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2015年2月5日木曜日

2月1日の説教

主日の祈り
憐れみと慈しみに溢れる神様。あなたは宇宙のすべてをみ光で包み。み子を顕してくださいました。私たちに壊れたところがあれば元通りに、さ迷うときにはあなたの真理を聞かせ、あなたが創られたすべての いのち に、やがてみ子を受け入れるときがきますように。救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:申命記181520()309
18:15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。16このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。17主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。18わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。19彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。20ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」

第二日課:コリント信徒への手紙Ⅰ8113 ()308
8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。2自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。3しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。4そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。5現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、6わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。7しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。8わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。9ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。10知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。11そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。12このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。13それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

福音書:マルコによる福音書12128()62
1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日読まれた福音書において私自身説教を準備するにあたって非常に印象に残る言葉がありました。それは、「驚く」という言葉です。
そこで、この二つの驚くという言葉について調べてみますと、これは二つとも違う言葉を用いて「驚く」という言葉が表現されています。
22節に出てくる「驚く」は、「仰天する」とか「雷に打たれる」という意味における驚きを表現する言葉が使われ、27節における「驚く」は、「ものが言えないほどびっくりする」「驚き其の物」を現す言葉が使われています。
両者において似たような意味に捕えることもできますが、しかしながら、果たしてこの「驚く」という事がらにおいて、同じような思いで会衆はイエスの出来事に居たのでしょうか。

この事がらから語りかけている福音とは何でしょうか。今日は、このことについてご一緒に御ことばに聴いてまいりたいと思います。
さて、イエスが居たのは、カファルナウムと言われているガリラヤ湖畔の町でした。エルサレムから遠く離れた場所です。先々週のナタナエルの物語からも明らかなように、「ガリラヤから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)という言葉にあるようにイスラエルの中でもさほど重要でない地方の町でした。

イスラエルの中心は、なんといってもいつの時代もエルサレムです。エルサレムこそが、宗教的にも、政治的にも中心地です。特に宗教的な見地からするならば、ユダヤ教にとっても、イスラム教にとっても、キリスト教にとっても重要な地として覚えられ続けます。これ以降、エルサレムをめぐって宗教的な争いがあるのは、この故でしょう。

そういった当時のイスラエルの情勢から言っても、このカファルナウムという町は誰からも注目を集めるような場所ではありませんでした。おそらく、そこに居たのは、一般的な人々であり、慎ましく暮らしていたことでしょう。
そのような町へイエスは、弟子たちを従えてやって来たのです。そして、ユダヤ教の律法にあるように、安息日に会堂へと入り、礼拝をしようとしていたのでしょう。

始めに会衆たちが驚いたことは、イエスの教えが、律法学者のようではなく、権威ある者として教えたからでした。この区別が重要であると思います。
と、言いますのも律法学者とは、あくまでも律法に精通した、極端な言い方をすれば物知りです。もともとは、祭司という特権的な階級の人々に対して、一般の信徒が律法を学び、詳しくなっていた人々が集団化し、律法学者となったにすぎません。ですから、そこには、他の一般的な信徒からは、律法のことを知っているのですから尊敬はされるでしょうが、本当の意味での権威はありません。
しかしながら、この時会衆の目に映ったイエスの姿は、そういう物知りと言うレベルを超えて、権威そのものを有している者として映ったのです。

何か自分の知識を武装するために、自分で学んだとか、身に着けたのではなく、完全にその人自身の内からあふれ出る力に圧倒されたということでしょう。
この力を敏感に感じ取った人が居ました。それが汚れた霊に取りつかれている人です。
そして、イエスに向かって「神の聖者だ」とハッキリと言うのです。この時会堂に居た人々は、イエスの権威ある教えについて驚いていました。それはまさに、先に述べたように「仰天する」「雷に打たれる」ほどの衝撃を受けていたにすぎません。ですから、イエスご自身が誰であるかということについてまで、思いが至らなかったのです。

