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2015年10月27日火曜日

10月25日の説教

2015年10月25日 宗教改革記念主日礼拝



「本当の自由とは何か」



主日の祈り
全能の神、恵みの主よ。あなたに忠実な民に聖霊を注いでみことばのうちに堅く保ち、あらゆる誘惑とみことばの敵から防ぎ守り、キリストの教会に救いと平安を与えてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書313134()1237
31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

第二日課:ローマの信徒への手紙31928()277
19さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。20なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24」ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。27では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。28なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

福音書:ヨハネによる福音書83136()182
31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

本日は、宗教改革記念主日という特別な記念日を覚えて礼拝に与っています。この日は、プロテスタントの諸教派にとって、始まりの時として覚えていますし、とりわけ私たちルター派に属する教会にとってはなお一層特別な時として守っています。ルターによる、95か条の提題をきっかけに起こった時代のムーブメントは、当時の世界をすっかり変えるほどに大きな力、うねりとなったのですから、その神学的な再発見は、それほどまでに力を持っていたということです。

再発見と言いましたのは、ルターはこの「信仰によってのみ義とされる」という信仰義認論の根底には、アウグスティヌスという大神学者の神学の柱であった、原罪論という事がらが深く関係していました。アウグスティヌスが明らかにした原罪論は、「人間は罪を犯さないことができない」とか「罪を犯す必然性」といった強い表現が取られていました。
その後の西方教会の歴史では、この原罪論ともう一つの予定論という論が重荷となっていました。しかし、後になって予定論は公会議の場で公に断罪され、原罪論は骨抜きにされました。こうして西方教会は、二本の教理的棘が抜かれた「穏健なアウグスティヌス」が正統的伝統として継承されていったとされています。

そのような中でルターは、アウグスティヌス派の修道会に属していましたから、自ずとアウグスティヌスの神学の研鑽を深めていきましたし、同時に聖書の研究に没頭していったのでした。
そのような中で発見されたのが、「信仰義認論」だったのです。アウグスティヌスの原罪論の根本にはパウロが居ます。そして、ルターはこのアウグスティヌスとパウロの出会いを深い聖書研究の最中に自分自身も経験したのです。そして、骨抜きにされていたアウグスティヌスの原罪論こそが、信仰義認の前提であるということに気がついたのでした。

だからこそ、私たちは礼拝のはじめに罪を神様の御前に告白するのです。「私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いとことばと行ないとによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐れみにより頼みます。」という告白は、まさにアウグスティヌスの原罪論が根底にあります。
そもそも原罪論とは、アダムとイブの堕罪以来、私たちの本性は罪を犯すことしかできないということです。すなわち、私たち人間は、あの創世記の出来事以来、神に対して罪を犯すことしかできない、悪を犯すという選択しかできないという厳しい自己否認が根底にあるのです。

今日与えられているみ言葉には、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とあります。そこで、このルターの主張とイエスのみ言葉を照らし合わせてみますと、そこには越えられない壁、溝が存在することに気づかされます。
それは、私たちは神に対して罪を犯すことしか、悪しか選択できないというのであれば、本当に神のみ言葉、主の真理を知ることはできないということです。そして、それは「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷」であるとあるように、罪とは悪ですから、悪の奴隷状態であるということが言えます。
そこから私たち人間は、本来であれば一歩も脱却できないのです。そうであるならば、そこに横たわるのは、絶望のみでしょう。罪を犯していれば、神の御国に入ることは、決して赦されないのですから、不安と、恐怖と、闇とが広がるばかりです。

しかし、そのような私たちのために主なる神は、イエスをこの世に遣わしてくださったのです。そして、この方が私たちを罪の奴隷という状態から解放してくださったのです。
同じ8章の28節に「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう。」と語られているように、真に赦しと救いがもたらされている神の宣言、神の恵みは十字架を通してのみ知るということを語られています。イエスの十字架の出来事を通して私たちは、主イエスが私たちの罪を贖うために来てくださった、すなわち罪の奴隷状態から解放するために来てくださったということを悟り、信じるようにされているのです。

そして、その十字架から与えられた信仰によって、私たちは義とされていること、救われているということを知るようになり、イエスのみ言葉にとどまることの大いなる恵みを本当に実感として受け取ることができるようになるのです。
そこにあるのは、私たちの行いによるのではなく、ただただ神のみ言葉が、それを可能足らしめるということです。言が肉となってこの世に来られたと語られている方はイエスなのですから、イエスの十字架の贖いは、出来事であると同時に、神のみ言葉の赦しの宣言です。

