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2012年7月5日木曜日

新米牧師徒然


下関に遣わされて早くも3か月が経ちました。この間の時間の流れはアッと言う間という表現と、まだまだ3か月という表現とが入り混じった思いでいます。

「予想外」という言葉が今思い返してみて浮かび上がってくる言葉です。曲がりなりにも神学校での4年間にいろいろな経験をさせていただきましたし、知識的な部分での鍛錬もさせていただきましたが、本当にこのままでは4年間分の貯金(?)もすぐに底を突いてしまうのではないかと思うほどであります。また、神学校では経験できないようなこともすでにいくつも経験させていただきました。

その中でも大きな出来事は、何と言っても初めての葬儀を執り行う相手が祖母だったという事です。下関に遣わされたことで祖母の顔をすぐに見られるというのは、安心な事でしたし、叔父も父も喜んでくれていました。また、祖母自身も喜んでくれていました。「あんたの説教をいつか聴きたいね」と言ってくれていましたし、自分自身もいつかはと思っていました。
そのいつかがまさか葬儀説教になるとは思いませんでしたが、神様の御許に送る方としては、本当に安心して送り出すこともできました。

祖母が最後病床で読んでいた本の中にいつの物であるかは忘れましたが、聖書日課がありました。洗礼を受けてからまったく教会には行っていませんでしたから、決して真面目なクリスチャンではありませんでした。けれども、病院に入り、最期の時を過ごす中で暇つぶしのためかもしれませんが、そうやって聖書日課に触れて御ことばの説きあかしに触れてくれたことは、嬉しく思いました。

この時に思ったことは、私たちはいろいろな事で思い巡らしながら、なんとかして神様の御ことばを伝えていきたいと思うものですけれども、なかなかそれが上手にいかないというもどかしさも感じているというのが正直な思いであると思います。

しかし、神様は私たちの思いを越えた計画の中に、私たち一人ひとりを置いていてくださっているのだと思います。私のように牧師の子息として生まれ育ったことによって、また別の人は中学校がミッション系だったことから、またある人は大人になっていろいろな悩みを抱える中で、どの方のエピソードを聴いてもそこには神様とその人とのドラマがあります。

きっと私たちキリスト者は、その神様の計画の小さな、小さな助け手なのだと思います。
それが、どのような形であらわされるかはわかりません。プロテスタントにおいては、外典となっているシラ書にこのような御ことばがあります。
「人が究め尽くしたと思ったときは、/まだ始まったばかりであり、/途中でやめてしまうと、徒労に終わる。」

神様の目から見るならば、人間の経験や知識を遥かに超えているという事を現しているのだと思います。どんなことでも続けていきたいと改めて思わされると同時に私たちはあまりにも自分たちの思いにとらわれていないかという事を顧みさせられる御ことばであるなと思います。

時には、「こんなことをして何の意味があるのか」「こんなことは無駄だ」と思うこともたくさん出会っていきます。けれども、そのような人間の思いに終わるのではなく、神様の御心はなんなのかという事を思いながら歩んでいきたいと思いますし、必ず神様の豊かな恵みと喜びがあるという事を信じていきたいと思うのです。