「永遠のいのちに至る水」
主日の祈り
永遠の主なる神様。あなたはみ子の生涯と死と復活によって、悩み多いこの世にみ国をもたらされました。私たちがみ言葉に聞き従って、愛の器となることができるように助けてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
本日の聖書日課
第一日課:出エジプト記17章1-7節(旧)122頁
17:1主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。2民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」3しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」4モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、5主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。6見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。7彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
第二日課:ローマの信徒への手紙4章17b-25節(新)279頁
4:17b死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。18彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。19そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。20彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。21神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。22だからまた、それが彼の義と認められたわけです。23しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、24わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。25イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
福音書:ヨハネによる福音書4章5-26節(新)169頁
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
【説教】
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように」
皆さんに今、考えていただきたいことは「こだわり」ということです。
おそらく、お一人おひとりそれぞれに「こだわり」というものをお持ちでしょう。それは、生活におけるものであったり、はたまた生きる上での自分史自身の指針となるものであったりと様々にあることと思います。
私自身考えて見ますと、なんと「こだわり」の多い物であるかと思わされます。元来大雑把で、やることが行き当たりばったりに見えて実は、ご飯を作るならば、美味しい物を作りたいとか、こういうスタイルが良いとか、これを買うならばここが良いとか、人に対して怒るという感情をぶつけないなど、様々にあることに気づかされます。
こだわりぬいた品々というふうに形容されることがありますが、これは良い意味で使われますけれども、しかし、一たびこの「こだわり」ということにまさに字のごとくこだわり過ぎるとそのことにがんじがらめになり、まったく自由でないということも起こりうるということを私たちは知っています。
そして、さらに言うならば、このこだわりのゆえに、他人にそれを押し付け、こうでなければならない、こうでなければ違うというように相手を測るものさしにしてしまいます。
祈らなければならない、礼拝に出なければならない、聖書を読まなければならないというように、信仰の在り方についてその人に強制をしてしまいかねません。
もちろん、祈ることも、礼拝に出席することも、聖書を読むことも尊い信仰の糧となります。しかし、それが相手にとって強制感や、強迫観念を生むようなものになっては決してならないということです。
このようなお話から始めたのは、今日、お読みした福音書に登場する女性もまたそのような「こだわり」に捕えられていた一人ではないかと思うのです。
彼女は、サマリア人の女性でした。彼女自身がイエスとのやり取りで言っているように、通常であればサマリア人とユダヤ人は交際をしません。何故ならば、互いに互いを忌み嫌っているからです。ユダヤ人の側からするならば、もともとユダヤ人であった人々が、アッシリアの人たちと混血になることによって、血の汚れが起き、さらに信仰においてもユダヤ教の正統的な信仰ではないとみなしていたからです。
そのような事情をこの女性も知っていましたから、イエスが話しかけたことに驚きを持って答えたのです。しかし、イエスは、そのようなこだわりという壁を越えてこられたのです。しかも、ユダヤ人がサマリア人に接するように上から物を言うのでなく、「水を飲ませて欲しい」と謙る態度をもって接したのです。サマリア人からするならば、そのようなユダヤ人がこのような態度をとるということは驚きでしかありませんでした。
さらに、当時男女が街中で親しげに話すということもあり得ないことでした。なぜならば、当時の男性と女性というのは、明らかな男尊女卑社会だったからです。そのような関係性の中で、男性が女性に敬って物を頼むということは、絶対にありえないのです。だからこそ、弟子たちもまた彼女とイエスが話しをしている姿を見て驚いたのです。それくらいにありえない光景が目の前で繰り広げられていたということを物語っています。
しかし、イエスは、この男性と女性という壁をも越えて来たのです。そして、この男性、女性というこだわりをもこのサマリアの女性は捨てきれずに居たということが福音書には示されています。
