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2017年4月21日金曜日

聖週間・聖木曜日礼拝説教

「神の善きものを受け取りながら」

主日の祈り
愛の源、聖なる神様、裏切りの夜、主イエスは新しい掟(おきて)を授け、私たちも互いに愛し合うよう教えられました。私たちの心にこれを刻みこみ、しもべとなった主に倣い、他者に仕える心をお与えください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編 1161-2, 12-19節(旧)956
116:1わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
2わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。

12主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
13救いの杯を上げて主の御名を呼び
14満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。
15主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
16どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。
17あなたに感謝のいけにえをささげよう/主の御名を呼び
18主に満願の献げ物をささげよう/主の民すべての見守る前で
19主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。

第一朗読:出エジプト記12:114(旧)111
12:1エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。2「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。3イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。4もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。5その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。6それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、7その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。8そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。9肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。10それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。11それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。12その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。13あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。14この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。

第二朗読:コリントの信徒への手紙一11:2326(新)314
11:23わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。25また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。26だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。


福音書:ヨハネによる福音書13:11731b35(新)194
弟子の足を洗う
13:1さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。2夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。3イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた6シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。7イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。8ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。9そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」10イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」11イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。12さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。16はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。17このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

31b「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。33子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」


【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

一日、一日と主イエスの受難と復活の時が近づいていることを心に留めながら私たちは今過ごしています。今日は、受難前夜の出来事です。そして、この日、私たちすべての人間にとって大切な出来事が示されました。それは、主が足を洗ってくださったということ、そして、主の晩餐を覚える聖餐の恵みです。この出来事は、ペテロたちの宣教によって、神が立てられた初めの教会が始まって以来、私たちの信仰生活になくてはならない非常に大切なこととして覚えられ続けています。
主イエスのご受難の前夜、そのことが示されたことの恵みを私たちは、今日この時しばし神に聴いていきましょう。

今日の出来事において大切なことは、主イエスがなぜ弟子たちの足を洗い、最後の晩餐の席でパンとぶどう酒を聖別してくださったかということです。そのことについて今日の福音はハッキリと語っています。それは冒頭に「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とある通りです。

すなわち、私たち人間に対する主イエスの愛、神の愛を私たちに示すためです。そして、この私たちに対する愛が発露となって、主イエスは、弟子たちの足を洗い、最後の晩餐の席を設けてくださったのです。
そして、この愛が無ければ、これらのことがらは何の意味も持たなかったと言っていいほどに、神の愛は大切な事がらなのです。

それはペトロが『「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」』と語られているように、この愛のしるしがなければ、私たちと神との関わりが何もないことになってしまうのです。

そして、この愛が主イエスを死にまでいたらせたのです。それは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)と語られているように、最上の愛の証し、しるしです。この最上の愛のしるしを示すために、主イエスはまずご自身を十字架によって献げてくださったのです。そして、この事がらは、私たちのために死なれるほどに、神はこの私を愛してくださっているというしるしでもあるのです。

そして、この愛を主イエスは、上から分け与えるというようなやり方ではなく、ご自身神の御許から来られ、神の御許に帰られ、その玉座の右に座す方であるにもかかわらず、僕の姿を取り、屠り場に引かれる羊のようになり、ご自身を徹底的に低くすることによってその愛を示してくださったのです。

ですから、主イエスが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と語られたみ言葉は、言い換えるならば「わたしがあなたがたに仕えたように、あなたがたも互いに仕え合いなさい」ということです。そして、それは主イエスの発露が愛であったように、互いに仕え合うことにおいて、もっとも大切なのは、この神の愛に力づけられ可能となり、またそれが神に仕えることとなるのです。

私たちは罪人なのですから、外面では人に仕えることができても、その内面は究極には「自分のため」という思いがあります。あの人から良く思われたい、社会的評価を得たいという思いを完全に抱かずになすことは適いません。ルターもそのことに悩みぬき、「純粋に神のため、隣人のためにはなり切れないし、どうやってもそのことを克服できないことを思い知ったのです。」(キリスト者の自由を読む)
それをルターは、神のみ前においても、神に仕えると言いながら、そういう自己中心に陥り、罪を犯してしまうし、その人間の本性からは逃れられず、人間の本性は罪人でしかないと認めざるを得ないと論じたのです。

そのような悩みの中で、ルターは信仰によってのみ罪を赦され、救われていることを確信しました。そして、その信仰によって罪人でありながら、神の一方的な恵みによって義人とされていると言います。ここに私たちが主がそうしてくださったように、神と人とに仕えることが可能になるのです。「信仰は、人を義しくすると同様に、よい行いもする。」(キリスト者の自由)とあるように、信仰によって、私たちは神から救われているのだから、それで十分なのです。

主イエスもまさにそうでありました。イエスご自身、神の愛に生かされ、それを信じていました。だからこそ、神のみ旨に従い生き、すべての隣人のためにご自身の命を献げ、仕えることができたのです。その信仰によってもたらされる人間の姿を、主イエスは模範として示してくださったのです。

その発露に神の愛があり、神から与えられる信仰と恵みがあります。そのことを洗足によって示し、聖餐において、それを見て、体感するみ言葉の恵みとして今日受け取ってまいります。この主イエスが顕してくださったしるしが私たちを隣人に仕えること、愛し合うことへと駆り立て、そのことの喜びを示してくださっているということを覚えて過ごしてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。