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2014年6月28日土曜日

6月29日 聖霊降臨後第2主日の説教

「罪人を招く方」

主日の祈り
力なる神様。生まれながら弱い私たちは、あなたによらないで正しいことを行なうことができません。あなたの戒めを守り、思いと言葉と行ないのすべてで、あなたに仕えることができるように、み力で支えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:ホセア書5章15~6章6節(旧)1409
5:15わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め/苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。6:1 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。2二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。3我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」4エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ。5それゆえ、わたしは彼らを/預言者たちによって切り倒し/わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。6わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。

第二日課:ローマの信徒への手紙5章6~11節(新)279
5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

福音書:マタイによる福音書9章9~13(新)15
9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日私たちに与えられている福音書の日課は、マタイとイエスの出会いの場面です。
このマタイは、このマタイ福音書を記したと伝統的に言われています。すなわち、今日読まれている場面は、マタイにとって人生を180度変えるような衝撃的な出来事であり、出会いだったということです。
では、このマタイを180度変える出来事とは何を意味するのか、何故マタイは、そのようにされたのかということを今日は御ことばから聴いてまいりたいと思うのです。そして、それはマタイだけではなく、私たち一人ひとりにとっても重要な主イエスとの出会いであり、私たちを変える出来事であるということを聞いてまいりたいと思うのです。

さて、この出来事の根源的な事柄は、「私は私です」という事がらと関わってくるように思います。つまり、それは言い変えるならば「私とは何か」「私とは誰か」という問いかけです。
マタイという人の職業は、聖書に記されているように徴税人でした。
この時代、徴税人とは、ユダヤの人々にとって忌むべき存在でした。なぜならば、少し当時の社会情勢によるところがあります。当時は、ローマ帝国とヘロデという二重の支配構造の中にユダヤはありました。いずれにしても、ユダヤの人々は、この二つの支配者に対して決して好意的ではありませんでした。そのような自分たち自身が納得していない支配者のもとで暮さねばならない状況の中、この徴税人と言われている人々は、自分たちにとって同胞の者でありながら、支配者に与して、自分たちに課されている税を取り立て、しかもそれだけにとどまらず、いわゆるその徴収額をピンハネして自分たちは私腹を肥やして、贅沢に暮らしている姿を見ていたのです。自分たちが認めていない支配者に与しながら、他人から搾取をして、贅沢に暮らしている者を誰が尊敬するでしょうか。ですから、徴税人とは、誰からも忌むべき存在として見られていたのです。

そのような中で、マタイというこの徴税人は、自分の仕事に対して多くのわだかまりや、苦悩を思いながらこの仕事に従事していたのではないでしょうか。自分は何者で、何ゆえにこのような仕事をせねばならないのか。このような仕事の為に人々から忌み嫌われ、自分の目の前に税を納めに来る人々の生活や、仕事を目の当たりに苦しむ姿を見つめながらも、自分自身も何者なのかも分からなくなるような状況に居たように思うのです。
すなわち、自分自身大きな迷いや、困惑、苦悩の中に居たということです。

そのような渦中にイエスが彼の目の前に現れたのです。しかも、このイエスの登場は、彼にとっての日常の中に突然として現れたのです。日々いつも座っている往来の中にあるマタイのテーブルの前に、それは言い変えるならば、主婦の方が、日々の家の仕事に追われている中で、漁師が漁の営みの中で、八百屋さんが八百屋で野菜を売っている中でイエスは現れたということです。
つまり、この出来事が語ることは、イエスは特別に設定された時間や場所に現れるのではなく、私たち一人ひとりのただなかにあって私たち一人ひとりのもとに現れるということを意味しているのです。
しかも、それはどちらかと言うならば、自分自身が迷いの中に在ったり、苦しみの中に在るときに現れてくださるのだということを、このマタイとの出会いの記事は表してくださっているように思います。

最初にわたしが問いかけた事がらは、「私は私です」という根源的な事柄と関わってくると申しました。
この時、マタイは、自分は自分であるという時、はっきり言ってしまうならば、神なしの「私は私です」という答えをもって生きていた一人でした。少し複雑になりますが、「自分は自分であり、自分です」ということです。つまり、私という存在を、他者との関係性の中で、私を他者に押し付けて、自分を確立していたということです。これは平たく言うならば自己中心的に生きていたということです。
ですから、この時、マタイは自分以外自分でないという思いの中で生きていたわけです。しかし、それが彼の中で破たんしかけていたのです。日々自分の目の前に来る人々の苦しい暮らし、自分自身このような仕事のゆえに人々から忌み嫌われる日々、自分というものを自分という存在が耐え切れずに、自分という存在が苦しんでいた、自分は何者なのかという人間の根源的な問いの中で、疑いと迷いのるつぼの中に居たのです。

