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2017年4月21日金曜日

復活祭(イースター)礼拝説教

「走って知らせたいこと」

主日の祈り
永遠の神様、あなたは人類への限りない愛によって、主イエス・キリストを遣わされました。主は人となられ、十字架の死を死なれました。御心に従い、栄光の復活をなさった主の生涯に従うことができるよう、私たちを憐れんでください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編1181-214-24節(旧)957
118:1恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
2イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。

14主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。
15御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。
16主の右の手は高く上がり/主の右の手は御力を示す。

17死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。
18主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。

19正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。
20これは主の城門/主に従う人々はここを入る。
21わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。

22家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
23これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
24今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

本日の聖書日課
1日課:エレミヤ書311-6()1234
31:1そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。2主はこう言われる。民の中で、剣を免れた者は/荒れ野で恵みを受ける/イスラエルが安住の地に向かうときに。3遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ。4おとめイスラエルよ/再び、わたしはあなたを固く建てる。再び、あなたは太鼓をかかえ/楽を奏する人々と共に踊り出る。5再び、あなたは/サマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人が、植えたその実の初物を味わう。6見張りの者がエフライムの山に立ち/呼ばわる日が来る。「立て、我らはシオンへ上ろう/我らの神、主のもとへ上ろう。」

2日課:使徒言行録1034-43()233
10:34そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。35どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。36神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、37あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
福音書:マタイによる福音書281-10()59
28:1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。


【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日はイースターです。キリスト教にとってもっとも大切な祝祭日を私たちは覚えています。この主イエスの復活の出来事がなければ、私たちに与えられている信仰、喜び、恵み、強さの確かさは得ることが無かったと言っても良いでしょう。それほどまでに、主イエスの復活は、私たちにとってなくてはならない出来事です。
この出来事から共に神の福音に聴き、復活の喜びを味わってまいりましょう。

だれでも子どもの頃の思い出の一つに、何かできたりしたときにお母さんやお父さんに「見て!見て!」と走り寄った思い出があるのではないでしょうか。わたしも虫を捕まえたり、上手に家の手伝いなどができた時はそんなことをした記憶があります。そういう時に子どもの心情には、喜びがあり、その喜びを分かち合いたいという純粋な思いがあるように思えます。

まさに、この復活の朝、み使いを通して知らされたこの復活の出来事を弟子たちに知らせに走った女性たちもそんな気持ちだったのではないでしょうか。「恐れながらも大いに喜び」という、彼女たちの感情表現がそのことを豊かに表しています。
この恐れとは、恐怖から来る恐れではありません。主イエスが自分たちに語り掛けてくださっていたみ言葉が成就したこと、そして、神の偉大なる御業に恐れを覚えたのです。それは信仰から来る恐れです。

そして、それとともに喜びも与えられました。真に主は復活されたという喜びです。きっと彼女たちもイエスに従って歩んできたのですから、イエスの復活の予告を聞いていたことでしょう。どんな思いで聞いていたかは分かりませんが、しかし、その主イエスのみ言葉を天使の言葉を通して思い出し、同時に、今目の前で主のみ使いである天使が語り掛けてくださっている事がらとを合わせて考えてみるならば、主のみ旨、み言葉がここに成就したのだという確信を与えられ、喜んだのです。

この神への恐れと、神のみ旨である愛する主イエス・キリストの復活の喜びが心のうちに同居する中で、彼女たちは走って言われた通り弟子たちのもとへと向かいます。一刻も早くこの神のみ言葉が成ったということを知らせたい、何よりも愛する主が復活されたという真実は彼女たちに最良の喜びを与えてくださっています。

その途上で彼女たちは、主イエスと出会います。復活の命を顕す方が、主の復活という福音を告げ知らせる者の行く手に立っていてくださるのです。マタイ福音書の一つの大切なメッセージは、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)というみ言葉です。まさに、復活の主を告げ知らせる者と共に主イエスが共に居てくださる、行く手に居てくださるということをこの時、顕してくださっています。

しかも、その時に主は「おはよう」と語り掛けてくださいます。この言葉は、ギリシャ語ではカリスという言葉で「恵み」という意味です。回りくどい言い方をするならば「あなたがたに恵みがあるように」という言葉になります。すなわち、主の復活を告げ知らせる時、それは私たちの宣教の業にも言えることですが、復活の主イエスご自身がその道行きに共にあって、「あながたに恵みがあるように」すなわち、主の復活の命によって与えられる神からのすべての善いものがあるようにと祝福してくださっているのです。