すなわち、み言葉そのものが、私たちの赦しの見えるしるしとして十字架に表れてくださったのです。これが罪からの解放をしてくださっているのです。この神のみ言葉、すなわちそのしるしである十字架の恵みを信じることによってのみ私たちは、本来であれば罪しか犯すことができない救いのない状態であるにもかかわらず、罪の赦しを得る者とされ、神の救いに与り、神の御国に入る者とされているという無限の恩寵を受ける者とされているのです。

それは、36節に「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」と言われていることが明らかにして下さいます。この事がらを私たち人間の側から見るならば、「もし子が私たちを自由にして下さらなければ、わたしたちは本当に自由になることができない」ということになります。すなわち、この言葉に示されているのは、罪からの解放は、徹底的に主イエスの側にあるということであり、改めて私たちの側にその力も、そのようにすることもできないということを示しているのです。

もし主イエスが十字架にかかって下さらないのであれば、私たちは救われないのです。いつまでも罪に罪を重ね、赦されざる者でしかないのです。ですから神の恵みなしには生きることも、希望もない存在でしかないということを私たちは深く心に刻んでいくべきです。そのような私を神は、救ってくださっているのです。しかも、それは無償でしてくださったのです。このことに対価を必要としないのです。むしろこの私たちが払うべき対価をも神御自身が血を流すことによって贖いの供え物としてなってくださっているのです。救いとは、このように徹底的な神の側からの恵みであり、私たちはひたすらにそれを受けるものでしかないのです。
しかしながら、私たちはこのイエスを罪人の一人とし、十字架に架けて殺したのです。あたかも自分が罪無き者であるかのように振舞い、「殺せ、殺せ」と大声を上げている一人の群衆であり、自分の不都合に蓋をし、黙らせようとした祭司長やファリサイ派の一人なのです。自分が自分によって正しくされていると思い込んでしまうのです。

正しい信仰など、私たちの行いからは与えられません。なぜならば、私たちは悪しか犯せないからです。この人間の前提に立って、私たちはこの日、改めて主から与えられる義によってのみ生かされ、恵み溢れる命に変えられていることを思い起していきましょう。

み言葉を聞くことによって、越えられない溝、壁は取り払われ、希望と平安、自由が与えられています。そうであるならば、私たちは、その先にある恵みの中を歩いていけるように、いつも神のみ言葉に立ち、神のみ言葉のみを信じ、歩んでいきましょう。それは、新しい生き方へと私たちをおしだします。常に自分が罪しか犯すことができない存在であるということを覚え、心から悔い改めていくという生き方です。栄光は、この自己省察、悔い改めの内に示されています。自分の正しさを振りかざすことの中には示されていません。

信仰による義とは、私たちの罪の上に打ち立てられた十字架に示されているのですから、強さの中ではなく、弱さの中に、多くの人間が望む栄光の中にではなく、十字架の痛みの中にこそ、真実があるということを心に留めていきましょう。と、同時にこの真実を神が今語り掛けてくださり、私たち一人ひとりを恵みの人に造り変えてくださっている喜びを抱きながら、希望をもって歩んでまいりましょう。主の義のみが私をこの世のあらゆる誘惑や悪の縄目から解放してくださいます。このことを実現してくださった神にのみより頼んで生きていく喜びを、多くの人に証ししてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

11月1日の礼拝案内

主日の祈り
全能の神様。あなたは、み子イエス・キリストの神秘のからだに、み民を迎え入れ編み込み、一つとしてくださいました。あなたを愛する私たちに、信仰と献身を貫いて生きた聖徒たちと同じように、言い尽くせない喜びに与る恵みをお与えください。あなたと聖霊と共にただ独りの神、とこしえに生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書2569()1098
6万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。7主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし8死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。9その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。

第二日課: ヨハネの黙示録2116a ()477
1わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。2更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。3そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」5すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。6また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。

福音書:ヨハネによる福音書113244()189
32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

本日の讃美歌
はじめの歌60番|みことばの歌488番|感謝の歌534番
聖餐の歌ー番|終わりの歌402番

説教題 「神、共にあり」 竹田大地牧師

諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌(教団讃美歌)は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※イザヤ書の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00
 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。
 ※羽仁もと子についての学びを続けています。


