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2015年3月22日日曜日

3月29日の礼拝案内

枝の主日


主日の祈り

世を統べ治める神様。キリストを私たちに仕える者とすることが、あなたのみ旨でした。み霊を受け、言葉でイエスを告白し、日々の営みの中で救い主を喜びたたえる群れに私たちも加えてください。あなたと聖霊と共にただ独りの神であり、世々に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:ゼカリヤ書9910()1489
9:9娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。
10わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。

第二日課:フィリピへの手紙2611()363
2:6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

福音書:マルコによる福音書11111()83
11:1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。3もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」4二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。5すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。6二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。7二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。9そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。10我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」11こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

本日の讃美歌
はじめの歌137番|みことばの歌129番|
感謝の歌130番|聖餐の歌―番|終わりの歌503

説教題 「主の栄光が来た」 竹田大地牧師
諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※詩編の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00
 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。

2015年3月19日木曜日

3月22日の礼拝案内

四旬節第5主日

主日の祈り

すべてのものを創られた神様。あなたは世の荒れ野に新しい道を切り開き、恵みで潤してくださいます。私たちの心を拓いて、すべての者に与えられている人知を超えた愛を、世に宣べ伝える者に造りかえてください。あなたと聖霊とともに唯一の神であり、永遠に生きて治められる私たちの主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書313134()1237
31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

第二日課:ヘブライ人への手紙5510()406
5:5同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。6また、神は他の個所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。7キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。8キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。9そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、10神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。

福音書:ヨハネによる福音書122033()192
12:20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」29そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。30イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。32わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

本日の讃美歌
はじめの歌252番|みことばの歌229番|
感謝の歌234A|聖餐の歌―番|終わりの歌191

説教題 「一粒の麦、多くの実り」 竹田大地牧師


諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※詩編の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00
 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。

2015年3月13日金曜日

3月15日の礼拝案内

主日の祈り

平和の神様。あなたは永遠の契約の血による大牧者、主イエス・キリストを死より復活させられました。主に従ってみ旨を行うことができるよう、あなたの永遠の契約の血によって、御目にかなうことを私たちに実現し、善いことすべてを行うことができるようにしてください。あなたと聖霊と共にただ独りの神、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:民数記2149()249
21:4彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、5神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」6主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。7民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。8主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」9モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

第二日課:エフェソの信徒への手紙2110()353
2:1さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、5罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――6キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。7こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。8事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

福音書:ヨハネによる福音書31421()167
3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

本日の讃美歌
はじめの歌500番|みことばの歌526番|
感謝の歌269番|聖餐の歌207番|終わりの歌525

説教題 「神は世を愛す」 竹田大地牧師

諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※詩編の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00
 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。

3月8日の説教

説教題「三日で建て直す」

主日の祈り
聖なる神様。あなたは私たちを召し出して、信仰に忠実に生き、よき業にいそしむよう励ましてくださいます。私たちをみ恵みの契約に堅く立たせ、イエス・キリストだけがくださる知恵をお授けください。あなたと聖霊と共にただ独りの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

第一日課:出エジプト記20117()126
20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

第二日課:コリントの信徒への手紙一11825()278
1:18十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。19それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」 20知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。21世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。22ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

福音書:ヨハネによる福音書21322()166
2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。


【説教本文】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

四旬節も第3主日を迎え、今日与えられている御ことばは、宮清めと言われている場面です。この場面を読むごとに思わされることですが、イエスがこれほどまでに激しい行動を取られることになぜそのような事をされるのかと思われる方があると思います。
イエスの出来事の中でも非常に印象的なこの出来事を通して神の福音にご一緒にひと時の間、耳を傾けてまいりたいと思います。

さて、このような場面を与えられてつい私たちは、その行動に目が行きがちですが、本当に今日大事な事は、やはり最後の弟子たちの気づきではないでしょうか。
つまり、少々極端なことを言うことが許されるならば、この宮清めの出来事は、イエスの十字架の死と復活なくして、意味を成さなかったということです。
弟子たちが、そうであったように、その時が来るまでは、決して明かされることのない神の御旨であり、ご計画の一つであったということです。
そうであるならば、この出来事は何を意味しているのかということを聴く時、それはイエスの十字架の死と復活から聴くということが大切な事がらであると思うのです。

そういう観点から見ていくと、イエスが語られている神殿とは、ご自身の体を言っているということです。つまり、これは一つの受難と復活の予告であったということです。ご自身が壊されることによって、神の秘められた計画が成就されるということを顕しているのです。
何故そう言えるかというならば、ここで示されている「立て直してみせる」という言葉にそのことが表されています。
というのも、この言葉について原典に当たってみるならば、これは建物を立て直すという意味ではなく、直訳するならば「立ちあがる」という意味があるからです。そして、この御ことばは、他の聖書の個所では、復活の事がらをイエスが述べる時に用いられている言葉だからです。

