HP移転のお知らせ

この度HPを移転いたしました。 https://tmktmck.wixsite.com/luthershimonoseki/ こちらからお入りください。

2018年8月11日土曜日

夏のティーンズお楽しみ会

8月10日(金)に夏のティーンズお楽しみ会が開催されました。

今年は「藍染」をみんなでしよう!という呼びかけをしました。

教会会員のお子さんをはじめ7名の子どもたちが参加してくれました!
藍染についての学びと、実践を通して日本文化の理解を深める時となりました。

一緒にどんな模様ができるか楽しみながら藍染をすることができました。

昼食には一緒にそうめんを食べて、交わりの時を持ちました。

写真の表情を見ると参加された子どもたちも楽しんでくれたようで良かったです!

最初のご挨拶

スタッフから説明を聞きながら学びの時を持ちました。

糸などを使って絞っています。

いよいよ藍染です。手が汚れないように手袋をして

完成した藍染。それぞれに個性があり世界に一つの藍染ができました。

昼食をみんなで囲みました。

自分の作品をもってパシャリ!

2018年6月10日日曜日

特別講演会のお知らせ

 この度、ルーテル下関教会では、特別講師としてバッハ・ゲゼル・シャフト代表であられ、NHK-FM「古楽の楽しみ」(午前6時~6時55分放送中)で解説者のお一人を務めておられる加藤拓未氏をお迎えしてご講演をいただきます。

 日時は2018年6月23日(土)14時から15時30分です。

 ルターは、宗教改革という歴史的出来事の当事者として、教科書などにも掲載され、2018年には宗教改革500年が全世界で宗教改革と共にルターの名が覚えられました。
 彼は、神様の御ことばである聖書から、神様の福音を受け取っていき、その信仰を様々な形で表しました。その一つが音楽でした。彼自身、リュートという楽器に親しみ、音楽を愛し、数々のコラール(讃美歌)を作詞、作曲しました。500年経った今でも歌い継がれているコラールがあります。

 そして、このルターからおよそ100年後に音楽の父と称されるバッハが誕生します。彼はルター派(ルーテル教会)に属し教会音楽の監督としても活躍しました。音楽の父バッハの源流にはルターの存在があったのです。

 そこでバッハ専門家であられる加藤氏に「ルターのコラール ~バッハへの系譜~」と題してルターからバッハへの流れを音楽的、信仰的側面から解説していただきます。

 またとない機会となる講演会だと思いますので、ぜひご予定にお加えください。

 入場は無料ですからどなたでもお気軽にお越しください。

 お問い合わせは、ルーテル下関教会に直接お電話などでお願いいたします。



2018年4月5日木曜日

第8回東日本大震災チャリティーコンサート

今年も東日本大震災を心にとめる時が与えられます。
震災が発生してすぐの4月から始まったコンサートも今年で8回目を迎えます。
今年も高橋さん(マンドリン)、夏川さん(ピアノ)をお迎えして、素敵な音楽を届けていただきます。
どなたでもお越しください。

入場無料ですが、席上カンパがございます。
カンパは全額、東日本大震災関連の施設、活動のために全額献金をいたします。
沢山の方のお越しを心からお待ちしています。

昨年のコンサートの模様の記事です。  ←■をクリックしてください。

高橋さんHP   ←■をクリックしてください。
夏川さんブログ  ←■をクリックしてください。


主の復活(イースター)主日説教


「あの方は復活なさった」


主日の祈り
憐れみ深い神。主イエスは生きておられます。私たちは もう主イエスを死者の中に捜しません。主は復活し、私たちの命の主となられました。復活の主キリストと共に生きる命を私たちのうちにさらに増し、あなたの民として、永遠の命に与るときまで、共に歩んでください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編118:1-2&14-24
118:1恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
2イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。

14主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。
15御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。
16主の右の手は高く上がり/主の右の手は御力を示す。

17死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。
18主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。

19正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。
20これは主の城門/主に従う人々はここを入る。
21わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。

22家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
23これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
24今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

本日の聖書日課
第1日課:イザヤ書25章6節‐9節 ()1098頁
25:6万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
7主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし
8死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
9その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。