私たち罪人のために主イエスは、十字架の上で死なれました。そして、その十字架によって流された主イエスの血によって、贖いの生け贄の血としてくださり、私たちは赦され、救われました。さらにそれにも増して、神は復活のイエスを私たちとの出会いを与え、復活の主ご自身から「恵みがあるように」と語り掛けられる者、そして、主の復活の命の恵みにいつまでも生きる者とされている真実を明らかにしてくださいます。

そして、何よりも主イエスは死を超えて、すなわち死に打ち勝って新しい命の在り方を私たちに示してくださいました。それが「永遠の命」です。これは不老不死ではありません。神が初めから終わりまで世を支配されているように、その神との関わりの中でいつまでも生かされている命であるということです。この世で肉体的に滅びても、神の御国において生きる者とされ、終わりの時まで神共に居るということを確信させるのです。

ですから、肉体的な別れは迎えたとしても、霊的な、信仰的には主イエスが聖霊の息吹によって今も働いてくださっているように、私たちの信仰もいつまでも残るのです。その生きた信仰によって教会は脈々とその神の福音を告げ知らせてきました。死んだ信仰であれば、それは停滞していたことでしょう。しかし、2000年経った今も主のみ言葉が私たちを生かし、恵みと歓びに満たしてくださるということは、この種の復活の出来事以来、すべての信仰者に与えられた神からの生きた信仰があるからに他なりません。

この主の復活に際して与えられている永遠の命の恵みと信仰と喜びは、この女性たちにだけ与えられたものではありません。この神のみ言葉を読むごとに、主イエスの死と復活の出来事を覚える礼拝毎に、わたしたちにも同じように与えられています。すなわち、古の信仰者たちと同じ信仰が、今を生きる私たち一人ひとりにも与えられ、私たちを間違いなく喜びに満たす力として与えられているのです。

だからこそ、私たちは主を主とする喜び、恵みの確信を与えられているのです。姿形は見えなくとも「恵みがあるように」と語り掛けたもう主イエスが共にある、そして、そのことを私たちは告げ知らせる者として立てられている伝道者、宣教者として今ここに在るのです。
この救いの喜びを私たちは自分たちだけの固有のものとするのではなく、彼女たちが走って知らせにいったように、私たちも今日からまた遣わされる各々の場において、主イエスの復活を喜び、走って知らせたくなるほどの情熱をもって伝えていければと思います。

「民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」とペテロが語っているみ言葉を胸に刻みたいと思うのです。私たちもペトロ同様に、罪に躓きながら、主イエスの復活の命に与り、み言葉を宣べ伝える宣教者として神から立てられ、力強く証するようにと命じられています。ぼそぼそと語るのではなく、力強く主を証しし、主の恵みを全ての人に語りかけ、福音を恥とせずに堂々とそれを語りましょう。

この女性たちの走って知らせたことが、世界中に広がり、今私たちのもとに届いているのですから、多くの人のこの女性たちと同じ思い、ペテロの宣教者として力強く証ししたことが主の福音を世界中に知らせたのだということを改めて思い起こしながら、私たちもなすべきことがら、語るべき主のみ言葉をとらえて、あなたにも神からの赦しと恵みと永遠の命の約束が与えられているということを力強く走って告げ知らせてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

聖週間・聖金曜日礼拝説教

「十字架の恵み」

主日の祈り
憐れみ深い神様、御子は十字架に上げられ、全ての人々をご自身のもとへと引き寄せられました。キリストの御傷から生まれた私たちが、いつも御子のうちに憐れみを見出すことができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編22編(旧)852
22:1【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
2わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
3わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。

4だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。
5わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。
6助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。

7わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
8わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
9「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

10わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
11母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
12わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

13雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。
14餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
15わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。
16口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。

17犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
18骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
19わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。

20主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。
21わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。
22獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。

23わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。
24主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。

25主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。
26それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
27貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。

28地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。
29王権は主にあり、主は国々を治められます。
30命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。

わたしの魂は必ず命を得
31-32子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。
第一朗読:イザヤ書52:1353:12()1149
主の僕の苦難と死
52:13見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。
14かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。
15それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。

53:1わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
2乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
4彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
5彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
6わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
7苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
8捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。
9彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。
10病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

11彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。
12それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

