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2018年1月26日金曜日

顕現後第3主日説教

「私を見つけるイエス」

主日の祈り
全能の神様。あなたは、ただ恵みによって私たちを召し、あなたの働きに招いてくださいます。聖霊によって私たちを強め、あなたの招きにふさわしいものにください。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
1日課: ヨナ書315&10 ()1447
3:1主の言葉が再びヨナに臨んだ。2「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」3ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。4ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」5すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。

10神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

2日課:1コリントの信徒への手紙72931()308
7:29兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、30泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、31世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

福音書:マルコによる福音書11420()61
1:14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18二人はすぐに網を捨てて従った。19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

【説教】

顕現節を送るということは、主イエスがこの世で歩まれていた時にどのような御心を示し、教え、導いてくださっていたかということを覚えるときでもあります。そして、この働きを通して私たちは主の栄光を見る者とされています。そのような時にあって今日の主日のために与えられている福音は、主イエスの伝道の始まりと最初の弟子たちを召し出した出来事から聴いています。この御ことばに示されている神の栄光とは何か共にしばらくの間聴いてまいりましょう。

主イエスが宣言した福音の始めの御ことばは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。ここで示されている「時」という言葉は、原典の言葉は「カイロス」という言葉があてられています。ギリシャ語には二つの「時」を表す言葉があります。もう一つの言葉は「クロノス」という言葉です。クロノスは、いわゆる時間をさします。何時何分、何時間、何分とか量的に表現する場合において用いられます。

では、ここで主イエスが宣言された「カイロス」という時とはどのようなことを表すならば、それはその時には決定的な意味がある「時」がカイロスなのです。この言葉はもともと分断する、遮断するという言葉から派生してできた言葉です。平たくいうならば、妻と、夫と運命の出会いをした「時」、人生の岐路の「時」を示す場合に用いるのが「カイロス」であり、今までの持つ時の意味と決定的な違いをもたらす言葉なのです。ですから、この主イエスの宣言は、その「時」に大切な意味がある。神のみ心がそこに決定的に働いているということを意味しているのです。

では、決定的な時とはヨハネが捕らえられたという事件から始まります。と言うことは、先見者であるヨハネまでと、イエスからでは決定的にその時の意味が変わると言うことです。
何が変わったのか。結論をまず述べるならば、神が約束されたメシアをあなたがたの元に遣わすという御ことばの到来を意味するのです。そして、この時は、私たち自身において決定的な時なのです。

なぜならば、この時をもって、神の救いの御心が神ご自身の口をもって直接に宣べ伝えられ、私たちにその御手をもって救いが与えられていくからです。それまでは、ヨナ書にあるように預言者や祭司といった召しを受けた人々の口を通して御ことばが伝えられていたのが、神ご自身がこの世に現れ御心を示してくださっているのですから、それまでの時の持つ意味とは明らかに違うことは明らかです。

そのような時にあって、主イエスは私たちに「悔い改めて福音を信じなさい」とお命じになられました。それまで自分が信じていたもの、富や名声、家族、教師、知識などこの世の何かではなく、神の方に向き直し、神と顔と顔を合わせて、神から出る言葉を信じなさいと命じられているのです。それは、はっきり言うならば、救いにおいて必要のない事がらであると私たちに言っているのです。ただそれまでの古い自分を捨てて、神の御ことばにのみ信頼して生きなさいという神の命令です。

そのように語りかける神が、私たち一人ひとりに呼び掛けている出来事が、まさに4人の人たちを弟子にする場面に表されています。神の救いが、主イエスの宣言をもって到来していることを示しながら、イエスはその国に人を招いてくださっているのです。しかも、それは私たちが神を選ぶということによってなされているのではありません。聖書にあるようにイエスが弟子たちを召し出しています。

すなわち、私たち一人ひとりがキリスト者としてあるのは、私がイエスという人を神の子として認めて選んだのではないのです。マルコ福音書には、ここでイエスが素晴らしい行いをしたとか、教えを説いたとは書いていません。宣教の始めに示されている御心はただ神に信頼し、今までの古い自分を捨て、神に向き直り、神に委ねていくことでした。それが福音であると本当に単純なことを教えられたのです。

その神が、その神の御ことばに従う者として、召し出したのは漁師でありました。律法に精通した学者や、熱心なファリサイ派、サドカイ派、祭司、レビ人といった人々ではなく、素朴に生業をしている人でした。彼らは無学な普通の者だったと後に使徒言行録(4)で書かれているように、市井に生きる人々でありました。神は人の評価や、評判を心には留めません。もちろん、神の救いには、祭司もレビ人もファリサイ派もすべての人が与っています。

