/主よ、わたしを助けてください。
3わたしの命をねらう者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き
4はやし立てる者が/恥を受けて逃げ去りますように。
5あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/神をあがめよといつも歌いますように。
6神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。

第一朗読:イザヤ書50:49a()1145
4主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。
5主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。
6打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
7主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。
8わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。
9a見よ、主なる神が助けてくださる。

第二朗読:ヘブライ人への手紙12:13()416
12:1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。3あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

福音書:ヨハネによる福音書13:2132()195
裏切りの予告
1321イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」22弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。23イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。24シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。25その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、26イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。27ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。28座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。29ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。30ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
新しい掟
31さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日与えられているみ言葉は、裏切りの予告です。主イエスの十字架がこの裏切りをもって成就するに至ったと言っていいほどの重要な場面です。この食事の席における予告が、ユダを裏切りへと歩ませます。この事がらが物語っている神の福音とは何でしょうか。ご一緒にこの出来事を見つめ、福音に聴いてまいりましょう。

この時、イエスが裏切りの予告をしたとき弟子たちに大きな動揺が走ります。しかし、この主イエスの口から出た予告は「断言しされた」とありますが、「証した」とも訳すことができます。そのように読み解いていくならば、この裏切りが神のみ旨を顕していると言えます。
なぜならば、主イエスが語られていることは、「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。」(ヨハネ12:4950)とイエスご自身が語られているように、神のみ言葉です。

そして、それは「父の命令は永遠の命である」と語られているように、神の神秘、神から与えられる最上の救いの賜物を証する言葉なのです。ですから、この裏切りの予告は、弟子たちに非常にセンセーショナルな言葉であると同時に、主イエスの救いの御業を成し遂げるにあたって、神が主イエスに命じ、永遠の命を証するのに必要な言葉だったのです。

そのような神のみ旨が示されながらも、弟子たちは神のみ言葉に対して無知で、無理解でした。「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた」とあるように、まったくもって当事者意識がありません。しかし、その人を明らかにするとき、主イエスは浸したパンをユダに渡されました。ユダがその人だということを明らかにしたのです。

しかしながら、主イエスから与えられるものは、すべて善なるものです。そうであるにもかかわらず、この時、主イエスからそれを受け取ったユダにはサタンが中に入ってきました。善を与えたもう神の御子であるにもかかわらず、ユダにはサタンが入り込んだのは何故でしょうか。そのことを明らかにするならば、何を受け取ったのかではなく、だれが受け取ったかということが重要なのです。そして、与える物の性質ではなくて、与えられるその人自身の性質が問題なのです。

すなわち、それは受け手の側に問題を孕んでいるのです。当時、ユダヤ教の指導者と言われている人々は、律法を一字一句守ることによって救いに与る存在となるし、その自負をもって過ごしていました。しかし、それが排他的な考えを増長し、弱き者を挫くこととなってしまいました。律法は、神から与えられた最良なる掟です。しかし、受け手である人間が、それを自尊心や、自負、また他者との強烈な線引きをする道具としてしまいました。まさに善が悪となり、人の魂を害するものとなってしまったのです。

この事がらは、何もユダにだけ起こる事がらではありません。わたしたちにも起こりうることですし、起こってきたことです。それによってキリスト教会は、多くの分裂をきたしてきましたし、多くの争いに加担してしまいました。それは歴史が物語っています。しかしながら、今日の福音に示されているように、神は人間によって神の善が悪や害になってなお、それをも用いて神の栄光を顕されます。

それは「「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」と語られているようにユダのこの裏切りが、神の栄光を受けるその瞬間に必要な神の出来事とされたのです。すなわち、人間の罪が、神の贖いと赦し、栄光、救いという神の善を豊かに顕す出来事へと変えられたのです。私たち人間には成し得ません。なぜならば、私たちは自分自身によって悪を善に成すことはできませんし、そもそも罪によって悪を行うか、行わないかの意思しか持ちえないからです。

今日のヘブライ人への手紙の結びで「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」と語られています。まさに裏切りは、主イエスへの反抗です。しかし主イエスは、これを忍耐し、その恥を受け、十字架に進み、この反抗を斥け、罪に勝利してくださいました。

この忍耐が、私たちに最善を与えてくださいました。ですから、私たちは罪人であるということを深く心に刻み、神のみ前に正しくあれない、善を悪や害に変えてしまう私であるけれども、それをも神は神の善を顕すために用いてくださったということを覚えていきたいのです。
罪人でしかない私に神は十字架からいつも善きものを注いでくださいます。この神から与えらえる善を、神から賜る信仰によって、神の善を世に証しし、顕すことができるようにという祈りをもって歩んでいきましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。