同じヨハネ福音書520節~21節で「5:20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」と、御子の権威について述べた時に、復活の命を与えるという権威を有している事がらを明らかにするときに用いられているからです。

ですから、私たちは、今日の福音を通して、イエスが、これらの事がらを語られたのは、ご自身の十字架の死と復活を予告しつつも、その神の出来事における神の権威がご自身にも与えられていることをも先取って示されているのです。この時には、そのことまで明らかにされていませんが、私たちは、聖書を通して、この出来事がこの権威についてまで御子イエスにあることを知らされています。

そして、イエスの体の復活という事がらをもう少し掘り下げて考えて見ますならば、私たち一人ひとりもまたキリストの体に連なる者とされています。ですから、この十字架の死と復活の命の恵みは私たち一人ひとりにも神から与えられているということです。

しかし、一般的に考えて、十字架とは、罪のしるしであり、最大の刑罰です。本来であれば、そこに何一つ正しさは存在しません。ですから、一般常識で捕えるならば、それを救いのしるしとして掲げること、覚えることは、本来であればありえないことです。また、復活という事がらも、当時の人にしても、現代の私たちにしても時には虚言、妄想のように聞こえます。なぜならば、そのようなことはありえないからです。
しかしながら、私たちは、この一般常識で考えるならば、ありえないこと、虚しいことを信じているのです。

何故そのような事が可能かというならば、この十字架の死と復活の命の光から与えられる神の力によるのです。私たちは、十字架のイエスの背後に隠されている、罪の贖いという恵み、このイエスの死によって義しい者とされているという神の救いのご計画によって、この出来事が真実で、私たちを十字架の信仰へと導くしるしであるという信仰が与えられているのです。

真に不可思議なことです。常識では考えられない事です。しかしながら、コリントの信徒へパウロが語っているように、人知では語り尽くすことのできない神の知恵によって、はじめて私たちは、イエスの十字架の死も復活も知るようになるのです。
この出来事に、神の御救いがあることを知らされているということに気づかされた時、その時点でもはやそれは滅び、敗北、死ではなく、命であり、恵みであり、神の救いの出来事そのものとなるのです。
この信仰が与えられていなければ、私たちは一向に救いの確信を得られません。聖書のイエスの御ことば、神の語りかけ、掟、戒めを聴いても、そのことが決して私には適わないという思いを抱え、いつまでも悩み、苦しみ、嘆きながら人生を歩まねばならなかったことでしょう。また、いつまでも私たちは、神の御前に義しい者でなく、罪人のまま滅び、死を迎える空しい存在であったことでしょう。

そのような神と人間との関係を、神ご自身が私たちに働きかけることによって和解してくださったのです。しかもそれは、私たちが罪人であるにも拘らず、神の御前に一向に義しい者となれない者にも拘らず、神の一方的な恵みによって、つまり、イエスの十字架の死と復活によって赦してくださり、しかも、それだけでなく、キリストの体に連なる者として永遠の命の約束の中に置いてくださったのです。

ここに旧約の十戒に示されている約束でもなく、神殿でのみ顕される神の御旨でもなく、ただその場にあってイエスの十字架を仰ぎ、信じる時に与えられる恵みとして新しい契約が交わされたのです。
約束ということは、神との絶えざる交わりの中にあるということです。いつでも、どこでも私たちは、イエスの十字架の恵み、復活の命の中に置かれているということです。
もはやどこでということは問われません。神殿でのみでもないのです。私たちが礼拝の中心とするのは、神殿ではなく、主イエス・キリストの十字架です。このしるしを中心に、ただただこの傷だらけの、弱々しいイエスの御姿を仰ぎ見ていくことによって、私たちは生きる者とされているのです。

この恵みに与る者として私たちは召されています。ここに集い、御ことばに聴いています。そして、私たちはこの十字架の恵みを宣べ伝える者としてこの世に立たされています。
人の思いからするならば、弱く、乏しく、罪の極みである十字架から、神の恵み、愛、希望、信仰を与えられているという驚くべき神の力を私たちは知らされています。
私たちは、この神の恵みを宣べ伝えねばなりません。世には未だに多くの人々が、この恵みを知らずに、右往左往している人が居ます。苦しんでいる人々が居ます。悩んでいる人々が居ます。嘆き悲しみの中に居る人が居ます。
しかし、それらの一切がイエスの十字架の死と復活によって取り払われるということを知らせましょう。
なぜならば「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
いつでも神の力が私たちを通して示されます。神が語るべき言葉、行うべき事がらを示してくださいます。
この確信をもってこれからも宣教の道を歩んでまいりましょう。
皆さんの上に十字架の恵みが豊かにありますように。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2015年3月7日土曜日