2015年10月24日土曜日

10月25日の礼拝案内

この日は宗教改革記念主日礼拝として守られます。
私たちルーテル教会は、宗教改革の発端となったルターを起源とする伝統的な教会です。
このルターの神学を大切にしながら、498年の時を刻んでまいりました。
聖書のみ言葉に生きる喜びを共に分かち合いたいと思います。どうぞどなたでもお越しください。

また、今月末の10月31日には、日本福音ルーテル下関教会宣教100周年記念式典が開催されます。
こちらもどなたでもお越しください。ご一緒に100年にも及ぶ神様の導きに感謝し、喜び合う時をご一緒いたしましょう。
詳しくは下記の文字をクリックして、リンク先の記念式典情報をご覧ください。


主日の祈り
全能の神、恵みの主よ。あなたに忠実な民に聖霊を注いでみことばのうちに堅く保ち、あらゆる誘惑とみことばの敵から防ぎ守り、キリストの教会に救いと平安を与えてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書313134()1237
31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

第二日課:ローマの信徒への手紙31928()277
19さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。20なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24」ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。27では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。28なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

福音書:ヨハネによる福音書83136()182

31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

本日の讃美歌
はじめの歌247番|みことばの歌282番|感謝の歌267
聖餐の歌206(1,3,5)|終わりの歌380

説教題 「本当の自由とは何か」 竹田大地牧師


諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌(教団讃美歌)は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※イザヤ書の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00
 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。
 ※羽仁もと子についての学びを続けています。



2015年10月14日水曜日

100周年記念式典のご案内

いよいよ今月末の31日に日本福音ルーテル下関教会100周年記念の時を迎えます。
様々な準備が佳境を迎えています。
どうぞご予定にお加えくださり、下関教会へお越しいただければと思います。
ご一緒に神様の御守り、お導きを覚え、喜びの時を分かち合いましょう。



10月11日の説教

説教題「だれが救われるのか」

主日の祈り
全能・永遠の神様。私たちが、過ぎ去った日々にこだわらず、あなたの示す道を進み、終わりの日に、永遠の喜びの冠を授かることができるよう、信仰の賜物を増し加えてください。救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:アモス書5671015()1434
6主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のように/ヨセフの家に襲いかかり/火が燃え盛っても/ベテルのためにその火を消す者はない。7裁きを苦よもぎに変え/正しいことを地に投げ捨てる者よ。
10彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み/真実を語る者を嫌う。11お前たちは弱い者を踏みつけ/彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ/切り石の家を建てても/そこに住むことはできない。見事なぶどう畑を作っても/その酒を飲むことはできない。12お前たちの咎がどれほど多いか/その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り/町の門で貧しい者の訴えを退けている。13それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。14善を求めよ、悪を求めるな/お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように/万軍の神なる主は/お前たちと共にいてくださるだろう。15悪を憎み、善を愛せよ/また、町の門で正義を貫け。あるいは、万軍の神なる主が/ヨセフの残りの者を/憐れんでくださることもあろう。

第二日課:ヘブライ人への手紙41216()405
12というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。13更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
14さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。16だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

福音書:マルコによる福音書101731()81
17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。31しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

本日の福音は、金持ちの男とあるように主イエスと、ある金持ちの男の出会いによってもたらされた福音の出来事です。この青年は、福音の出来事を読む限り、非常にすぐれた人であったように思えます。といいますのは、まずイエスとのやり取りの中で見て取れます。

彼は、イエスのところに走り寄り「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねます。イエスは、その青年の問いに対して十戒を引き合いに出して、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と言っています。十戒を引き合いに出すということは、この教えがどれほどユダヤ人にとって大切な掟であり、「永遠のいのちを受け継ぐ」ということ、すなわち救いについて重要な神の教えであるかを明らかにしています。

そのイエスの答えに対して、この人は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と答えるのです。まず、ここに一つの彼の優れている点を見ることができると思います。おそらく、聖書には記されていませんが、この人は信仰的にも自他ともに認める真剣さと、誠実さをもってこれまで生きてきたのであろうと思います。彼が走り寄ってイエスに近づこうとしたことを弟子たちも咎めようとしませんし、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」という言葉に対して周囲の人々も何の反応を示していないことからも、そういう事がらが推察されます。
ユダヤ人として、主なる神を信じ、律法に記されている神と人との関係の在り方を忠実に守り続けてきたのですから、生半可な信仰ではなく、本当に神に固くたって生きてきたと自負しているのです。