第2日課:使徒言行録10章34節‐43節()233頁
10:34そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。35どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。36神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、37あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

福音書:ヨハネによる福音書20章1節‐18節()209頁
20:1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10それから、この弟子たちは家に帰って行った。

11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

イースターおめでとうございます。主の復活をお祝いするこの時をみ言葉と共に与れましたことを神に感謝いたします。この時、ご一緒に与えられたみ言葉を通して主の復活の恵みとは何か神に聴いていきたいと思います。

今日与えられている主日の祈りにおいて、私たちは心を合わせて「主イエスは生きておられます。私たちは もう主イエスを死者の中に捜しません。」とお祈りをいたしました。そうです。イエスは、もはや死の中にいません。それは、マリアが告げているように「墓から取り去られ」たのです。墓は、死者を葬る器として用いられています。たしかに、十字架の死の日、イエスは墓に埋葬されました。イエスは十字架の上で死に、たしかに死の中に置かれたはずです。

しかし、復活の朝、イエスは、死の中に居られないのです。主イエスは死から復活されたから。それは、弟子たちは墓の中に「亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」ことを認めていたわけですが、これはイザヤ書で語られている「主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし8死を永久に滅ぼしてくださる。」という預言の実現を思い起こさせます。

つまり、主イエスは、死に勝利され、それを「永久に滅ぼしてくださ」ったのです。しかも超自然的な存在として、霊的な存在として復活することによって、永遠の命の約束をお与えになったのでなく、人間として確かに死に、人間としてたしかに復活することによって、私たちもまた、この神のみ子のみ業によって、同じ恵み、同じ死の力への勝利に与っていることをお示しになられたのです。

しかも、この方は、私たち自身が十字架に架けて殺してしまった方です。何の罪もピラトが見いだせなかったにもかかわらず、私たち自身が「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫び、鞭打ち、荊の冠を被せ、その衣を裂き、平手で打ち、十字架を負わせた方です。主なる神は、その事実をご存じです。私たち人間が神の愛する御子を殺したということを。しかし、神は、この十字架の死こそが、私たちの救いのためであり、私たちを愛し、赦すためであることをお示しになりました。

そして、罪の贖いの小羊として自らの命を捧げ、赦しを現実としてくださったのです。しかし主の救いの出来事は、十字架の死で終わったのではありませんでした。復活という出来事を含めて、私たちの信仰の恵みが在ります。なぜならば、罪に死んだままであれば、私たちは赦しを得ただけであり、その先の希望については分からないままだからです。

主が復活なさったということは、罪に死んだ私たち自身が、その先に示されている神の希望に生きるかということをもお示しになっているのです。それが、先に申しましたように、墓から取り去れた、死から取り去られたということと繋がっていくのです。すなわち、主イエスが、死から復活の命に生きるお姿を示してくださったことによって、私たちもまた罪に死んだ者の一人であり、復活の命に生きる存在とされているという約束を復活のイエスを通して与えられているのです。

永遠の命に生きるということは、肉体の死がな、不老不死ということではありません。永遠の命に生きるということは、始めから終わりまで世を生きて支配されているのは神なのですから、その神の御手の内に私たちはいつまでも生かされているということです。永遠の命に生きる約束、復活の命に与る恵みとは、この神の御手の内に在る者として祝福されているのだということです。

肉体的には、誰もがいずれ衰え、弱り果て、死を迎えます。肉体は滅びてしまうかもしれません。しかしながら、永遠を生きる主と共に私たちは生きるのです。
つまり私たちに与えられている希望とは、主イエスの復活を通して、私たちもまた罪に死んだが、イエスの贖いの十字架、赦しの十字架を通して罪に死んだ者とされた。しかし、イエスは復活をすることによって、神が罪に勝利される方である方を示し、この方を信じる信仰によって、神の永遠の御手の内に在る希望を与えてくださったのです。