3月1日の説教

主日の祈り
神さま。あなたは、み子の苦しみによって、死と辱めの十字架を、私たちの生きる支えにしてくださいました。私たちが主の十字架に栄光を見いだし、責めさいなむ痛みをも、み子のゆえに受け入れることができますように。あなたと聖霊と共にただ独りの神、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
本日の聖書日課
第一日課:創世記17171516()21
17:1アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。2わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」3アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。4「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。5あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。6わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。7わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。
15神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。16わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」

第二日課:ローマの信徒への手紙41325 ()278
13神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。14律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。15実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。16従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。17「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。18彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。 19そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。20彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。21神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。22だからまた、それが彼の義と認められたわけです。23しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、24わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。25イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

福音書:マルコによる福音書83138()77
31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日読まれている福音の日課は、イエスがご自身の死と復活を予告する場面です。四旬節の中にあって、このイエスの御ことばに耳を傾け、神の福音に思いを向けることは大切なことであろうと思います。
四旬節とは、受難節とも言われているように、イエスの十字架への道のりを覚える時であり、十字架の死が何を意味するのか福音に聴く時でもあるのですから、今日与えられている御ことばに耳を傾けることは必然であると言ってもよいでしょう。

さて、イエスは、この事がらを語る前に「それから」と記されています。それからということは、前の出来事があっての、この予告だということです。ですから、前段の出来事と、この出来事とは連関しているということです。
この前段で記されている出来事は、ペトロがイエスのことを「あなたはメシアです。」と信仰を表す場面です。つまり、他の者が洗礼者ヨハネだ、預言者の一人だとか、エリヤという預言者の中の預言者の名前などを挙げている中で、ハッキリとイエスが「メシア」すなわち、ユダヤの民を救いへと導く救世主であると言い表したのです。そして、そのことをイエスご自身が誰にも話さないように戒められたわけですから、それは真実であると同時にまだ隠さねばならないこととして覚えられているのです。

そういう場面を経て、今日の死と復活の予告がされています。
イエスが、メシアであるということが隠されていたとはいえ、明らかにされて弟子たちに語ったことは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」ということです。
メシアであるということが明らかにされたばかりであるにもかかわらず、ショッキングなメッセージがイエスから発せられます。
しかしながら、これは神の御業です。なぜならば、このイエスの受けられた苦しみも排斥されることも、殺され、復活することもすべては「なっている」と語られているからです。
この言葉についてギリシャ語にあたってみましても、「避けられない」「必然の」という言葉をもって聖書は語っています。

すなわち、これらのイエスの予告は、イエスご自身がメシアであるということを言い表す以上に、父なる神がイエスご自身に与えたもうたみ業であるということです。
私たちの都合の良い神の御姿をとって来られる方でなく、イエスご自身、この世において本当に救いを必要としている人々と同じ、痛み、苦しみ、嘆きを徹底的に負うというのです。
そして、その苦しみを負うことによって、真の救い主となられたということを顕してくださったのです。

人から捨てられ、排斥されることの悲しみや痛みというのは非常に苦痛を伴います。自分の存在意義を見いだせないということだからです。人は、居場所を探します。何かに定められることの安心を覚えます。家庭であったり、会社であったり、仕事であったりとそれは様々な姿を取ります。しかしながら、それらのどこにも属せないような悲しみを負っている人が世にはたくさんいます。イエスの傍には、何の後ろ盾もない、弟子たちが居ました。多くの病人や罪人と言われている人々が居ました。女性や子どもたちも居ました。
これらの人々は、当時のユダヤ社会において、その社会という輪の外に追いやられた人々でした。
そこへイエスは赴き、彼らをイエスの輪の中心に置いたのです。時に病人が、時に罪人が、時に子どもが、中心となり、人々を驚かせました。なぜならば、凡そ彼らは、救いに与かるに相応しくないとされていたものだったからです。
しかし、神は、その人々を御もとに呼びよせ、彼らを通して福音を世界中に告げ知らせているのです。

すなわち、私たちが目を向けがちな栄華や、舞台の中心にではなく、むしろこの世の弱さや、目も向けられていない所にこそ神の栄光、神の福音、御業が顕されているということです。
それは、時として自分自身がそこに置かれていること、そのような状況の中にあることを嫌います。もっと健康であれば、もっとスポットライトを浴びたい、もっと中心的な働きを担いたいなど様々な思いの方が人間は求めるからです。