しかし、神の弟子として召し出され、神の救いをお示しになる時にあって、初めに召し出したのはそういう仲間内で評価が高く、評判で、神の救いにあの人は相応しいと思われている人にではなく、毎日を普通に過ごし、誰も目に留めないような市井に生きる人です。顧みてみるならば、私たち一人ひとりもそうであります。普通に市井に生きる一人であります。その私を神は御心に留めてくださり、私たちに呼びかけ、神の救いに与る光栄を与えてくださっているのです。

私たちは、この神に委ねてい生きる幸いを今一度心に留めていきたいと思うのです。そして、神の救いに委ねる幸いを心に留めて、この神こそが、私の希望であり、光であり、力であり、避けどころであるということを刻んでいきたいと思うのです。主イエスの宣言によって、それまでの時の意味が決定的に変えられ、私たちは神の国に置かれ、そこへ招かれていること、福音が鳴り響いていることを覚えていきたいと思うのです。

私たちは、神の救いに与る幸い、恵みを御ことばを通して知らされています。しかしながら、この福音が私たちの世に示されているにもかかわらず、未だにそのことを知ることなく日々の暮らしを送っている方々がたくさんいらっしゃいます。その福音を告げ知らせる弟子として私たちは召されている真実を改めて知らされました。
今年も総会を間もなく迎える時季を過ごしています。どうぞ一人ひとりがこの教会の宣教の業が果たして神の福音を告げ知らせるという働きにおいて十分に成し遂げているかということを顧みていきましょう。

神の救いはもたらされています。既に光はこの世に満ち溢れています。神の呼びかけが一人ひとりにあります。この声に応えていく信仰を与えられるような宣教の業をなしていきましょう。今日の福音を通して私たちの教会の「カイロス」としていきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 

2018年1月11日木曜日

クリスマス・イヴ・キャンドル礼拝説教

本日の聖書日課
ルカによる福音書21節~14節(新)102ページ
1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」



          「喜びの誕生」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

キリスト教は、イエス様を救い主と信じている宗教です。しかもこの救いは、キリスト教徒もそうでない人も含めてすべての人間にもたらされていると我々は信じています。今日は、そんなイエス様の誕生をご一緒にお祝いする日をできますことはとても嬉しいことです。
現代は、クリスマスも大変一般化されて街では綺麗なイルミネーションが飾られたりします。またクリスマスセールなどもあって、欲しかった物がお得に買えるかもしれないという期待感が膨らむ季節でもあります。

そういう何か浮ついてしまうような気持になりますが、始めのクリスマスの出来事であるこの聖書のみ言葉を読んでみますと、現代のような煌びやかで、賑やかな雰囲気は全くありません。
キリスト教において一番大切な方がお生まれになった記念すべき時を覚えているにもかかわらず、そこに広がる情景には暗い闇ばかりが広がっていたのです。

まず登場するのは、イエスの父ヨセフと母マリアです。聖書に「いいなずけのマリアと一緒に」と書かれているようにイエス様の両親はまだ結婚していませんでした。しかしながら、マリアは妊娠をしていました。今日の聖書の箇所の少し前にマリアが妊娠したのは、神様の御心によるということが書かれています。今では婚前妊娠は当たり前のようになってしまっていますが、当時の社会においては非常に深刻な問題でした。なぜならば彼らが生活していたのは、ユダヤ教を中心とした社会だからです。それはユダヤ教の教えを規範とする社会ということです。

ユダヤ教には律法というものが在ります。律法とは神様から人間に与えられた掟であり、それを守ることによって神様と人間とが義しい関係にあって、その正しさ故に救いや恵み、祝福といった善いものを受け取れるのだと考えられていました。ですから、律法を破るということは、神様との関係が破綻し、神様の怒りを買い、裁かれてしまう。滅ぼされてしまうと考えられていました。

そのような社会の中で婚前妊娠はどのようにとらえられていたかというならば、十戒という最も大切な十個の律法の内の一つである「あなたは姦淫してはならない」という掟を破ったということになるのです。神様の律法が書かれている聖書箇所を読んでみますと『しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で撃ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。』(申命記222021)とあるように、結婚前に不貞があった場合には「石で撃ち殺されねばならない」と書かれています。

つまり、マリアは神様によってイエス様を身ごもったわけですが、自分自身はこの出来事によって命の危機に置かれたということです。人間的な思いに素直になるならば、とてつもない不安や、怖れを抱かざるを得ないでしょう。その怖れの中でヨセフとマリアは、そういう人間的な思いを突破してくださる神様の御心に自分を委ねました。しかしそれでもやはり恐れはあったに違いありません。