今日与えられている日課において「その救いを祝って喜び躍ろう。」「民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。」とあるように、私たちはこの復活の恵みを宣べ伝える者、証しする者、喜ぶ者とされています。
世には、悲しみ、苦しみ、破れ、命の渇き、嘆きの中に置かれている方々がたくさんいらっしゃいます。私たちもそうであったように、この福音に生かされていることを待ち望んでいる方が居らっしゃるのですから、私たちは今日、ここから派遣される時、この神から与えられる喜び、愛、赦し、平安を宣べ伝えてまいりましょう。永遠の命の恵みにすべての人が生かされていることを力強く証ししてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように 


2018年3月11日日曜日

四旬節第4主日説教

「信じる者は一人も滅びない」

主日の祈り
平和の神。あなたは永遠の契約の血による大牧者、主イエス・キリストを死より復活させられました。

主に従ってみ旨を行うことができるよう、あなたの永遠の契約の血によって、御目にかなうことを私たちに実現し、善いことすべてを行うことができるようにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課

第1日課:民数記21章4節‐9節 ()249頁

21:4彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、5神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」6主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。7民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。8主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」9モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

第2日課:エフェソの信徒への手紙2章1節‐10節()353頁
2:1さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。4しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、5罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――6キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。7こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。8事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

福音書:ヨハネによる福音書3章14節‐21節()167頁
3:14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」


【説教】

本日与えられている民数記におけるイスラエルの民を見てみますと私たち人間がいかに信仰において薄弱で、脆いかということが露呈されます。イスラエルの民は、エジプトを出て30年間荒野を彷徨わなければなりませんでした。それは現代の私たちにとっては途方もない旅であり、想像を絶する旅であったことと思います。

しかしながら、時間というものは私たちを時として苦しめます。特に苦しく長い出来事が続いていくと人はどうしてもその状況に対して嘆きを覚えます。聖書は「耐えきれなくなって」と書いていますが、原典から直訳すると「魂が落胆して」です。すなわち、この時、イスラエルの民は心の底から疲れを覚え、心から落ち込んでいるのです。その中で人は、神に対して疑いを持ってしまうのです。何故神は私をこのような状況に追い込むのか、苦しめるのかと神に疑いをもってしまうのです。

魂が落ち込み、力も出ないときにこそ私たちの信仰は試されます。そして、その弱まった魂に悪や、罪の力はいともたやすく私たちに牙をむきます。そして、荒野でそうであったように、私たちはその牙によって死んでしまうのです。すなわち、罪とは私たちを死に追いやる牙であり、特に魂が弱り、落ち込んでいる時にその力は凄まじい脅威となり、それに抗うことができないのです。

さらに人間は、罪という事がらにおいて、自分自身が神に対して犯した罪であるにもかかわらず、それを抗いきれない真実を今日のみ言葉は如実に語っています。自分で犯した罪の結果が死であるにもかかわらず、それを逃れる術を私たち自身は持っていないのです。ですから、私たちは罪の力に対して、裸で腹を空かした猛獣の檻に入れられているようなものでしかありません。そこから逃れる檻の鍵も持ち合わせていないのです。

罪の力に対して私たちに成す術もない姿を見て神はどのような御手を下されたかと言うならば、青銅の蛇を旗竿の先に掲げ、悔い改めてそれを仰ぐ者に命を得させることによって救いの道をお示しになりました。自分自身を死に至らしめた蛇を仰ぐとはどういうことでしょうか。それは、自分が何ゆえに死に至る牙に襲われたかということを思い起こすためではないでしょうか。

私は罪によって死に至る、死の世界に飲み込まれて行ってしまう。そのような中で主に悔い改めていくにあたって、主は己の罪を見つめよと仰っているのです。お前は何ゆえ死の牙にかけられているのか、私のゆえか、それともお前のゆえかということが問われているのです。蛇は誰の悪か、誰の罪かと問いかけているのです。その答えはパウロが「自分の過ちと罪のために死んでいた」と語っているように私の側にあるのです。神のみ前に罪を犯しているのは私自身である。

神を疑い、神を非難し、神を拒んだのは、私です。魂が落胆し、力が出ないときに、神により頼むのではなく、神に対し神を否み、疑うという振る舞いをし、神に対して罪を犯したのは誰でもなくこの私なのです。徹底的にその要因は、私にあるということを深く自覚する、それが青銅の蛇であり、そして、主イエスの十字架なのです。