第二朗読 :ヘブライ人への手紙4:14165:79()405
偉大な大祭司イエス
4:14さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。16だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

5:7キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。8キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。9そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり
福音書:ヨハネによる福音書18:119:42()203
裏切られ、逮捕される
18:1こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。2イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。3それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。4イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。5彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。6イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。7そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。8すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」9それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。10シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。11イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
イエス、大祭司のもとに連行される
12そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、13まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。14一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
ペトロ、イエスを知らないと言う
15シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、16ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。17門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。18僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
大祭司、イエスを尋問する
19大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。20イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。21なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」22イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。23イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」24アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う
25シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。26大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」27ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
ピラトから尋問される
28人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。29そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。30彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。31ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。32それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。33そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」38ピラトは言った。「真理とは何か。」
死刑の判決を受ける
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。39ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」40すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。19:1そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。2兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、3そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。4ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」5イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。6祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」7ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
8ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、9再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。10こで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」11イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」12そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
13ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。14それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、15彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。16そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
十字架につけられる
こうして、彼らはイエスを引き取った。17イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。18そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。19ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。20イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。21ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。22かし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。23兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。24そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。25イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
イエスの死
28この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。29そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。30イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
イエスのわき腹を槍で突く
31その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。32そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。33イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。34しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。35それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。36これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。37また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
墓に葬られる
38その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。39そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。40彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。41イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。42その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日は、いよいよ主イエスが十字架の死を成し遂げた日を覚えています。この死は、主イエスの偉大さを表すにはあまりにもみすぼらしく、弱々しく映ります。救い主としてお生まれになった方が、死をもって救いを成し遂げるということは、私たち人間にとっては思いもよらない出来事だからです。
しかし、この死がこの世の何にも勝る力とみ旨とを表してくださいました。このことをみ言葉から聴く恵みを覚えつつこの時を過ごしてまいりましょう。

この受難の時主イエスはまさに「14かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。15それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。」とイザヤ書に預言されている方としてその時に臨まれました。

受難主日の時にも申しましたが、主は神の子であります。ですから、イエスに与えられた御力によって、救いを成し遂げることは容易にできたはずです。しかしイエスは、それは神の御心でないことを弁えていました。すべては、神のみ旨が成るために世に下り、人として生き、十字架の上に死んでくださったのです。
世に生き、このような苦難を味わってくださったのはなぜかというならば、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」とヘブライ人への手紙で語られているように、主イエスは、祭司の中の祭司でした。

それは何ゆえか、祭司とは祭儀を司る大切な働きがあります。その中の一つに贖いの生け贄など、生け贄を焼いて献げる祭儀があります。これは普通、雌牛や仔羊、穀物など、律法に定められている物を献げ、祈りを献げるとあります。しかし、主イエスは、そのような仕方で、私たちを私たち自身の罪から贖い、執り成してくださったのではありません。
祭司として、私たち一人ひとりの罪や、弱さ、汚れ、邪な思いを見つめ、そして、その事がらに打ちひしがれ、挫ける私たちの心に深く共感と痛みを負ってくださったのです。

ピラトがそうであるようにイエスの中に罪をどうしても見出すことができなかったように、主イエスにはまったく罪がありません。そのような方であるにもかかわらず、その深い共感によって、私たちの罪からくるあらゆる悪を知り、ご自分のものとしてくださったのです。
そして、その罪の力、悪の力から私たちを完全に救い出すために、罪なきご自身の血をもって贖い、執り成し、私たちに神からの罪の赦しを明らかにしてくださったのです。

人はペテロがそうであったように信仰においても、思いにおいても、肉体においても弱く乏しい存在でしかありません。「あなたこそ、主メシアです」と言い表したペテロでさえ、この主の苦難を前にして躓き、主を否定しました。主は、このこともご存じでした。それは「三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マタイ26:34)と語られているとおりです。知らないとは、その対象とはまったく関係が無いということです。

聖書における「知る」という言葉が、神との関係に生かされているということですから、それは神との何の関係もないということです。ペテロは、門番の女中の「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」という問いに対して、彼の堅固に思い込んでいた信仰が、その根底から揺り動かされ、たった一人の女性の一声によって、主イエスとは何の関係もないと言ってしまったのです。
ここに人間の本質、本性があります。私たちは自分の思いで信仰者として在るという自負では、名もなき女中の一言でペテロがその根底からその思いが揺れ動き、崩れ去ったように、私たちの信仰ももし、自分の思いで信じているとするならば砂の上に立てた建物でしかないということなのです。