また、もう一つの登場人物である羊飼いたちを見てみましょう。彼らは夜の闇の中で羊が獣に襲われないように番をしていました。彼らはベドウィンと言われていました。現在もそういった方々がイスラエルに行くといらっしゃいます。羊を飼いながら、遊牧民生活をして生活をしているのです。
彼らは定住をしません。長年の中東の歴史の中で国同士の争いに巻き込まれながら不安定な生活をしなければならい人々でした。しかも、彼らは社会の中でも最下層に置かれている人々でした。人々から嘲笑され、無視されていた存在だったのです。

そのような人々に、イエス様の誕生はまず知らされたのです。しかもそこはエルサレムというイスラエルの首都ではなく、片田舎のベツレヘムです。ベツレヘムもイスラエルの中では非常に田舎で、誰も目を止めないような寒村でしかありません。イエス様の誕生という喜ぶべき出来事は、誰からも重要視されない場所で、社会からはじき出され、不安定な生活の中に置かれている人々に、そして、命の危機にあって怖れを抱きながら歩む名も知れない夫婦のもとに起こったのです。

しかしながらこれらの事がらこそが、神様の救いの意味を明らかにしてくださっています。翻って私たち自身を見つめてみましょう。私たちは大なるものが善いと考えます。選挙にしても結局のところ多数決です。多くを獲得したものが勝つ仕組みです。また、財産にしても多くを持っている方が素晴らしい、良いことだと考えます。東京の方が色々な物や人が溢れていて良いなと思います。煌びやかな世界に憧れを抱きます。

しかしながら、神様は救いを示すにあたって、そのような場所や人のもとには来られませんでした。救い主イエス様が来られたのは、先ほども申しましたように、誰も重要だと思わない寂れた町の家畜小屋であり、恐れの中にあるヨセフとマリアのもとに、暗闇の中で生きねばならない羊飼いのもとに光として現れてくださったのです。完全な暗闇の中に神様はイエス様という光で満たしてくださるのだと聖書は私たちに教えてくださっています。怖れの中に、不安の中に、誰も目を止めないところに神様は来られ、そこにある人々の思いを慰め、励まし、癒し、力づけ、善いもので満たしてくださるのです。

皆さんはどうでしょうか。日々の生活に追われて疲れを感じることはありませんか。何か言い表せない虚しさや、寂しさを感じたことはありませんか。一生懸命家族のために働いているのに誰からも感謝されないという思いを感じたことはありませんか。この先、自分たちの生活は、我が子の将来はどうなるのだろうかと恐れを感じたことはありませんか。

きっとここにいらっしゃる皆さんそういう思いに駆られたことがあると思います。その思いに神様は、御子イエス様の誕生を通して、あなたと一緒に居るよ、あなたのその思いを受け止め、あなたの暗い心に光を灯すために来たのだよと語りかけてくださっているのです。なぜそんなことを神様はしてくださるのかと言うならば、神様は、皆さんお一人おひとりに無関心ではいられないからです。神様は、そういう思いに囚われている人、一人ひとりをどうにかして、安心させてあげたい、癒したい、励ましたい、慰めたいと切に願っているのです。

それはつまり、神様は一人ひとりがとても大事なのです。順番はつけられません。すべての人を平等に愛してくださって、私たちのそういう弱さと引き換えに、神様の力や善いものを一人ひとりに惜しみなくいつも与えてくださっているのです。
何か私が素晴らしいことをしたから善いものが与えられたのではなく、神様自らが私たち一人ひとりのために働いてくださって、私たちの弱さや不安、怖れを引き取ってくださって、愛という素晴らしいプレゼントをくださったのです。この神様の愛に照らされているわたしの命であるということを心に留めてください。

そのことを心に留めることによって、神様が私を愛してくださっているのだから、私の家族も友人も、生活の中で視線に入ってくるすべての人にも神様は愛してくださっているのだということに気が付かされます。そうすると、自然と生活にしても、仕事にしても、子育てにしても、誰かのために何かをするということは「しなければいけない」という思いから解放されて、神様に同じように愛されている人たちを私も愛して、その人たちが本当に生きるようになるために働くことこそが喜びだという思いに変えられるのです。

他者のために生きることとは、そういう神様の愛に照らされて本当にできるようになるのです。ぜひ皆さんこのクリスマスの時にあたって、私たち一人ひとりが抱える暗いところに神様が愛をもって来てくださったという喜びを心に留めてください。つまり、喜びの誕生とは、本当の愛の誕生の日であり、その愛によって私たちもまた互いに愛し合い、生かし合うことの喜びに活かす出来事であるということを心に留めるクリスマスのひと時としていきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。