主日の祈り
神さま。あなたは、み子の苦しみによって、死と辱めの十字架を、私たちの生きる支えにしてくださいました。私たちが主の十字架に栄光を見いだし、責めさいなむ痛みをも、み子のゆえに受け入れることができますように。あなたと聖霊と共にただ独りの神、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
本日の聖書日課
第一日課:創世記17章1‐7、15‐16節(旧)21頁
17:1アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。2わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」3アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。4「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。5あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。6わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。7わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。
15神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。16わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」
第二日課:ローマの信徒への手紙4章13‐25節 (新)278頁
13神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。14律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。15実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。16従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。17「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。18彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。
19そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。20彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。21神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。22だからまた、それが彼の義と認められたわけです。23しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、24わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。25イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
福音書:マルコによる福音書8章31‐38節(新)77頁
31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
今日読まれている福音の日課は、イエスがご自身の死と復活を予告する場面です。四旬節の中にあって、このイエスの御ことばに耳を傾け、神の福音に思いを向けることは大切なことであろうと思います。
四旬節とは、受難節とも言われているように、イエスの十字架への道のりを覚える時であり、十字架の死が何を意味するのか福音に聴く時でもあるのですから、今日与えられている御ことばに耳を傾けることは必然であると言ってもよいでしょう。
さて、イエスは、この事がらを語る前に「それから」と記されています。それからということは、前の出来事があっての、この予告だということです。ですから、前段の出来事と、この出来事とは連関しているということです。
この前段で記されている出来事は、ペトロがイエスのことを「あなたはメシアです。」と信仰を表す場面です。つまり、他の者が洗礼者ヨハネだ、預言者の一人だとか、エリヤという預言者の中の預言者の名前などを挙げている中で、ハッキリとイエスが「メシア」すなわち、ユダヤの民を救いへと導く救世主であると言い表したのです。そして、そのことをイエスご自身が誰にも話さないように戒められたわけですから、それは真実であると同時にまだ隠さねばならないこととして覚えられているのです。
そういう場面を経て、今日の死と復活の予告がされています。
イエスが、メシアであるということが隠されていたとはいえ、明らかにされて弟子たちに語ったことは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」ということです。
メシアであるということが明らかにされたばかりであるにもかかわらず、ショッキングなメッセージがイエスから発せられます。
しかしながら、これは神の御業です。なぜならば、このイエスの受けられた苦しみも排斥されることも、殺され、復活することもすべては「なっている」と語られているからです。
この言葉についてギリシャ語にあたってみましても、「避けられない」「必然の」という言葉をもって聖書は語っています。
すなわち、これらのイエスの予告は、イエスご自身がメシアであるということを言い表す以上に、父なる神がイエスご自身に与えたもうたみ業であるということです。
私たちの都合の良い神の御姿をとって来られる方でなく、イエスご自身、この世において本当に救いを必要としている人々と同じ、痛み、苦しみ、嘆きを徹底的に負うというのです。
