本日、私たちは昇天主日礼拝という特別に名前の冠された主日の礼拝を守っています。
この日は、聖霊降臨祭の前の週に置かれていて、いよいよイエス様が復活して40日間の地上での歩みを終えられて、天に帰っていくという場面です。
そのような時を私たちは与えられて、イエス様は聖書を通して「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」という御ことばを残して行かれました。
私たちは、この御ことばを受けてどう思うでしょうか。
まさに、今イエス様の時代から数えて2000年の時が経とうとしている今もこの御ことばが伝えられているということは、これまでの間に、何人もの人々がこのイエス様の御ことばを宣べ伝えたから、エルサレムから遠く離れたこの日本にも伝わっているのです。まさに、イエス様のこの御ことばが、この時、この場に現実のものとなっているということを証ししています。
さて、その間において人間は、これまであれやこれやと色々と宣教のために知恵を出し合って、色々なことをしてきたかもしれませんが、この働きの根本にあることが今日のこの御ことばには語られているように思います。私たちが何故この神様を、イエス様を宣べ伝える続けることができたのかこのイエス様の昇天という出来事によって示されているのです。そのことが何かということを今、この時共に御ことばから聴いてまいりたいと思います。
さて、このイエス様の昇天の出来事は、ルカ福音書と使徒言行録のつながりと言うことにおいても、大変重要なターニングポイントを迎えているということを私たちに示しています。ルカ福音書において、最後の出来事は、このイエス様の昇天の出来事です。
そして、同時に、使徒言行録の最初の出来事もイエス様の昇天の出来事から始められています。
つまり、この昇天の出来事は、イエス様の宣教の時代から、弟子たち、使徒たちの宣教の時代に移った瞬間を顕しているのです。
しかし、弟子たちは何故この時、変えられて、宣教を担う者とされたのでしょうか。この直前まで弟子たちは目の前に現れてくださったイエス様を信じることができていなかったのです。まさに、ここに何かの大転換を促す出来事が起こっているのです。
そのこともまた、聖書に記されています。イエス様は、先ほど取り上げた御ことばの前に「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とあります。このことが大変重要な出来事です。
つまり、私たちの力ではないということです。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということが起こる最初の時、イエス様ご自身が弟子たちの心を開いてくださったのです。信じられず、不思議がり、疑っていた弟子たちの心を開く出来事なくして、この弟子たちの大転換は起こり得なかったということを示しています。
私たちの思いや、考えではなく、イエス様のこの働きによって「聖書を悟る」つまり、イエス様がガリラヤから始めて、エルサレムで十字架に架かってくださった意味、復活してくださった意味を知るようになったのです。
私たちは、信じるということを考える時、つい能動的な私たちの感情の問題であるという風にとらえてしまいます。けれども、そうではないのです。私たちは、この時の弟子たちのように、もしも自分たちの思いや、考え、常識にとらわれているのならば、たとえイエス様を目の前にしてもそのことを信じることはできないでしょう。迫害を恐れて宣教に出ることもできなかったでしょう。
それくらいに私たちの心は堅くなって、かたくなになり、怖れを抱いてしまっているのです。そのような私たちの心をイエス様はご存知でした。だからこそ、イエス様はこの地上から居なくなる最後の時に際して、私たちの心を解きほぐし、柔らかくしてくださり、本当のイエス様の出来事を悟ることができるようにしてくださったのです。宣教に恐れずに歩みだす力を与えてくださったのです。
先ほどの「何故弟子たちがこの時を境に宣教を担う者とされたのか」という問いかけに戻りましょう。
私たちは、今聴いてきたように、このイエス様が私たちの心を解き放ち、柔らかにしてくださった、私たちが囚われてしまう常識や、考え方、思いではなく、イエス様のその御業によって変えられているから、弟子たちはイエス様の出来事を宣べ伝える者とされたのです。
この出来事によって、イエス様が私たち人間の罪の赦しのために十字架に架かってくださった恵みを知るようになったのです。復活のイエス様が私たちに永遠のいのちを与えてくださっていること、この地上での死は終わりではなく、その絶望を打ち破る希望を携えているということを知らせてくださったということを心からアーメン、「主よその通りです」と告白することができる者へと変えられたのです。
