本日の聖書日課
ルカによる福音書2章1節~14節(新)102ページ
1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
「喜びの誕生」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
キリスト教は、イエス様を救い主と信じている宗教です。しかもこの救いは、キリスト教徒もそうでない人も含めてすべての人間にもたらされていると我々は信じています。今日は、そんなイエス様の誕生をご一緒にお祝いする日をできますことはとても嬉しいことです。
現代は、クリスマスも大変一般化されて街では綺麗なイルミネーションが飾られたりします。またクリスマスセールなどもあって、欲しかった物がお得に買えるかもしれないという期待感が膨らむ季節でもあります。
そういう何か浮ついてしまうような気持になりますが、始めのクリスマスの出来事であるこの聖書のみ言葉を読んでみますと、現代のような煌びやかで、賑やかな雰囲気は全くありません。
キリスト教において一番大切な方がお生まれになった記念すべき時を覚えているにもかかわらず、そこに広がる情景には暗い闇ばかりが広がっていたのです。
まず登場するのは、イエスの父ヨセフと母マリアです。聖書に「いいなずけのマリアと一緒に」と書かれているようにイエス様の両親はまだ結婚していませんでした。しかしながら、マリアは妊娠をしていました。今日の聖書の箇所の少し前にマリアが妊娠したのは、神様の御心によるということが書かれています。今では婚前妊娠は当たり前のようになってしまっていますが、当時の社会においては非常に深刻な問題でした。なぜならば彼らが生活していたのは、ユダヤ教を中心とした社会だからです。それはユダヤ教の教えを規範とする社会ということです。
ユダヤ教には律法というものが在ります。律法とは神様から人間に与えられた掟であり、それを守ることによって神様と人間とが義しい関係にあって、その正しさ故に救いや恵み、祝福といった善いものを受け取れるのだと考えられていました。ですから、律法を破るということは、神様との関係が破綻し、神様の怒りを買い、裁かれてしまう。滅ぼされてしまうと考えられていました。
そのような社会の中で婚前妊娠はどのようにとらえられていたかというならば、十戒という最も大切な十個の律法の内の一つである「あなたは姦淫してはならない」という掟を破ったということになるのです。神様の律法が書かれている聖書箇所を読んでみますと『しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で撃ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。』(申命記22章20‐21節)とあるように、結婚前に不貞があった場合には「石で撃ち殺されねばならない」と書かれています。
つまり、マリアは神様によってイエス様を身ごもったわけですが、自分自身はこの出来事によって命の危機に置かれたということです。人間的な思いに素直になるならば、とてつもない不安や、怖れを抱かざるを得ないでしょう。その怖れの中でヨセフとマリアは、そういう人間的な思いを突破してくださる神様の御心に自分を委ねました。しかしそれでもやはり恐れはあったに違いありません。
また、もう一つの登場人物である羊飼いたちを見てみましょう。彼らは夜の闇の中で羊が獣に襲われないように番をしていました。彼らはベドウィンと言われていました。現在もそういった方々がイスラエルに行くといらっしゃいます。羊を飼いながら、遊牧民生活をして生活をしているのです。
彼らは定住をしません。長年の中東の歴史の中で国同士の争いに巻き込まれながら不安定な生活をしなければならい人々でした。しかも、彼らは社会の中でも最下層に置かれている人々でした。人々から嘲笑され、無視されていた存在だったのです。
そのような人々に、イエス様の誕生はまず知らされたのです。しかもそこはエルサレムというイスラエルの首都ではなく、片田舎のベツレヘムです。ベツレヘムもイスラエルの中では非常に田舎で、誰も目を止めないような寒村でしかありません。イエス様の誕生という喜ぶべき出来事は、誰からも重要視されない場所で、社会からはじき出され、不安定な生活の中に置かれている人々に、そして、命の危機にあって怖れを抱きながら歩む名も知れない夫婦のもとに起こったのです。
しかしながらこれらの事がらこそが、神様の救いの意味を明らかにしてくださっています。翻って私たち自身を見つめてみましょう。私たちは大なるものが善いと考えます。選挙にしても結局のところ多数決です。多くを獲得したものが勝つ仕組みです。また、財産にしても多くを持っている方が素晴らしい、良いことだと考えます。東京の方が色々な物や人が溢れていて良いなと思います。煌びやかな世界に憧れを抱きます。
しかしながら、神様は救いを示すにあたって、そのような場所や人のもとには来られませんでした。救い主イエス様が来られたのは、先ほども申しましたように、誰も重要だと思わない寂れた町の家畜小屋であり、恐れの中にあるヨセフとマリアのもとに、暗闇の中で生きねばならない羊飼いのもとに光として現れてくださったのです。完全な暗闇の中に神様はイエス様という光で満たしてくださるのだと聖書は私たちに教えてくださっています。怖れの中に、不安の中に、誰も目を止めないところに神様は来られ、そこにある人々の思いを慰め、励まし、癒し、力づけ、善いもので満たしてくださるのです。
皆さんはどうでしょうか。日々の生活に追われて疲れを感じることはありませんか。何か言い表せない虚しさや、寂しさを感じたことはありませんか。一生懸命家族のために働いているのに誰からも感謝されないという思いを感じたことはありませんか。この先、自分たちの生活は、我が子の将来はどうなるのだろうかと恐れを感じたことはありませんか。
きっとここにいらっしゃる皆さんそういう思いに駆られたことがあると思います。その思いに神様は、御子イエス様の誕生を通して、あなたと一緒に居るよ、あなたのその思いを受け止め、あなたの暗い心に光を灯すために来たのだよと語りかけてくださっているのです。なぜそんなことを神様はしてくださるのかと言うならば、神様は、皆さんお一人おひとりに無関心ではいられないからです。神様は、そういう思いに囚われている人、一人ひとりをどうにかして、安心させてあげたい、癒したい、励ましたい、慰めたいと切に願っているのです。
それはつまり、神様は一人ひとりがとても大事なのです。順番はつけられません。すべての人を平等に愛してくださって、私たちのそういう弱さと引き換えに、神様の力や善いものを一人ひとりに惜しみなくいつも与えてくださっているのです。
何か私が素晴らしいことをしたから善いものが与えられたのではなく、神様自らが私たち一人ひとりのために働いてくださって、私たちの弱さや不安、怖れを引き取ってくださって、愛という素晴らしいプレゼントをくださったのです。この神様の愛に照らされているわたしの命であるということを心に留めてください。
そのことを心に留めることによって、神様が私を愛してくださっているのだから、私の家族も友人も、生活の中で視線に入ってくるすべての人にも神様は愛してくださっているのだということに気が付かされます。そうすると、自然と生活にしても、仕事にしても、子育てにしても、誰かのために何かをするということは「しなければいけない」という思いから解放されて、神様に同じように愛されている人たちを私も愛して、その人たちが本当に生きるようになるために働くことこそが喜びだという思いに変えられるのです。
他者のために生きることとは、そういう神様の愛に照らされて本当にできるようになるのです。ぜひ皆さんこのクリスマスの時にあたって、私たち一人ひとりが抱える暗いところに神様が愛をもって来てくださったという喜びを心に留めてください。つまり、喜びの誕生とは、本当の愛の誕生の日であり、その愛によって私たちもまた互いに愛し合い、生かし合うことの喜びに活かす出来事であるということを心に留めるクリスマスのひと時としていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。