また、財産があるということがこの後で明らかにされますが、財産が多いということは、社会的にも認められている人であろうと思います。あらゆる富は、神の祝福のしるしであり、恵みであると考えられていましたから、この人が富を築いてきたのは、前述の信仰の正しさゆえに、神が与えてくれた恵みであるということと考えられていたのです。ユダヤ人たちは、信仰という事がらが要因となってこの世の繁栄、栄華を表すと考えていました。ですから、この人はよっぽど信仰的に素晴らしい人物であるのだろうと周囲の人から思われていたのだろうと思います。

しかしながら、そのような自他ともに認めるような信仰のすばらしさ、この世における繁栄、栄華を誇っても、彼には満たされない思いがあったのです。「永遠の命を受け継ぐ」すなわち、救いの確信を得られずにいるのです。どんなにか信仰に堅く立ち、主を主として生き、律法に対して、誠実、忠実に生きていても、どうにも永遠の命を得ているという確信が抱けない、そういう迷い、不安を抱えて生きていたのです。
自分としても、他人から見てもおそらく素晴らしい人間性を有し、社会的にも、信仰的にも優れているであろう人ですら、救いの確信を抱くことができないということは、彼にとって最後の謎というような思いがあったのかもしれません。
だからこそ、彼はイエスを「先生」と仰ぎ、あの評判のイエスに聞きさえすれば答えが得られるかもしれないと思ったのでしょう。

イエスは、この出会いによって一瞬でその人の欠けを見抜きます。それは「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」ということでした。
ここに主イエスとこの金持ちとの間に、根本的な考えの相違が存在しているのです。と言うのは、この青年は、救いに欠けている要素は何かということでイエスのもとに来ました。これまでも自分に出来得る限りを尽くし、律法も守ってきた。しかし、何か心に欠けを覚えている。普通、人は何か自分に足らない物があると気づくとき、継ぎ足したり、増やそうとします。彼は、そういう継ぎ足しの人生だったのです。しかし、いくら足したところで魂の平安、充足は与えられませんでした。しかし、一見信仰的に正しく、救いの神髄を知りたいと求めているこの金持ちですが、イエスは、そのような人を見て、彼が何を第一に思っているか、彼の心を捕えているかをご存じだったのです。

それは、彼は信仰とか、救いとかそういうこと以前に、財産こそ、富こそが自分のすべてであったのです。だからこそ、「行って持っている物を売り払い」と唯一彼の救いの確信を妨げている財産の放棄を促し、そして、「わたしに従いなさい」と言われるのです。時として、このみ言葉を読むとき、キリスト者は財産など要らない、清貧を保ち、慎ましくと思う方も居ますが、イエスはこのとき財産、富の存在そのものを否定したのではありません。
このとき否定した事がらは、この金持ちの心を本当に神の方へと向かせ、真理が何であるか、救いの確信が何によってもたらされるかを示すために言われたのです。信仰的にも正しく、社会的にも認められていると思われている彼を見つめ、彼の心が富に囚われてしまっていることを見抜かれたのです。

彼がそのことに気づいていたかは定かではありませんが、彼がこのイエスの言葉を聞いて、「気を落とし、悲しみながら立ち去った」ということは、まさにこのことを証明しています。彼はたくさんの財産を持ち、それを手放すことは、到底かなわない、承服できなかったのです。なぜならば、それこそが自分のアイデンティティであり、神を信仰し、正しくあった故の証しの結果であると考えていたからです。

しかし、それがいつの間にか彼の救いの妨げになっていたのです。それは言うなれば、自分がこれだと信じて、突き進んできた結果の賜物、成果を否定されるということです。私自身も自分を省みてみると、もし自分がしてきたことを否定されたとすれば、しかも自分が信頼を置いて、頼りにしている人ほどそういうことを言われたら、落胆して心に悲しみや、時には憤りすらおぼえることでしょう。

しかし、イエスが示された救いの確信を抱かせる極意、真理はこの世に在ると思い込んでいる拠り所の一切を投げ打って、ただ「わたしに従いなさい」という一点なのです。つまり、本当に拠り所とし、救い、平安、平和に満ちたらせるのは、主イエスご自身にのみあるということを明らかにしているのです。
すなわち自分の中や、自分の持ち物の中に救いがあるのではなく、救いとは主イエスからもたらされる恵みなのです。私たちは、この世の事柄や、自分自身の事柄に囚われてしまいます。しかし、イエスはそうではなく私を見なさい、私のみに従いなさいと言うのです。これこそが救いの確信を得る唯一の方法であると述べているのです。