そういう人間の弱さを主の苦難の時に神はペテロを通して露にされました。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と力強く宣言し、主を主とすると告白しつつも、本当にその時には、揺れ動いてしまう信仰なのではないか。真実の信仰とは、主イエスに従い尽くすこと、神に従い尽くすことです。たとえ、それが自分の不利益や、究極死ということがらを迎えたとしても揺り動かされない信仰があるかと問われているのです。

そのような信仰は、私たちの内からは起こりえませんし、持つことは適いません。しかし、今日の祈りの中で「キリストの御傷から生まれた私たち」と語られているように、今や主イエスの十字架によって、私たちの信仰は、私たちの内からではなく、十字架から来て、与えられている賜物であることを明らかにしてくださっています。

「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。12それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」と預言されているように、この主イエスによって私たちは私たちの罪が執り成され、贖われ、赦されているという驚くべき出来事に際しているのです。

私たちに何の見返りも求めず、生け贄を求めず、主なる神自らが、御子を罪人の一人として数え上げ、その罪の死によって、私たちの罪の贖いの生け贄としてくださり、その血をもって許してくださったのです。
この主イエスの受難によって私たちは生かされ、赦され、世に在って、類い稀な、世にはない恵みに与っているのです。この恵みがすべての者を生かし、喜ばせ、恵みに富ませてくださっています。
たった一人の人の死が、すべてを包み込み、神の栄光に与らせてくださっているのです。私たちはいただくばかりの者でしかありません。しかし、その神からの賜物が、世に在って、弱くとも強くし、乏しくとも豊かにしてくださるのです。

取るに足らない私たちが十字架の恵みに生かされていることに、全身全霊をもって感謝をし、この生かされている命を、真に人に仕え、世に仕え、神に仕えてくださった主イエスの模範に倣いながら歩んでまいりましょう。主イエスの十字架の死によってもたらされている恵みが今も生きて働き、私たち一人ひとりを救いの確信に至らせてくださったのですから、それを求め、惑い、悩み、苦しみ、悲しみ、揺れ動いている方のもとへこの福音を力強く告げ知らせてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

聖週間・聖木曜日礼拝説教

「神の善きものを受け取りながら」

主日の祈り
愛の源、聖なる神様、裏切りの夜、主イエスは新しい掟(おきて)を授け、私たちも互いに愛し合うよう教えられました。私たちの心にこれを刻みこみ、しもべとなった主に倣い、他者に仕える心をお与えください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編 1161-2, 12-19節(旧)956
116:1わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
2わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。

12主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
13救いの杯を上げて主の御名を呼び
14満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。
15主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
16どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。
17あなたに感謝のいけにえをささげよう/主の御名を呼び
18主に満願の献げ物をささげよう/主の民すべての見守る前で
19主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。

第一朗読:出エジプト記12:114(旧)111
12:1エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。2「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。3イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。4もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。5その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。6それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、7その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。8そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。9肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。10それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。11それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。12その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。13あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。14この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。

第二朗読:コリントの信徒への手紙一11:2326(新)314
11:23わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。25また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。26だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。


福音書:ヨハネによる福音書13:11731b35(新)194
弟子の足を洗う
13:1さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。2夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。3イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた6シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。7イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。8ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。9そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」10イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」11イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。12さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。16はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。17このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

31b「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。33子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」


【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

一日、一日と主イエスの受難と復活の時が近づいていることを心に留めながら私たちは今過ごしています。今日は、受難前夜の出来事です。そして、この日、私たちすべての人間にとって大切な出来事が示されました。それは、主が足を洗ってくださったということ、そして、主の晩餐を覚える聖餐の恵みです。この出来事は、ペテロたちの宣教によって、神が立てられた初めの教会が始まって以来、私たちの信仰生活になくてはならない非常に大切なこととして覚えられ続けています。
主イエスのご受難の前夜、そのことが示されたことの恵みを私たちは、今日この時しばし神に聴いていきましょう。

今日の出来事において大切なことは、主イエスがなぜ弟子たちの足を洗い、最後の晩餐の席でパンとぶどう酒を聖別してくださったかということです。そのことについて今日の福音はハッキリと語っています。それは冒頭に「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とある通りです。

