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2015年1月26日月曜日

1月25日の説教

本日の聖書日課
第一日課:ヨナ書315節、10()1447
1主の言葉が再びヨナに臨んだ。2「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」3ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。4ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」5すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。
10神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

第二日課:コリント信徒への手紙Ⅰ72931 ()308
7:29兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、30泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、31 世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

福音書:マルコによる福音書11420()61
1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18二人はすぐに網を捨てて従った。19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

先週のフィリポとナタナエルがイエスの弟子となった場面に続いて、今週は、ペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネがイエスの弟子となった場面から福音を聴いています。しかし、今日は、その前段に記されているイエスの宣教の始めの出来事から御ことばに聴いていきたいと思います。

さて、この福音書の御ことばを通して、私たちが理解することができる宣教の始めの出来事は、このヨハネが捕えられ、ガリラヤに行かれた時点からイエスの宣教の御業が始まったという事です。
そして、「時は道、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という宣言をもって始められています。

この時、大切なことは、否応なしに神の福音を信じるということが先立つのではないという事です。
先ずイエスが語られたことは、「時が満ちた」ということです。
これは、私たちが経験する時の中でも秒針が時を刻んでいく、経過する時、流れゆく時ではなく、一瞬の決定的な時を示す言葉である「カイロス」という言葉をもって語られています。
すなわち、この宣言をもって神の福音が世界中の人々に告げ知らされているという事なのです。ですから、私たちが神を信じる時、福音を聴く時、悔い改める時、洗礼を受ける時、それらすべての時は、この神の決定的な時によってもたらされているという事です。

この事がらに立ってさらに述べるならば、私たちが悔い改めること、神を信じることは、私たちの決断、決意に寄与しないという事です。それらすべての出来事には、神の介入があり、神ご自身が刻んだ決定的な時が私たち一人ひとりを支配するのです。すなわち、私たちは神から与えられるその時によって、導かれているということです。

そのような事柄を明らかにされてイエスは「悔い改めて福音を信じなさい。」続けます。この決定的な時を通してまず私たちに命じられたことは、悔い改めです。
つまり、何か私の心にとって安心するから、耳触りが良いから福音を信じよう。それで、神が悔い改めを必要としているということではないのです。
まずもって、福音を信じるという事は、「悔い改め」ることから始まるのです。
このことを私たちは、深く今日心の内に留めることが大切なことであると思います。

私たちは、神に救いを見出します。神の平安がこの私を助けてくれたという経験をした方も沢山いると思います。しかしながら、なぜそのような思いを与えられたのかと言うならば、それは神がイエス・キリストをこの世に送って下さり、イエスが福音を宣べ伝え、十字架を負い、復活してくださったからにほかなりません。
そして、我々の中心は、この十字架にあります。このゴルゴだの丘に立てられた十字架にこそ、神の御救いの出来事のすべてが顕されているという事を忘れてはなりません。

そこでこのしるしを通して明らかにされることは、イエスが私たちの罪のために十字架に架けられたという事です。イエスは全く無罪であるにもかかわらず、そのことを厭わずに十字架を負い、ゴルゴだの丘まで担い、十字架に架かってくださったのです。
この神の出来事に照らされる時、私たち一人ひとりが露わにされることは、私は罪人であるという自己洞察です。そのような気づきを与えられて尚、罪人の私にもかかわらず神は、私という存在を罪の代償のゆえに十字架に架けるのではなく、愛する御子イエス・キリストを私の罪の代償として十字架に架けて、私たちの罪を贖ってくださったのです。
この神の愛によって私たちはキリストと一体となり、神の恵みに与る者とされています。

この世における様々な出来事に私たちは出会います。時に困難さや苦しみを味わいます。何故自分がこのような目に合わねばならないのかと思わされることもあります。
しかしながら、この神の愛に照らして考えるならば、イエスご自身も無罪であるにもかかわらず十字架に架かられた矛盾と痛みとを負ってくださったわけですから、この救いの出来事を通して、私たちの抱える思いに対して、ただただ上から恵みを注ぐだけにとどまらず、人間と同じ思いと痛みを負ってくださったという事が明らかになるのです。

すなわち、今日の福音は、イエスの宣教の始めの出来事とであると同時に、イエスの十字架を見つめる時なのです。
そして、そのことから導かれる事は、やはりこの十字架の前に私たちは悔い改めていくという事です。私の罪のために十字架に架かってくださった神の愛を前にして、自分を誇るのでもなく、この世にしがみつくのでもなく、神の愛により頼んでいくほかない弱く乏しい者であるという事を告白していくのです。

このありのままの自分を差し出すことによって、神ご自身ありのままの人間を愛してくださるのです。
だからこそ、イエスご自身罪人と同じように十字架に架かり、私たちと連帯してくださったのです。罪の無い方が罪を負ってくださったという大いなる恵みに私たちは生かされているのです。
このことを忘れ、自分が罪の無い人のように振る舞うならば、イエスの十字架は無価値なものとなります。
私たちは、徹底的に罪人でしかない。だからこそ、悔い改め、自分の正しさ、強さを誇るのではなく、ただ神に帰する信仰をもって歩んでいくのです。

「時は満ち、神の国は近づいた。」とイエスが語られているように、神の国は既に私たちのもとに近づいています。遠い出来事ではなく、実現した救いとして私たちは、この恵みに与っています。
この恵みとは、イエスの十字架に示されている愛によって明かされ、今、私たちの救いのしるしとして今ここに立てられています。
この神の出来事を通して神ご自身が私たちの避けどころとなってくださいます。罪の脅威から、悲しみから、痛みから、思い悩みから解放してくださり、私たち一人ひとりを福音を宣べ伝える者として召し出してくださっているのです。弱く乏しい私たちを豊かな御恵みによって、神の福音を顕かにするという驚くべき働きに参与する力を与えてくださっています。

ですからイエスに従うということがらもこの悔い改めから始まるのです。
イエスの宣言が「悔い改めよ」という御ことばからあるように、私たちは日々この悔い改めによって何事も始まることを覚えてまいりましょう。自分を捨て、神の御恵みに一切を委ね、私たち自身もまた神の救いを告げ知らせる者として、イエスがそうであったように、私たちも罪人ではありますが、罪を赦された罪人として、この世で小さくされ、虐げられている人々、痛みを負い苦しんでいる人々、悩み悲しみの中に在る人々に救いは到来した、あなたの痛みを神ご自身が負ってくださっているという事を力強く宣言して歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※詩編の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00
 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。