しかし、彼は変えられたのです。何が彼を変えたかというならば「私に従いなさい」というイエスのたったの一言でした。それまで多くの人々との出会い、人々の言葉に出会ってきたマタイでしたが、このたった一言のイエスの御ことばによって変えられたのです。
この時何が行われたのかというならば、イエスがマタイにしたことは「言われた」という動詞に集約されています。そして、この言葉について述べるならば、これはそもそもは「ロゴス」という言葉の動詞形です。そして、この「ロゴス」という言葉は、「言葉」という意味です。この言葉がもっとも象徴的に顕れているのは、ヨハネによる福音書1章のロゴス賛歌と言われている御ことばです。
ですから、この時、ただ単純にマタイにとって何かを言われたという事がら以上に、大変大切な出来事が起こったということです。つまり、彼はこの時、イエスの「従いなさい」という神の御ことばによって変えられたのです。
何の変哲もない一言が彼にとっては、人生の大変重要な転換点であったのです。
この「私に従いなさい」という言葉が、神そのものであり、救いそのものとなったということです。

彼は、この時自分は何者なのか、という問いかけを抱えて生きていました。そして、そのことが自分自身で解決できないほどまでに追いつめられていたのです。
しかし、この時、主の御ことばによって変えられたのです。この出会いによって「私は私であり、私である」という事がらが変えられたのです。それは「私は私なしに私である」ということです。つまり、どういうことかと言うならば「私」という存在は、一度「私」という自我を捨てる、地に置く、お任せする、委ねるということです。それまで固執していた自分の苦しみや、悩み、悲しみ、疑いを「私は」という時に、一度一呼吸、一間の時を置いて、自分ではない何者かへ、即ち神へと委ねるのです。そして、それが「私です」という時、私のもとへ戻ってくるのです。

すなわち、「私は私です」という時、私という存在、どうしようもなく惨めで、悲しく、辛く、苦しい存在をイエス、神、聖霊に委ねるという生き方をこの時マタイは知ったのです。
「従う」ということは、主を先頭にして歩むということです。それはつまり、私たちキリスト者にとって何かというならば十字架を先頭に歩むということです。この十字架無くしてキリストは語り得ません。そして、この十字架とは、イエスが私たち一人ひとりの痛み、苦しみ、惨めさ、悲しみをその身に負ってくださったという出来事の象徴であり、具体的なイエスの働きです。
ですから、この時マタイが至った境地とは、自分自身を主イエスに委ねると同時に、自分自身の抱える思いをイエスの十字架に委ねたということです。自分は他人から税金をむさぼり、私腹を肥やしていた罪人である。忌むべき存在である。自分は神の御前に価値のない人間であるという徹底した自己卑下の中にあった自分自身をそのままに神に差し出せばよいのだということを悟ったのです。

そして、それはイエスに従うことであるというこの一点に集中していくのです。
イエスに集中していくということは、イエスの十字架に集中していくということです。自分自身の罪を見つめ、自分自身に固執するのではなく、恥も、苦しみも、悩みもすべて十字架の御前で告白していく、神に打ち明けていくことなのです。
ですから、もはやこの時マタイは自分自身に固執するのではなく、神によって変えられた自分に生きるのです。自己中心ではなく、神中心、十字架中心にして生きていくのです。
この私を神は目に留めてくださったという喜びと、何をもって自分かということに迷いを抱いていた自分にたったひと言「従いなさい」という御ことばによって、その道を示してくださったのです。

自分は、自分に固執するのではなく、神が、イエスが共に歩んでくださるという新しいスタートをこの時歩み出したのです。この出来事は、私たち一人ひとりにもたらされています。しかもそれは私たち一人ひとりの日常の中で起こります。
私たちの一日に一分一秒に神は働きかけ、「私に従いなさい」「私を先頭に歩みなさい」と御声をかけてくださっています。自分自身で生きるのではなく、「私は、私なしに私である」すなわち「私は、神によってわたしである」という信頼のもとに、あらゆる憂いを抱えねばならない状況にある私たち一人ひとりではありますが、自分自身を委ね尽くして「私」を生きてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。