すなわち、私たち人間に対する主イエスの愛、神の愛を私たちに示すためです。そして、この私たちに対する愛が発露となって、主イエスは、弟子たちの足を洗い、最後の晩餐の席を設けてくださったのです。
そして、この愛が無ければ、これらのことがらは何の意味も持たなかったと言っていいほどに、神の愛は大切な事がらなのです。

それはペトロが『「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」』と語られているように、この愛のしるしがなければ、私たちと神との関わりが何もないことになってしまうのです。

そして、この愛が主イエスを死にまでいたらせたのです。それは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)と語られているように、最上の愛の証し、しるしです。この最上の愛のしるしを示すために、主イエスはまずご自身を十字架によって献げてくださったのです。そして、この事がらは、私たちのために死なれるほどに、神はこの私を愛してくださっているというしるしでもあるのです。

そして、この愛を主イエスは、上から分け与えるというようなやり方ではなく、ご自身神の御許から来られ、神の御許に帰られ、その玉座の右に座す方であるにもかかわらず、僕の姿を取り、屠り場に引かれる羊のようになり、ご自身を徹底的に低くすることによってその愛を示してくださったのです。

ですから、主イエスが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と語られたみ言葉は、言い換えるならば「わたしがあなたがたに仕えたように、あなたがたも互いに仕え合いなさい」ということです。そして、それは主イエスの発露が愛であったように、互いに仕え合うことにおいて、もっとも大切なのは、この神の愛に力づけられ可能となり、またそれが神に仕えることとなるのです。

私たちは罪人なのですから、外面では人に仕えることができても、その内面は究極には「自分のため」という思いがあります。あの人から良く思われたい、社会的評価を得たいという思いを完全に抱かずになすことは適いません。ルターもそのことに悩みぬき、「純粋に神のため、隣人のためにはなり切れないし、どうやってもそのことを克服できないことを思い知ったのです。」(キリスト者の自由を読む)
それをルターは、神のみ前においても、神に仕えると言いながら、そういう自己中心に陥り、罪を犯してしまうし、その人間の本性からは逃れられず、人間の本性は罪人でしかないと認めざるを得ないと論じたのです。

そのような悩みの中で、ルターは信仰によってのみ罪を赦され、救われていることを確信しました。そして、その信仰によって罪人でありながら、神の一方的な恵みによって義人とされていると言います。ここに私たちが主がそうしてくださったように、神と人とに仕えることが可能になるのです。「信仰は、人を義しくすると同様に、よい行いもする。」(キリスト者の自由)とあるように、信仰によって、私たちは神から救われているのだから、それで十分なのです。

主イエスもまさにそうでありました。イエスご自身、神の愛に生かされ、それを信じていました。だからこそ、神のみ旨に従い生き、すべての隣人のためにご自身の命を献げ、仕えることができたのです。その信仰によってもたらされる人間の姿を、主イエスは模範として示してくださったのです。

その発露に神の愛があり、神から与えられる信仰と恵みがあります。そのことを洗足によって示し、聖餐において、それを見て、体感するみ言葉の恵みとして今日受け取ってまいります。この主イエスが顕してくださったしるしが私たちを隣人に仕えること、愛し合うことへと駆り立て、そのことの喜びを示してくださっているということを覚えて過ごしてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2017年4月12日水曜日

聖週間・聖水曜日礼拝説教

「神の善きものを受け取りながら」

主日の祈り
全能の神様、御子は罪人の手に渡され、十字架の辱めを耐えられました。私たちも主の十字架の道を歩み、命と平和の道だと悟ることができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編70編(旧)904
70:1【指揮者によって。ダビデの詩。記念。】
2神よ、速やかにわたしを救い出し/主よ、わたしを助けてください。
3わたしの命をねらう者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き
4はやし立てる者が/恥を受けて逃げ去りますように。
5あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/神をあがめよといつも歌いますように。
6神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。

第一朗読:イザヤ書50:49a()1145
4主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。
5主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。
6打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
7主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。
8わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。
9a見よ、主なる神が助けてくださる。

第二朗読:ヘブライ人への手紙12:13()416
12:1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。3あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

