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2016年12月4日日曜日

待降節第2主日の礼拝説教

クリスマスの準備

主日の祈り
主なる神様、私たちの心を奮い立たせて、御ひとり子の道を備えさせてください。御子の来臨によって、世界のすべての人々にあなたの救いを知る知識を与えてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編721-718-19
72:1【ソロモンの詩。】神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。
2王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。
3山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。
4王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。
5王が太陽と共に永らえ/月のある限り、代々に永らえますように。
6王が牧場に降る雨となり/地を潤す豊かな雨となりますように。
7生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。

18主なる神をたたえよ/イスラエルの神/ただひとり驚くべき御業を行う方を。
19栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書111-10()1078
11:1エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
2その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
3彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。
4弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
5正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。
6狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。
7牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
8乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。
9わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。
10その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

第二日課:ローマの信徒への手紙154-13()295
15:4かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。5忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。7だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。8わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、9異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。10また、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、11更に、/「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。12また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」13希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

福音書:マタイによる福音書31-12()3
3:1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


今日は洗礼者ヨハネの記事から待降節における神の恵みについて聴いています。この洗礼者ヨハネの記事も待降節には必ず読まれるみ言葉です。それがどういう意味を見出すかというならば、それはこの出来事が主イエスがこの世に来られた事がらにおいて重要な要素があるからです。洗礼者ヨハネによって示された、神のみ旨が何を意味するのか。このことが待降節にあってなぜ語られているのかご一緒にこのひと時神に聴いてまいりましょう。

さて、先週の説教の中で待降節は、「主が到来」されたということを覚える時として過ごしていくということを申し上げました。つまり、待降節とは、主イエスがこの世にお生まれになることを待つ時というよりも、むしろ、私たち人間のために神が人となり、この世に来てくださった恵み、それ自体を覚える時として過ごすのだということをお伝えしました。
ですから、主イエスが来られたことの意味を神に聴くことが、今日のみ言葉をより一層恵み深い神の御心を知るヒントとなるように思います。そして、そのヒントがすでにこの洗礼者ヨハネの記事に示されています。

それは、6節に「罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」というみ言葉です。結論から申し上げますならば、私たちは主なる神のみ前において罪人であるということです。罪人ということは、どういうことかというならば、神を神とできない不信仰であり、自己中心に陥る意志の弱さであり、他者を借り見ることのできない心です。それは、裁きという形でイスラエル自身も滅ぼされた経験をしましたし、罪人は神の救いに与ることができないということになります。

そして、この罪は律法という具体的に文字で書かれた掟によって示されています。これを違反することで罪人である自分を自覚するのです。しかし、そもそも律法とは罪人を暴くためのものだったのでしょうか。むしろ、それが何かというならば、神と人とが正しい関係にあれるように主なる神が定めてくださった規範です。
そこには、神に対する事がらだけでなく、他者に対する事がら、政治的な事がら、裁判における事がらなどありとあらゆる人間生活にかかわる神のみ旨が示されていました。つまり、私たちの命が神のみ旨に沿って歩んでいけるように、真の平和、真の共同がこの世になるために与えられていたのです。

しかし、それがいつの間にか人の粗を探す道具となり、同時に自分がいかに正しいかと自分自身を誇る道具となってしまったのです。そこにある神のみ旨に思いを向けるのではなく、自分を満足させ、他者を陥れる力となってしまいました。今日のみ言葉に登場する「ファリサイ派やサドカイ派の人々」というのは、律法を守り、派閥を成し、自分たちはユダヤ教の中で正しい存在だということを自負していた連中でした。

そのような人々に対してヨハネは「蝮の子」という辛辣な言葉をもって臨んでいます。この言葉に表されている事がらは、まさに先に律法が人の粗を暴くための道具となり、自分の正しさを誇る道具に過ぎないという事がらに対する批判でもあります。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」という言葉は、まさにそのような自尊心に駆られ、おごり高ぶっている人々の思いを暴き出しているのです。

一読すると、彼らも洗礼を受けに来ているのですから、正しいことをしているかのように映ります。しかし、それは外面であって、その内面は、神への遜り、罪の自覚はなかったのです。このことを神はご存じであり、ヨハネもまた、主イエスの道備えをする者として、人々を導くためにその人間的な思いを告発するのです。
それは、マラキ書31415節に「14あなたたちは言っている。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか。15むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え/神を試みても罰を免れているからだ。」とあるように、高慢な思いを抱き歩む者の本心は、すでに預言によって暴かれているからです。

私たちの世にあっても、正直者が馬鹿を見るということわざがあります。しかし、神のみ前においては、ずる賢い者、外面的に取り繕い、正しいと自負する者、内面の思いを隠し他者を欺いている者もその思いは徹底的に暴かれるのです。そして、そのような者は、「殻を消えることのない火で焼き払われる。」とヨハネが語られているように永遠の裁きが下されるのです。
しかし、それは神の本心であるかというならば、そうではありません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3:16)と語られているように、すべての人間が主に立ち返り、主を主し、永遠の命を得るように望んでおられるのです。主は誰一人として漏らさず救おうとしてくださっているのです。

そして、この御心を成し遂げるために、主イエスを遣わしてくださったのです。私たちを罪の力から救い出すために、世に来られたのです。もはや私たちは罪の前に屈しています。誰も罪の力に打ち勝つことはできません。しかし、それで諦めて、無気力に生きるのかというとそうではありません。今日のみ言葉に示されているように、罪から贖い出し、救ってくださるために主イエスが来られたのであれば、私たち自身もその御心に対して「罪を告白」することによって、備えていくのです。

「告白」という言葉は、原典から見てみますと、「すべてを外に出す」というニュアンスがあります。そうです。私たちの内に在る隠れた思い、高慢さ、惨めさ、弱さ、乏しさといった隠したくなるようなことを神の御前に正直に告白するのです。私はあなたに対して偽りました。隣人を欺きましたと、自分自身を解放していくのです。
正直者が馬鹿を見るのではありません。そのように正直に神の御前に遜り、罪に悩む者に神は、イエスを遣わし、それらすべてを洗い流し、私たちを清い者としてくださるのです。

私たちは主が来られたことを覚える時、それは私たちの隠れた思いを受け止め、贖い、清めてくださる方が来られたのだということを今日のみ言葉を通して教えてくださっています。クリスマスの備えの時にあって、私たちは自分自身を取り繕い、相応しくあるようにする必要はありません。むしろ、無様で、弱く、乏しいことを正直に神に告白し、神に一心に救いを祈り求めていく時としていきましょう。
隠れた思いをあらわにすることを恐れる必要はありません。お一人おひとりが主の御前にあって、等しく罪人であり、救われるべき、祝福された存在なのです。そのことを顕すために主イエスが来られたのです。罪に囚われている私たちには主の平和が豊かに在ることを覚えて今日から始まる日々を歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。