そして、いよいよイエス様は、昇天されます。
このとき、イエス様は「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」とあります。ここで注目したいのは「祝福して」天に上げられたのではないのです。「祝福しながら」とあるようにそれは、進行形で語られている出来事であり、いまだにそれは終わっていないということです。しかも、天に上げられながら、イエス様は祝福を残して行かれました。
このイエス様の姿を想像してみてください。
この祝福は、最初弟子たちの上で、そして、さらに上げられべたニア周辺の人々の上で、さらに上げられイスラエルの国の人々の上で、遂には地球上全てのものの上にこの祝福が注がれているということなのです。
この祝福は、私たちキリスト者の特権ではなく、この世に生きるすべての人々の上に注がれているのです。
私たちは、この昇天の出来事を今目の当たりにし、神様の祝福がこの世のすべてを内包することを見ているのです。そこには、聖人といわれる人々も、罪深い者も、自然も、動物も分け隔てありません。この祝福が私たちの想像を超える大きな、大きな恵みであるということを物語っています。
この心を解きほぐされ、イエス様の祝福に満たされたとき、弟子たちはイエス様を礼拝しました。
この時ルカ福音書で初めて「伏し拝む」つまり「礼拝する」という言葉が登場します。
人間とは、この神様の御業と祝福によって、礼拝するようになったのです。
ここに礼拝の一つの視点が神様から私たちに向けて与えられています。
つまり、私たちが礼拝をするのは、「礼拝をする」というと能動的な私たちの側からの出来事のように思えますが、しかし、それには前提があるのです。それはまさにこの昇天の出来事、神様ご自身の、イエス様ご自身の祝福と恵みなくしてありえない出来事であるということです。
この時、初めて弟子たちはイエス様を本当に心から主であるということを悟ったからこそ、イエス様を礼拝し、そのことの喜びに満たされたのです。私たちが今こうして礼拝を共にしているのも、まさにこの祝福と恵みによるのものです。
このことがなければ、この場、この時は、私たちの思いで満たされていたことでしょう。
けれども、今私たちがここに集い、祈りと賛美の声をを合わせているのは、イエス様の御ことばに力を与えられ、生きる力に溢れさせていただき、賛美する喜びを与えてくださっているからにほかなりません。
本日の第二日課でパウロがエフェソの人に「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」と語りかけていることが、イエス様の昇天の時に既に起こっていたのです。この時、弟子たちが変えられたことが真実の神様の出来事であるということを証ししています。そして、まさに今、この礼拝の時において、この弟子たちと同じ出来事が私たちのこの群れにも起こっているのです。
わたしたちもまたこの時「聖書の言葉を悟る」つまり、イエス様がこの世に遣わされた意味を知るという出来事が起こっているのです。
この一冊の書物によって語られているイエス様の出来事によって、私たちは変えられ、イエス様を「主」と仰ぐ喜びにあふれさせていただいているのです。
この大いなる祝福と恵みに弟子たちは、心を動かされ、身体を突き動かされて宣教の歩みを始めたのです。
その一歩目がイエス様を「主」であると悟り、礼拝したことから始まったのです。ですから、私たちの宣教のもっとも根本は、この礼拝であるということを今日の御ことばは私たちに語りかけています。
この時、この場で、御ことばが語られること以上に宣教と言えるものはないと言っても過言ではありません。
もちろん、イエス様のことを伝えるために色々と方法を練って、知恵を出し合うことも大変大切な宣教の働きであります。けれども、そのもっとも根幹にあり、もっとも私たちが大切にしなければならないことは、この礼拝と言う時を大切に守り続けることではないかと思います。なぜならば、この時にこそ、神様の祝福と恵みが注がれているからです。
この礼拝なくして私たちの宣教はあり得ませんし、おそらく、ほかの色々な事をしたとしても宣教を成し得ることはできなかったでしょう。ルーテル下関教会が宣教100年を前にして、何故この宣教の業が守られてきたか。それはたゆみなく、信仰の先達、宣教師、牧師の方々が礼拝を大切に守って来たからにほかなりません。
今一度、私たちはこの時、この礼拝に注がれている神様の祝福と恵みを胸に刻み、宣教の歩みがこの礼拝によって強められ、守られ、導かれていくということを覚えてまいりましょう。そして、たゆみなく、しかし、これこそが宣教のもっとも大切な技であるということを覚えて、共に神様を宣べ伝える喜びを分かち合ってまいりましょう。
神様の祝福は、今もそしてこれからもとこしえに私たち一人一人に注がれています。アーメン。