しかしながら、ここで明らかにされたことは、イエスが「神の聖者」であるということです。
人々は、ただただ驚くことしかできなかった、いわばこの人はどのような人であるのか分からなかったにもかかわらず、汚れた霊は、イエスが誰かということを知っていたのです。
人には、まだ分からなかったことが汚れた霊には知られていたのです。しかしながら、イエスは、このことをまだ良しとしませんでした。イエスの権威が明らかにされてなお、この時は、まだ彼が神の子であり、救い主であることを明らかにする時ではなかったのです。
だからこそ、「黙れ、この人から出て行け。」と命じられたのです。

そして、この出来事が二つ目の驚きを会衆たちに与えます。この出来事に際して、人々は「これはいったいどういうことなのだ」と論じ合います。この箇所については、私なりに訳しなおしてみますと、「この新しい権威ある教えは何なのだ?」となります。
あまり意味が変わらないように見えますが、しかしながら、断定と疑問ではかなり意味合いが変わるように思います。すなわち、彼らは、イエスが汚れた霊を追い出したことが、新しい権威であることは間違いないわけですが、先にも述べましたように、それでも尚、会衆たちがイエスの権威がどこから来るものであるのかということが分かっていないのです。

しかしながら、私たちは、この権威が神にあるということを知らされています。
それは、イエスが宣教を始められる前にサタンから誘惑を受けた場面から想定することができます。と、言うのも、この世における権威や力が、サタンと言う者からではなく、神から来るのだということを明らかにしているからです。イエスはこの時、「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』と書いてある。」(ルカ4:8)と語られているように、あらゆる権威や力は神から来るのだということを明らかにしています。

すなわち、イエスに顕されている権威や、力は他の何ものにもよらず、自分で手に入れたのでもなく、神から来るのだということです。
この事がらによって、イエスの様々な教えは、新しい教え、権威として響く神の御心、み旨として私たちに語りかけるのです。
だからこそ、イエスの御ことばはそれまでの、自分の知識や、常識から私たちを解放し、私を造り変え、私を新しくし、それまでの古い生き方を捨て、新しい生き方へ押し出す力となるのです。

よくクリスチャンは、人に優しくするとか、損得を考えないで働くという評価(?)をされますが、それは正しく解釈するならば、それをするのは私ではなく、このイエスの権威、力によって変えられたからに他なりません。
この世の事がらや常識にとらわれるならば、色々と損得を勘定し、働いてしまいます。しかしながら、私たちはもはやイエスの御ことばによって古い自分は、十字架に張り付けられ、死にました。
そして、復活によって新しいいのちに生きる者とされています。

ですから、私たちは、単純にすごい教えだ、見たことも無い力だといって驚くのではないのです。私たちは、私たち自身がイエスによって作り変えられ、新しい復活のいのちに生かされていることに驚きたいのです。
それまでの古い自分にではなく、神によって新しくされている恵みに与っていることの驚きに満たされていることを心から実感していきたいと思うのです。
そして、それが日々の御ことばとの出会いの中で更新され続けているのです。

そして、新しくされた私たちは、御子イエスから与えられるこの恵みを告げ知らせる者として立てられています。イエスご自身この権威を自分の中に留めているのでなく、多くの人々に告げ知らせ、癒し、慰め、励ましてくださったように私たちもまたこの神から与えられている恵みを人々に喜んで分け与える者なのです。
だからこそ、先に述べたような評価になるのでしょう。しかしそれは、まだ本当に神を現したことになりません。ただのいい人です。その先にあるイエスの御姿を顕さなければならないと思うのです。私たち自身が主を顕す者として立てられているのですから、いい人で終わるのでなく、「それはね。イエスがこう語られているから、こうしてくださったから」と証ししていきましょう。

宣教の御業は、クリスチャンは良い人で終わるのではなく、イエスご自身を宣べ伝えることにあります。このことを一人ひとりが心に留め、御ことばが人々の心に行きわたり、すべての人が新しい権威のもとにある恵みを感じられる豊かな歩みとなるように働いてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※詩編の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00

 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。