この掲げられた方は、私が神に対して犯した不義、不信仰、疑い、冒涜ありとあらゆる姿を映し出すのです。そして、同時に十字架には神の愛が顕されています。十字架には神の憐れみ、慈しみ、愛、恵みといった私たちの救いにおいて不可欠の神の賜物があります。苦しみでしかないその主イエスのお姿の中に、神からの善いものが示されているということを今日の福音は告げています。

主イエスの十字架を見上げるごとに、イスラエルの民が蛇を仰ぐごとに、自分の罪を見つめ、悔い改めの機会を与えてくださり、主により頼むことによって与えてくださる恵みをお示しになってくださっているのです。主イエスは、宣教の始めに「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。悔い改めとは、自分自身の罪を神に告白することです。そして、その罪を主に差し出し、ただただ主の赦しに希うほかないという信仰の告白です。

その告白を主は聞き入れてくださいます。自分で自分の罪を贖うことの出来ない罪深い私を神は見つめ、憐れんでくださり、賜物として主イエスの十字架を通して赦しを与えてくださるのです。主イエスの十字架を見つめつつ、その十字架に私の神に犯した罪があることを深く自覚し、悔い改めるとき、神は裁き主として厳しく臨む方ではなく、救い主、愛なる神として私たちに臨んでくださっていることに気が付かされます。

私が負わなければならなかった十字架を、赦される術を持たない私のために、罪に対して弱く、死ぬほかない私のために主イエス自らがそれを担ってくださろうとしているという驚くべき御業を私たちは今日のみ言葉から知らされています。第1ヨハネの手紙に「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」と証されているとおりです。

救いの始めは、主の愛であり、その主の愛を信じ、自らの罪を見つめ、悔い改めていくことです。主の愛によって私たちは赦され、生きる者とされているのです。光の中を歩む者となる道を神はお示しになってくださっているのです。その始めは、罪という闇に身を置くのではなく、主イエスの十字架から注がれる光に自らを晒すことです。自分の罪、悪を明るみにだすことを恐れることはありません。

神は私たちを愛してくださっています。裁くためではなく、愛するために主イエスを遣わしてくださっています。主はわたしの罪を既にご存知です。もし自分に罪が無いと言うならば「それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(第1ヨハネ1:8)。神ご自身を否むことでしかないのです。ですから、私たちは正直に神のみ前に罪や悪を告白し、主イエスの十字架にすべてを委ねていきましょう。十字架にすべてを委ねるということは、神の愛にすべてを委ねることです。

四旬節にあって、改めて主のみ前に罪を告白し、悔い改めていくことの恵みを心に留めていきましょう。裁かれるのではないかという畏れからではなく、神の愛に信頼して、赦しの御業である十字架を仰ぎ見つつ悔い改めの日々といたしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように 

2018年1月26日金曜日

顕現後第3主日説教

「私を見つけるイエス」

主日の祈り
全能の神様。あなたは、ただ恵みによって私たちを召し、あなたの働きに招いてくださいます。聖霊によって私たちを強め、あなたの招きにふさわしいものにください。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
1日課: ヨナ書315&10 ()1447
3:1主の言葉が再びヨナに臨んだ。2「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」3ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。4ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」5すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。

10神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

2日課:1コリントの信徒への手紙72931()308
7:29兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、30泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、31世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

福音書:マルコによる福音書11420()61
1:14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18二人はすぐに網を捨てて従った。19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

【説教】

顕現節を送るということは、主イエスがこの世で歩まれていた時にどのような御心を示し、教え、導いてくださっていたかということを覚えるときでもあります。そして、この働きを通して私たちは主の栄光を見る者とされています。そのような時にあって今日の主日のために与えられている福音は、主イエスの伝道の始まりと最初の弟子たちを召し出した出来事から聴いています。この御ことばに示されている神の栄光とは何か共にしばらくの間聴いてまいりましょう。

主イエスが宣言した福音の始めの御ことばは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。ここで示されている「時」という言葉は、原典の言葉は「カイロス」という言葉があてられています。ギリシャ語には二つの「時」を表す言葉があります。もう一つの言葉は「クロノス」という言葉です。クロノスは、いわゆる時間をさします。何時何分、何時間、何分とか量的に表現する場合において用いられます。