しかし、イエスがメシアとしてその事がらを顕された場所はどこだったでしょうか。
それは、十字架の死の中ではなかったでしょうか。弱さの極みであり、痛みの極みであり、敗北の姿の中にこそ、神の栄光、御救い、慰め、励ましが示されていることを、わたしたちは聖書によって示されています。

このイエスの予告をいさめたがために「サタン」とまで言われたペトロが「この主のもとに来なさい。主は、人々から見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」(1ペトロ2:4)と語っているように、世の中の目から見るならば、十字架のイエスを見ようとゴルゴダに集まった民衆の目から見るならば、それはまさに何の価値も無いような石ころです。しかし、これが神によって定められている御業として受け取ることができるのならば、それは「生きた石」となるのです。尊く、価値ある、私たちを生かす恵みの出来事となるのです。

そして、それを可能にしているのは、神から与えられる信仰です。この信仰によって、だれの目にも無価値で、弱く、乏しいイエスの十字架の死の姿の中に救いを見出すのです。
パウロが、本日読んだローマの信徒への手紙の中で
「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。21神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。22だからまた、それが彼の義と認められたわけです。23しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、24わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。25イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」
と語っているように、アブラハムが神の約束を信仰によって賛美したことによって約束が成就されることを確信していたということを明らかにしています。

この神から与えられる信仰によって義とされることによって、神の十字架の中に輝く栄光を確信することができるのです。この確信のゆえに私たちはイエスに従うことができるのです。しかも、それがたとえ自分の十字架を負うことになっても、例えば病や、家族の問題、自分自身の問題、社会的な弱さや、それによってこうむる苦痛があったとしても、キリストの十字架による御救いという福音によって希望に生きるものとされるのです。

ですから、「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」ということは、イエスの福音により頼んで生きる者、すなわち十字架に生きる者、弱さの中にある栄光、御力に生きる者は、この世的なありとあらゆる弱さや痛みによって滅ぼされることは決してなく、むしろその中にあっても生きる者とされるのです。

私たちは、この傷みを恐れず、弱さの中にあることを恐れずに生きることが許されている、それを痛みとして負いながらも、尚、神の希望の中に生きる者とされているという恵みに与っているのです。四旬節の中にあって、十字架を覚えるということは、そういう自分の抱える弱さや痛みを思い起こしながらも、そこに立つ十字架、自分自身が負う十字架をしっかりと真正面から見据え、それを持ち上げ抱えるのです。
重荷でしょう。苦しいでしょう。悲しいでしょう。嘆きたくもなります。けれども、その痛みを神はそのままにしておきません。その痛みを、神ご自身その身に担うために、負うために御子イエスを世に遣わしてくださったのです。
私たちの痛みも十字架の重みもその身にイエスご自身が負い、何の関係も無い十字架の出来事ではなく、私の十字架のゆえに架けられ、殺されたのです。

私が担うべきであった十字架を神ご自身が担ってくださったことを深く心に刻み、悔い改めてまいりましょう。自分の十字架を担いきれない弱い自分の信仰を悔い改めてまいりましょう。この心からの悔い改めを神は聴いてくださっています。そして、その弱さを、弱いままにしません。痛みを痛みのままにしません。嘆きを嘆きのままにしません。この四旬節の先にある十字架がそれを贖ってくださいます。この十字架を見すえながら、一人ひとりが心から悔い改めていく、そのような四旬節の時として行きましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

3月8日の礼拝案内

四旬節第3主日

世界中の教会は、イエス様の十字架の受難への道を覚える時を過ごしています。
また、この日は、3.11を覚えて、礼拝の中でご一緒にお祈りを合わせます。
どなたでもお越しください。
イエス様の十字架を覚えつつ、共に御ことばに聴き、祈りを合わせてまいりましょう。

主日の祈り
聖なる神様。あなたは私たちを召し出して、信仰に忠実に生き、よき業にいそしむよう励ましてくださいます。私たちをみ恵みの契約に堅く立たせ、イエス・キリストだけがくださる知恵をお授けください。あなたと聖霊と共にただ独りの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:出エジプト記20117()126
20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

第二日課:コリントの信徒への手紙一11825()278
1:18十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。19それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」 20知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。21世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。22ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

福音書:ヨハネによる福音書21322()166
2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

本日の讃美歌
はじめの歌242番|みことばの歌231番|
感謝の歌382番|聖餐の歌―番|終わりの歌365

本日の説教題 「三日で建て直す」 竹田大地牧師

諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※詩編の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00
 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。