福音書:ヨハネによる福音書13:2132()195
裏切りの予告
1321イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」22弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。23イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。24シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。25その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、26イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。27ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。28座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。29ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。30ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
新しい掟
31さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日与えられているみ言葉は、裏切りの予告です。主イエスの十字架がこの裏切りをもって成就するに至ったと言っていいほどの重要な場面です。この食事の席における予告が、ユダを裏切りへと歩ませます。この事がらが物語っている神の福音とは何でしょうか。ご一緒にこの出来事を見つめ、福音に聴いてまいりましょう。

この時、イエスが裏切りの予告をしたとき弟子たちに大きな動揺が走ります。しかし、この主イエスの口から出た予告は「断言しされた」とありますが、「証した」とも訳すことができます。そのように読み解いていくならば、この裏切りが神のみ旨を顕していると言えます。
なぜならば、主イエスが語られていることは、「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。」(ヨハネ12:4950)とイエスご自身が語られているように、神のみ言葉です。

そして、それは「父の命令は永遠の命である」と語られているように、神の神秘、神から与えられる最上の救いの賜物を証する言葉なのです。ですから、この裏切りの予告は、弟子たちに非常にセンセーショナルな言葉であると同時に、主イエスの救いの御業を成し遂げるにあたって、神が主イエスに命じ、永遠の命を証するのに必要な言葉だったのです。

そのような神のみ旨が示されながらも、弟子たちは神のみ言葉に対して無知で、無理解でした。「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた」とあるように、まったくもって当事者意識がありません。しかし、その人を明らかにするとき、主イエスは浸したパンをユダに渡されました。ユダがその人だということを明らかにしたのです。

しかしながら、主イエスから与えられるものは、すべて善なるものです。そうであるにもかかわらず、この時、主イエスからそれを受け取ったユダにはサタンが中に入ってきました。善を与えたもう神の御子であるにもかかわらず、ユダにはサタンが入り込んだのは何故でしょうか。そのことを明らかにするならば、何を受け取ったのかではなく、だれが受け取ったかということが重要なのです。そして、与える物の性質ではなくて、与えられるその人自身の性質が問題なのです。

すなわち、それは受け手の側に問題を孕んでいるのです。当時、ユダヤ教の指導者と言われている人々は、律法を一字一句守ることによって救いに与る存在となるし、その自負をもって過ごしていました。しかし、それが排他的な考えを増長し、弱き者を挫くこととなってしまいました。律法は、神から与えられた最良なる掟です。しかし、受け手である人間が、それを自尊心や、自負、また他者との強烈な線引きをする道具としてしまいました。まさに善が悪となり、人の魂を害するものとなってしまったのです。

この事がらは、何もユダにだけ起こる事がらではありません。わたしたちにも起こりうることですし、起こってきたことです。それによってキリスト教会は、多くの分裂をきたしてきましたし、多くの争いに加担してしまいました。それは歴史が物語っています。しかしながら、今日の福音に示されているように、神は人間によって神の善が悪や害になってなお、それをも用いて神の栄光を顕されます。

それは「「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」と語られているようにユダのこの裏切りが、神の栄光を受けるその瞬間に必要な神の出来事とされたのです。すなわち、人間の罪が、神の贖いと赦し、栄光、救いという神の善を豊かに顕す出来事へと変えられたのです。私たち人間には成し得ません。なぜならば、私たちは自分自身によって悪を善に成すことはできませんし、そもそも罪によって悪を行うか、行わないかの意思しか持ちえないからです。

今日のヘブライ人への手紙の結びで「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」と語られています。まさに裏切りは、主イエスへの反抗です。しかし主イエスは、これを忍耐し、その恥を受け、十字架に進み、この反抗を斥け、罪に勝利してくださいました。

この忍耐が、私たちに最善を与えてくださいました。ですから、私たちは罪人であるということを深く心に刻み、神のみ前に正しくあれない、善を悪や害に変えてしまう私であるけれども、それをも神は神の善を顕すために用いてくださったということを覚えていきたいのです。
罪人でしかない私に神は十字架からいつも善きものを注いでくださいます。この神から与えらえる善を、神から賜る信仰によって、神の善を世に証しし、顕すことができるようにという祈りをもって歩んでいきましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2017年4月11日火曜日

聖週間・聖火曜日礼拝説教

「一粒の麦の死が命となる」

主日の祈り
「わたしに従いなさい」と私たちを召された主イエス様、私たちの愛がさめ、従う心を失わないよう、そして試練の時、躓かないようお守りください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩編711-14節(旧)904
71:1主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく
2恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。
3常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。