では、ここで主イエスが宣言された「カイロス」という時とはどのようなことを表すならば、それはその時には決定的な意味がある「時」がカイロスなのです。この言葉はもともと分断する、遮断するという言葉から派生してできた言葉です。平たくいうならば、妻と、夫と運命の出会いをした「時」、人生の岐路の「時」を示す場合に用いるのが「カイロス」であり、今までの持つ時の意味と決定的な違いをもたらす言葉なのです。ですから、この主イエスの宣言は、その「時」に大切な意味がある。神のみ心がそこに決定的に働いているということを意味しているのです。

では、決定的な時とはヨハネが捕らえられたという事件から始まります。と言うことは、先見者であるヨハネまでと、イエスからでは決定的にその時の意味が変わると言うことです。
何が変わったのか。結論をまず述べるならば、神が約束されたメシアをあなたがたの元に遣わすという御ことばの到来を意味するのです。そして、この時は、私たち自身において決定的な時なのです。

なぜならば、この時をもって、神の救いの御心が神ご自身の口をもって直接に宣べ伝えられ、私たちにその御手をもって救いが与えられていくからです。それまでは、ヨナ書にあるように預言者や祭司といった召しを受けた人々の口を通して御ことばが伝えられていたのが、神ご自身がこの世に現れ御心を示してくださっているのですから、それまでの時の持つ意味とは明らかに違うことは明らかです。

そのような時にあって、主イエスは私たちに「悔い改めて福音を信じなさい」とお命じになられました。それまで自分が信じていたもの、富や名声、家族、教師、知識などこの世の何かではなく、神の方に向き直し、神と顔と顔を合わせて、神から出る言葉を信じなさいと命じられているのです。それは、はっきり言うならば、救いにおいて必要のない事がらであると私たちに言っているのです。ただそれまでの古い自分を捨てて、神の御ことばにのみ信頼して生きなさいという神の命令です。

そのように語りかける神が、私たち一人ひとりに呼び掛けている出来事が、まさに4人の人たちを弟子にする場面に表されています。神の救いが、主イエスの宣言をもって到来していることを示しながら、イエスはその国に人を招いてくださっているのです。しかも、それは私たちが神を選ぶということによってなされているのではありません。聖書にあるようにイエスが弟子たちを召し出しています。

すなわち、私たち一人ひとりがキリスト者としてあるのは、私がイエスという人を神の子として認めて選んだのではないのです。マルコ福音書には、ここでイエスが素晴らしい行いをしたとか、教えを説いたとは書いていません。宣教の始めに示されている御心はただ神に信頼し、今までの古い自分を捨て、神に向き直り、神に委ねていくことでした。それが福音であると本当に単純なことを教えられたのです。

その神が、その神の御ことばに従う者として、召し出したのは漁師でありました。律法に精通した学者や、熱心なファリサイ派、サドカイ派、祭司、レビ人といった人々ではなく、素朴に生業をしている人でした。彼らは無学な普通の者だったと後に使徒言行録(4)で書かれているように、市井に生きる人々でありました。神は人の評価や、評判を心には留めません。もちろん、神の救いには、祭司もレビ人もファリサイ派もすべての人が与っています。

しかし、神の弟子として召し出され、神の救いをお示しになる時にあって、初めに召し出したのはそういう仲間内で評価が高く、評判で、神の救いにあの人は相応しいと思われている人にではなく、毎日を普通に過ごし、誰も目に留めないような市井に生きる人です。顧みてみるならば、私たち一人ひとりもそうであります。普通に市井に生きる一人であります。その私を神は御心に留めてくださり、私たちに呼びかけ、神の救いに与る光栄を与えてくださっているのです。

私たちは、この神に委ねてい生きる幸いを今一度心に留めていきたいと思うのです。そして、神の救いに委ねる幸いを心に留めて、この神こそが、私の希望であり、光であり、力であり、避けどころであるということを刻んでいきたいと思うのです。主イエスの宣言によって、それまでの時の意味が決定的に変えられ、私たちは神の国に置かれ、そこへ招かれていること、福音が鳴り響いていることを覚えていきたいと思うのです。

