「一粒の麦の死が命となる」
主日の祈り
「わたしに従いなさい」と私たちを召された主イエス様、私たちの愛がさめ、従う心を失わないよう、そして試練の時、躓かないようお守りください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩編71編1-14節(旧)904頁
71:1主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく
2恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。
3常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。
4わたしの神よ、あなたに逆らう者の手から/悪事を働く者、不法を働く者の手から/わたしを逃れさせてください。
5主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み
6母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。
7多くの人はわたしに驚きます。あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦。
8わたしの口は賛美に満ち/絶えることなくあなたの輝きをたたえます。
9老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください。
10敵がわたしのことを話し合い/わたしの命をうかがう者が共に謀り
11言っています/「神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕えよう。彼を助ける者はもういない」と。
12神よ、わたしを遠く離れないでください。わたしの神よ、今すぐわたしをお助けください。
13わたしの魂に敵対する者が/恥に落とされ、滅ぼされますように。わたしが災いに遭うことを求める者が/嘲りと辱めに包まれますように。
14わたしは常に待ち望み/繰り返し、あなたを賛美します。
本日の聖書日課
第一朗読 イザヤ書49:1-7(旧)1142頁
49:1島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び/母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
2わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き/わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
3わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
4わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。
5主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は
6こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
7イスラエルを贖う聖なる神、主は/人に侮られ、国々に忌むべき者とされ/支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が/あなたを選ばれたのを見て。
第二朗読 コリントの信徒への手紙一1:18-31(新)300頁
1:18十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。19それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」20知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。21世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。22ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
26兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。27ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。28また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。29それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。30神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。31「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
福音書 ヨハネによる福音書12:20-36(新)192頁
ギリシア人、イエスに会いに来る
12:20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
人の子は上げられる
27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」29そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。30イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。32わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。34すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」35イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。36光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
主イエスは「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」と語られています。これはどういうことかというならば、あらゆる私たちの人生の途上における業について、主イエスならばどのようにされただろうかと思いを馳せながら歩みなさいということです。
私たちは、罪人でしかありません。しかも、それはこの世に生まれて来て、何か悪いことをしたから罪人となったのではなく、生まれながらにして罪人なのです。どんなにか純真無垢に映る赤ん坊でさえ、罪の中に産み落とされた存在なのです。少し極端な人間観ですが、これが私たちの信じる信仰によるならば真実でしかありません。「私たちの服は、アダムの皮膚、死の衣装、罪の服、です。言い換えれば、私たちは皆、罪の支配下で屈従を余儀なくされています。」とルターは語ります。
そのような私たちに対して主は「わたしに従え」と語られます。私たちは罪人でしかないのですから、本来は神に仕えることなどできませんし、たとえできたとしても罪人のなさることを神は喜ばれないでしょう。では、何によって私たちの仕えるという業が神に喜ばれ、世に有益となったのか。
それが十字架の赦しなのです。本来であれば、私たち自身が贖い、神に差し出さねばならなかったこの命を、神自らが愛する御子を世に下し、御子ご自身が私たちのために死んでくださったことによって、私たちは主に仕えることの恵みと、賜物とを豊かに受ける者とされているのです。
私は罪人でしかないという自覚はとても大切なことです。パウロが「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」と語っているように、私はあの人よりも優れている、勝っていると感じているならば、キリストの死は無駄になってしまうでしょう。キリストの死は、すべての人が等しく担うべきであった自分の罪のために成し遂げられたことです。そうであるならば、私たちは誰よりも優れているとか、勝っているということに囚われる必要はないのです。誰もかれも、神のみ前に等しく罪人でしかない。その私たちを主イエスの十字架が、贖い、赦し、清めて、神の義に生きる者としてくださったのです。
まさに一粒の麦が地に落ちること、まったく天的な存在であり、まったく清く、罪の無い方が自らが地に落ちることによって、多くの実、すなわち命を得ることになったのです。そして、その実もまた地に落ち、成長し、やがてその実が地に落ちます。
「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ15:16)とあるように、私たちの実がまた残ることによって、次の営みが生まれ、命が継がれていきます。
この命の営みが主イエスの十字架以来、たゆみなく続けられたことによって今日、主イエスの十字架の恵みが伝えられているのです。
キリストがその初穂となられ、最初の実を落としてくださいました。しかもそれは、ご自身が私たち人間の罪を負い、十字架の上で死ぬことによって成し遂げられました。この十字架の死がなければ、私たちは真に主に仕えることの恵み、永遠の命を喜びを受けることはありませんでした。この十字架の死によって今、私たちが生かされ、信仰に生きる恵みを受け、主に仕えることの喜びを賜物としていただいています。
どうぞ今この時、主の受難を覚える時にあって、この始めの出来事によって私たちはすべての面で生かされているのだということを心に留めながら歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。