そして、その苦しみを負うことによって、真の救い主となられたということを顕してくださったのです。
人から捨てられ、排斥されることの悲しみや痛みというのは非常に苦痛を伴います。自分の存在意義を見いだせないということだからです。人は、居場所を探します。何かに定められることの安心を覚えます。家庭であったり、会社であったり、仕事であったりとそれは様々な姿を取ります。しかしながら、それらのどこにも属せないような悲しみを負っている人が世にはたくさんいます。イエスの傍には、何の後ろ盾もない、弟子たちが居ました。多くの病人や罪人と言われている人々が居ました。女性や子どもたちも居ました。
これらの人々は、当時のユダヤ社会において、その社会という輪の外に追いやられた人々でした。
そこへイエスは赴き、彼らをイエスの輪の中心に置いたのです。時に病人が、時に罪人が、時に子どもが、中心となり、人々を驚かせました。なぜならば、凡そ彼らは、救いに与かるに相応しくないとされていたものだったからです。
しかし、神は、その人々を御もとに呼びよせ、彼らを通して福音を世界中に告げ知らせているのです。
すなわち、私たちが目を向けがちな栄華や、舞台の中心にではなく、むしろこの世の弱さや、目も向けられていない所にこそ神の栄光、神の福音、御業が顕されているということです。
それは、時として自分自身がそこに置かれていること、そのような状況の中にあることを嫌います。もっと健康であれば、もっとスポットライトを浴びたい、もっと中心的な働きを担いたいなど様々な思いの方が人間は求めるからです。
しかし、イエスがメシアとしてその事がらを顕された場所はどこだったでしょうか。
それは、十字架の死の中ではなかったでしょうか。弱さの極みであり、痛みの極みであり、敗北の姿の中にこそ、神の栄光、御救い、慰め、励ましが示されていることを、わたしたちは聖書によって示されています。
このイエスの予告をいさめたがために「サタン」とまで言われたペトロが「この主のもとに来なさい。主は、人々から見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」(1ペトロ2:4)と語っているように、世の中の目から見るならば、十字架のイエスを見ようとゴルゴダに集まった民衆の目から見るならば、それはまさに何の価値も無いような石ころです。しかし、これが神によって定められている御業として受け取ることができるのならば、それは「生きた石」となるのです。尊く、価値ある、私たちを生かす恵みの出来事となるのです。
そして、それを可能にしているのは、神から与えられる信仰です。この信仰によって、だれの目にも無価値で、弱く、乏しいイエスの十字架の死の姿の中に救いを見出すのです。
パウロが、本日読んだローマの信徒への手紙の中で
「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。21神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。22だからまた、それが彼の義と認められたわけです。23しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、24わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。25イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」
と語っているように、アブラハムが神の約束を信仰によって賛美したことによって約束が成就されることを確信していたということを明らかにしています。
この神から与えられる信仰によって義とされることによって、神の十字架の中に輝く栄光を確信することができるのです。この確信のゆえに私たちはイエスに従うことができるのです。しかも、それがたとえ自分の十字架を負うことになっても、例えば病や、家族の問題、自分自身の問題、社会的な弱さや、それによってこうむる苦痛があったとしても、キリストの十字架による御救いという福音によって希望に生きるものとされるのです。
ですから、「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」ということは、イエスの福音により頼んで生きる者、すなわち十字架に生きる者、弱さの中にある栄光、御力に生きる者は、この世的なありとあらゆる弱さや痛みによって滅ぼされることは決してなく、むしろその中にあっても生きる者とされるのです。
私たちは、この傷みを恐れず、弱さの中にあることを恐れずに生きることが許されている、それを痛みとして負いながらも、尚、神の希望の中に生きる者とされているという恵みに与っているのです。四旬節の中にあって、十字架を覚えるということは、そういう自分の抱える弱さや痛みを思い起こしながらも、そこに立つ十字架、自分自身が負う十字架をしっかりと真正面から見据え、それを持ち上げ抱えるのです。
重荷でしょう。苦しいでしょう。悲しいでしょう。嘆きたくもなります。けれども、その痛みを神はそのままにしておきません。その痛みを、神ご自身その身に担うために、負うために御子イエスを世に遣わしてくださったのです。
私たちの痛みも十字架の重みもその身にイエスご自身が負い、何の関係も無い十字架の出来事ではなく、私の十字架のゆえに架けられ、殺されたのです。
私が担うべきであった十字架を神ご自身が担ってくださったことを深く心に刻み、悔い改めてまいりましょう。自分の十字架を担いきれない弱い自分の信仰を悔い改めてまいりましょう。この心からの悔い改めを神は聴いてくださっています。そして、その弱さを、弱いままにしません。痛みを痛みのままにしません。嘆きを嘆きのままにしません。この四旬節の先にある十字架がそれを贖ってくださいます。この十字架を見すえながら、一人ひとりが心から悔い改めていく、そのような四旬節の時として行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。