私たちは、神の救いに与る幸い、恵みを御ことばを通して知らされています。しかしながら、この福音が私たちの世に示されているにもかかわらず、未だにそのことを知ることなく日々の暮らしを送っている方々がたくさんいらっしゃいます。その福音を告げ知らせる弟子として私たちは召されている真実を改めて知らされました。
今年も総会を間もなく迎える時季を過ごしています。どうぞ一人ひとりがこの教会の宣教の業が果たして神の福音を告げ知らせるという働きにおいて十分に成し遂げているかということを顧みていきましょう。

神の救いはもたらされています。既に光はこの世に満ち溢れています。神の呼びかけが一人ひとりにあります。この声に応えていく信仰を与えられるような宣教の業をなしていきましょう。今日の福音を通して私たちの教会の「カイロス」としていきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 

2018年1月11日木曜日

クリスマス・イヴ・キャンドル礼拝説教

本日の聖書日課
ルカによる福音書21節~14節(新)102ページ
1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」



          「喜びの誕生」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

キリスト教は、イエス様を救い主と信じている宗教です。しかもこの救いは、キリスト教徒もそうでない人も含めてすべての人間にもたらされていると我々は信じています。今日は、そんなイエス様の誕生をご一緒にお祝いする日をできますことはとても嬉しいことです。
現代は、クリスマスも大変一般化されて街では綺麗なイルミネーションが飾られたりします。またクリスマスセールなどもあって、欲しかった物がお得に買えるかもしれないという期待感が膨らむ季節でもあります。

そういう何か浮ついてしまうような気持になりますが、始めのクリスマスの出来事であるこの聖書のみ言葉を読んでみますと、現代のような煌びやかで、賑やかな雰囲気は全くありません。
キリスト教において一番大切な方がお生まれになった記念すべき時を覚えているにもかかわらず、そこに広がる情景には暗い闇ばかりが広がっていたのです。

まず登場するのは、イエスの父ヨセフと母マリアです。聖書に「いいなずけのマリアと一緒に」と書かれているようにイエス様の両親はまだ結婚していませんでした。しかしながら、マリアは妊娠をしていました。今日の聖書の箇所の少し前にマリアが妊娠したのは、神様の御心によるということが書かれています。今では婚前妊娠は当たり前のようになってしまっていますが、当時の社会においては非常に深刻な問題でした。なぜならば彼らが生活していたのは、ユダヤ教を中心とした社会だからです。それはユダヤ教の教えを規範とする社会ということです。

ユダヤ教には律法というものが在ります。律法とは神様から人間に与えられた掟であり、それを守ることによって神様と人間とが義しい関係にあって、その正しさ故に救いや恵み、祝福といった善いものを受け取れるのだと考えられていました。ですから、律法を破るということは、神様との関係が破綻し、神様の怒りを買い、裁かれてしまう。滅ぼされてしまうと考えられていました。

そのような社会の中で婚前妊娠はどのようにとらえられていたかというならば、十戒という最も大切な十個の律法の内の一つである「あなたは姦淫してはならない」という掟を破ったということになるのです。神様の律法が書かれている聖書箇所を読んでみますと『しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で撃ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。』(申命記222021)とあるように、結婚前に不貞があった場合には「石で撃ち殺されねばならない」と書かれています。

つまり、マリアは神様によってイエス様を身ごもったわけですが、自分自身はこの出来事によって命の危機に置かれたということです。人間的な思いに素直になるならば、とてつもない不安や、怖れを抱かざるを得ないでしょう。その怖れの中でヨセフとマリアは、そういう人間的な思いを突破してくださる神様の御心に自分を委ねました。しかしそれでもやはり恐れはあったに違いありません。

また、もう一つの登場人物である羊飼いたちを見てみましょう。彼らは夜の闇の中で羊が獣に襲われないように番をしていました。彼らはベドウィンと言われていました。現在もそういった方々がイスラエルに行くといらっしゃいます。羊を飼いながら、遊牧民生活をして生活をしているのです。
彼らは定住をしません。長年の中東の歴史の中で国同士の争いに巻き込まれながら不安定な生活をしなければならい人々でした。しかも、彼らは社会の中でも最下層に置かれている人々でした。人々から嘲笑され、無視されていた存在だったのです。