つい私たちは、充足を得るためには、足し算を考えます。そうしているうちに私たちはいつの間にか、神を仰ぎ見て生きていくためにしているようで、自分の中に、自分の神を創造してしまうのです。そして、それが神の姿を取り、信仰的にも、社会的にも正しくあるように見えて、そうでないことに気づかずに生きてしまうのです。

そうであるならば、私たちはこのみ言葉に触れて自分自身を省みる時、何を自分の中で神としてしまい、救いを妨げてしまっているか深く見つめることこそが大切なことであると思います。富や財産、人物、他の物的な充足管、自分自身、義しいと思い込んでいる信仰の在り方、様々に姿を取って、私たちはそれを神としてしまい、真の神を仰ぎ見ることができなくなってしまっています。それを見つけることの難しさもあるでしょう。

しかしながら、今日主イエスが言われているように、自分の持ち物、得てきたものを投げ打つことできるかと問われたとき、それが能わないと思うならば、それは自分自身がこの金持ちの人であるということです。
本日のヘブライ人への手紙には、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」と記されているように、私たちは、どんなにかこの世的な評価や、権威、力、富で着飾ったとしても、神の目には何も持たざるものでしかないのです。

そして、神はこの何も持たざる私たちに対して深い愛を示してくださっているのも真実です。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」とあるように、この世の事柄に囚われている私たちを主は慈しんでくださいます。この言葉は、ギリシャ語本文から直訳するならば「愛して」となります。すなわち、主イエスは囚われている私たちを愛してくださっているのです。正しいと思い込み、誇っている私たちを戒めるのではなく、愛の眼差しを向けてくださり、諭し、教えてくださっているのです。

このことから示されるのは、罪人に対して、すなわちそれは人間すべてを意味するわけですが、その私たち一人ひとりに、主はなぜ従わないのかという怒りの眼差しではなく、この世のものに囚われ、救いを見出せずに迷う私たちを愛しぬいてくださっているという真実です。この愛ゆえに、イエスは、ご自身何も持たざる者となられ、十字架の上で死んでくださったのです。この世の名声でも、富でもなく、何も持たずにただただ十字架の道を歩み、主なる神にのみ従った姿を示し、そのことにのみ救いがあることをご自身の行いを通しても示してくださっているのです。

私たちはつい、自分の中や、この世の中に救いを求めます。しかし、それらが本当に私たちを満ち足らすことはできないことをみ言葉を通して教えられています。そして、同時に私たち一人ひとりがこの世のものに囚われている真実をも浮き彫りにします。そのような私たちを主は見放し、捨てるのではなく、愛を注いでくださり、本当の救いについて明らかにしてくださっています。この世のものではなく、今日の主日の祈りでも唱えましたように、主の道、すなわち主のみを神として生きる幸いを覚えていきましょう。
主のみを仰ぎ見る信仰が永遠のいのちの喜びを与えてくださいます。欠けることは恐ろしいです。しかしながら、この世の欠けを恐れるのではなく、主なる神が欠けること、主の愛が欠けることこそが本当に恐ろしいことなのですから、あらゆるこの世の事柄から解放され、主の愛に本当の救い、平安を見出すことができますようにとせつに祈り求めながら歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

10月18日の礼拝案内

主日の祈り
宇宙のすべてを支配される神様。あなたの大いなる恵みによって、地上のすべての民を良ききものとされます。私たちをみ国に喜び仕える僕とし、絶えずみ旨だけを願い求める者としてください。救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書53412()1149
4彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。5彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。7苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。8捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。9彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。10病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。11彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。12それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

第二日課:ヘブライ人への手紙5110()405
1大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。2大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。3また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。4また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。5同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。6また、神は他の個所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。7キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。8キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。9そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、10神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。

福音書:マルコによる福音書103545()82

35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

本日の讃美歌
はじめの歌355番|みことばの歌321番|感謝の歌393
聖餐の歌―番|終わりの歌514

説教題 「仕えるために来られた神」 竹田大地牧師

諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌(教団讃美歌)は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※イザヤ書の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00
 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。
 ※羽仁もと子についての学びを続けています。