4わたしの神よ、あなたに逆らう者の手から/悪事を働く者、不法を働く者の手から/わたしを逃れさせてください。
5主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み
6母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。
7多くの人はわたしに驚きます。あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦。
8わたしの口は賛美に満ち/絶えることなくあなたの輝きをたたえます。

9老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください。
10敵がわたしのことを話し合い/わたしの命をうかがう者が共に謀り
11言っています/「神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕えよう。彼を助ける者はもういない」と。
12神よ、わたしを遠く離れないでください。わたしの神よ、今すぐわたしをお助けください。
13わたしの魂に敵対する者が/恥に落とされ、滅ぼされますように。わたしが災いに遭うことを求める者が/嘲りと辱めに包まれますように。

14わたしは常に待ち望み/繰り返し、あなたを賛美します。

本日の聖書日課
第一朗読 イザヤ書49:17()1142
49:1島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び/母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
2わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き/わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
3わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
4わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。
5主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は
6こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
7イスラエルを贖う聖なる神、主は/人に侮られ、国々に忌むべき者とされ/支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が/あなたを選ばれたのを見て。
第二朗読 コリントの信徒への手紙一1:1831()300
1:18十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。19それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」20知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。21世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。22ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
26兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。27ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。28また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。29それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。30神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。31「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
福音書 ヨハネによる福音書12:2036()192
ギリシア人、イエスに会いに来る
12:20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
人の子は上げられる

27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」29そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。30イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。32わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。34すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」35イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。36光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

主イエスは「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」と語られています。これはどういうことかというならば、あらゆる私たちの人生の途上における業について、主イエスならばどのようにされただろうかと思いを馳せながら歩みなさいということです。

私たちは、罪人でしかありません。しかも、それはこの世に生まれて来て、何か悪いことをしたから罪人となったのではなく、生まれながらにして罪人なのです。どんなにか純真無垢に映る赤ん坊でさえ、罪の中に産み落とされた存在なのです。少し極端な人間観ですが、これが私たちの信じる信仰によるならば真実でしかありません。「私たちの服は、アダムの皮膚、死の衣装、罪の服、です。言い換えれば、私たちは皆、罪の支配下で屈従を余儀なくされています。」とルターは語ります。

そのような私たちに対して主は「わたしに従え」と語られます。私たちは罪人でしかないのですから、本来は神に仕えることなどできませんし、たとえできたとしても罪人のなさることを神は喜ばれないでしょう。では、何によって私たちの仕えるという業が神に喜ばれ、世に有益となったのか。

それが十字架の赦しなのです。本来であれば、私たち自身が贖い、神に差し出さねばならなかったこの命を、神自らが愛する御子を世に下し、御子ご自身が私たちのために死んでくださったことによって、私たちは主に仕えることの恵みと、賜物とを豊かに受ける者とされているのです。

私は罪人でしかないという自覚はとても大切なことです。パウロが「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」と語っているように、私はあの人よりも優れている、勝っていると感じているならば、キリストの死は無駄になってしまうでしょう。キリストの死は、すべての人が等しく担うべきであった自分の罪のために成し遂げられたことです。そうであるならば、私たちは誰よりも優れているとか、勝っているということに囚われる必要はないのです。誰もかれも、神のみ前に等しく罪人でしかない。その私たちを主イエスの十字架が、贖い、赦し、清めて、神の義に生きる者としてくださったのです。

まさに一粒の麦が地に落ちること、まったく天的な存在であり、まったく清く、罪の無い方が自らが地に落ちることによって、多くの実、すなわち命を得ることになったのです。そして、その実もまた地に落ち、成長し、やがてその実が地に落ちます。
「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ15:16)とあるように、私たちの実がまた残ることによって、次の営みが生まれ、命が継がれていきます。
この命の営みが主イエスの十字架以来、たゆみなく続けられたことによって今日、主イエスの十字架の恵みが伝えられているのです。

キリストがその初穂となられ、最初の実を落としてくださいました。しかもそれは、ご自身が私たち人間の罪を負い、十字架の上で死ぬことによって成し遂げられました。この十字架の死がなければ、私たちは真に主に仕えることの恵み、永遠の命を喜びを受けることはありませんでした。この十字架の死によって今、私たちが生かされ、信仰に生きる恵みを受け、主に仕えることの喜びを賜物としていただいています。
どうぞ今この時、主の受難を覚える時にあって、この始めの出来事によって私たちはすべての面で生かされているのだということを心に留めながら歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。