そのような人々に、イエス様の誕生はまず知らされたのです。しかもそこはエルサレムというイスラエルの首都ではなく、片田舎のベツレヘムです。ベツレヘムもイスラエルの中では非常に田舎で、誰も目を止めないような寒村でしかありません。イエス様の誕生という喜ぶべき出来事は、誰からも重要視されない場所で、社会からはじき出され、不安定な生活の中に置かれている人々に、そして、命の危機にあって怖れを抱きながら歩む名も知れない夫婦のもとに起こったのです。

しかしながらこれらの事がらこそが、神様の救いの意味を明らかにしてくださっています。翻って私たち自身を見つめてみましょう。私たちは大なるものが善いと考えます。選挙にしても結局のところ多数決です。多くを獲得したものが勝つ仕組みです。また、財産にしても多くを持っている方が素晴らしい、良いことだと考えます。東京の方が色々な物や人が溢れていて良いなと思います。煌びやかな世界に憧れを抱きます。

しかしながら、神様は救いを示すにあたって、そのような場所や人のもとには来られませんでした。救い主イエス様が来られたのは、先ほども申しましたように、誰も重要だと思わない寂れた町の家畜小屋であり、恐れの中にあるヨセフとマリアのもとに、暗闇の中で生きねばならない羊飼いのもとに光として現れてくださったのです。完全な暗闇の中に神様はイエス様という光で満たしてくださるのだと聖書は私たちに教えてくださっています。怖れの中に、不安の中に、誰も目を止めないところに神様は来られ、そこにある人々の思いを慰め、励まし、癒し、力づけ、善いもので満たしてくださるのです。

皆さんはどうでしょうか。日々の生活に追われて疲れを感じることはありませんか。何か言い表せない虚しさや、寂しさを感じたことはありませんか。一生懸命家族のために働いているのに誰からも感謝されないという思いを感じたことはありませんか。この先、自分たちの生活は、我が子の将来はどうなるのだろうかと恐れを感じたことはありませんか。

きっとここにいらっしゃる皆さんそういう思いに駆られたことがあると思います。その思いに神様は、御子イエス様の誕生を通して、あなたと一緒に居るよ、あなたのその思いを受け止め、あなたの暗い心に光を灯すために来たのだよと語りかけてくださっているのです。なぜそんなことを神様はしてくださるのかと言うならば、神様は、皆さんお一人おひとりに無関心ではいられないからです。神様は、そういう思いに囚われている人、一人ひとりをどうにかして、安心させてあげたい、癒したい、励ましたい、慰めたいと切に願っているのです。

それはつまり、神様は一人ひとりがとても大事なのです。順番はつけられません。すべての人を平等に愛してくださって、私たちのそういう弱さと引き換えに、神様の力や善いものを一人ひとりに惜しみなくいつも与えてくださっているのです。
何か私が素晴らしいことをしたから善いものが与えられたのではなく、神様自らが私たち一人ひとりのために働いてくださって、私たちの弱さや不安、怖れを引き取ってくださって、愛という素晴らしいプレゼントをくださったのです。この神様の愛に照らされているわたしの命であるということを心に留めてください。

そのことを心に留めることによって、神様が私を愛してくださっているのだから、私の家族も友人も、生活の中で視線に入ってくるすべての人にも神様は愛してくださっているのだということに気が付かされます。そうすると、自然と生活にしても、仕事にしても、子育てにしても、誰かのために何かをするということは「しなければいけない」という思いから解放されて、神様に同じように愛されている人たちを私も愛して、その人たちが本当に生きるようになるために働くことこそが喜びだという思いに変えられるのです。

他者のために生きることとは、そういう神様の愛に照らされて本当にできるようになるのです。ぜひ皆さんこのクリスマスの時にあたって、私たち一人ひとりが抱える暗いところに神様が愛をもって来てくださったという喜びを心に留めてください。つまり、喜びの誕生とは、本当の愛の誕生の日であり、その愛によって私たちもまた互いに愛し合い、生かし合うことの喜びに活かす出来事であるということを心に留めるクリスマスのひと時としていきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。