さらにまだ壁はあります。それは彼女が5人もの男性と結婚関係を結んだにもかかわらず、それが破局しているという事実です。彼女は、このことをイエスのみ前で最初ひた隠しにします。なぜならば、それは死別であれ、離別であれ恥ずべき事であったであろうし、何か自分に過失があったという思いがあったからです。そして、おそらく当時の風習から言うならば、彼女の側に100%過失があるような状態で結婚と離縁を繰り返していたのかもしれません。ですから、彼女は自分のこの結婚関係の在り様についてひた隠しにしたのです。そして、それ故に周囲の人々からも疎まれていったのです。それは、正午ごろに水汲みに来なければならないという状況からも察しがつきます。普通水汲みは朝一番の仕事です。朝の涼しいうちに一番重労働である水汲みを終わらせるからです。しかし、それが叶わない状況に彼女自身置かれていたということです。
イエスは、このように彼女が抱えるあらゆる壁を打ち破ります。民族の壁、男女の壁、人間関係の破れの壁、彼女が抱えて生きていたこだわりという壁を越えて、イエスは彼女のもとにやって来たのです。
さらに、このやり取りの中でサマリアの女性は、イエスによって命の水があることを知らされます。しかし、彼女は、それが何か具体的な物であるかのように勘違いをするのです。そして、それを手に入れたいと願います。
彼女は、目に見えるしるしを欲したということです。
しかし、それは違ったのです。そのいのちの水とは、イエスご自身のことを指すのです。すなわち、既にそれは彼女の目の前にあるのです。しかし、それを彼女は、この世の物質的な事柄に囚われ、盲目になっているのです。物事の本質を見抜く目を持てずにいるのです。なぜならば、目の前のイエスをただのユダヤ人の一人としか見ていないからです。
しかし、イエスはこの時、この女性にわたしが与える水と仰いました。すなわち、水の源はイエスであるということを教えられたのです。後の7章37節においてそのことがはっきりとイエスの口から語られます。
「37渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人との内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」39イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられ中たので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」
そして、この渇きとは、私たちの罪を現しています。そして、それは同時に救いに与かりたいという霊的な困窮状態をあらわしているように思います。かつてルターがどうしたら私は救われるのかという問いは、自分を深沈させたとき、自分は何時まで経っても罪人でしかないという気づきからでした。
まさにルターは、渇いていた人であったということだと思います。
この渇きは何もルターに限ったことでなく、私たち一人ひとりも渇いているのです。なぜならば、私たちは自分自身で自分を救うことは、絶対にできないからです。私たちのこの渇きを癒すことができるのは、神おひとりなのです。
そのことを私たちは今日覚えていきたいのです。
そして、この水を願う時、イエスは語るのです。「婦人よ、わたしを信じなさい」ここにこの渇きに対する答えがあります。すなわち、信じること、信仰です。しかもそれは、自分自身によるものでなく、イエスを信じた者に与えられるいのちの水でした。
この水は、私たちの霊的な渇きを癒し、神ご自身が働き、私たちに賜ってくださる聖霊です。そして、それはイエスご自身です。ここにあるのは徹底的な神の働きであり、私たちの救いの源なのです。
本日の使徒書に「23しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、24わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。25イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」
と、ある通り、この救いの源は、十字架と復活の出来事から明らかにされているのです。私たちは、このことにのみ委ねて生きていきたいと思うのです。
生きている中で様々なこだわりが心の内にできます。それは男女の壁か、地域性の壁か、仕事の上での壁か、あらゆる姿をとります。このことにわたしたちは、こだわり過ぎて神の出来事の本質を見失っていないでしょうか。
私は何をしてもダメだ。私はもっとできていたのにできなくなってしまったからダメだ。そういうレッテルを貼って壁を作っていないでしょうか。逆に、私はこれだけしているから評価されるべきだ、救われるはずだと高ぶっていないでしょうか。私たちの内には様々な壁によって本質を見抜く目を遮っているものが沢山あるのです。
今日の御ことばは、その遮る物をことごとく超えてこられた方が居るということを語っています。しかもそれは、私たちが何か努力をしたから壁を壊せた、乗り越えられたというのではありません。
イエスご自身がその壁を打ち壊し、乗り越えて来てくださったという恵みです。私たちの側に何かしなければならないのではないのです。神が私のもとに来てくださったという恵みです。
この恵みの出来事を私たちは今日覚えてまいりましょう。そして、その十字架の死と復活の出来事は、死という壁をも越えて永遠のいのちをも示してくださっているということなのです。この神のしるしの出来事を私たちはただただ恵みとして受け止め、そして、そこに委ねていけばよいのです。
このことにわたしたちは信頼して行く、即ち信じて生きればよいのです。そこに神は、こんこんと湧き出るいのちの源を私たちに賜ってくださっています。このことに感謝しつつ、四旬節の時を過ごしてまいりましょう。
「望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように」