2015年10月25日 宗教改革記念主日礼拝
「本当の自由とは何か」
主日の祈り
全能の神、恵みの主よ。あなたに忠実な民に聖霊を注いでみことばのうちに堅く保ち、あらゆる誘惑とみことばの敵から防ぎ守り、キリストの教会に救いと平安を与えてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書31章31‐34節(旧)1237頁
31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
第二日課:ローマの信徒への手紙3章19‐28節(新)277頁
19さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。20なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24」ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。27では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。28なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
福音書:ヨハネによる福音書8章31‐36節(新)182頁
31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
本日は、宗教改革記念主日という特別な記念日を覚えて礼拝に与っています。この日は、プロテスタントの諸教派にとって、始まりの時として覚えていますし、とりわけ私たちルター派に属する教会にとってはなお一層特別な時として守っています。ルターによる、95か条の提題をきっかけに起こった時代のムーブメントは、当時の世界をすっかり変えるほどに大きな力、うねりとなったのですから、その神学的な再発見は、それほどまでに力を持っていたということです。
再発見と言いましたのは、ルターはこの「信仰によってのみ義とされる」という信仰義認論の根底には、アウグスティヌスという大神学者の神学の柱であった、原罪論という事がらが深く関係していました。アウグスティヌスが明らかにした原罪論は、「人間は罪を犯さないことができない」とか「罪を犯す必然性」といった強い表現が取られていました。
その後の西方教会の歴史では、この原罪論ともう一つの予定論という論が重荷となっていました。しかし、後になって予定論は公会議の場で公に断罪され、原罪論は骨抜きにされました。こうして西方教会は、二本の教理的棘が抜かれた「穏健なアウグスティヌス」が正統的伝統として継承されていったとされています。
そのような中でルターは、アウグスティヌス派の修道会に属していましたから、自ずとアウグスティヌスの神学の研鑽を深めていきましたし、同時に聖書の研究に没頭していったのでした。
そのような中で発見されたのが、「信仰義認論」だったのです。アウグスティヌスの原罪論の根本にはパウロが居ます。そして、ルターはこのアウグスティヌスとパウロの出会いを深い聖書研究の最中に自分自身も経験したのです。そして、骨抜きにされていたアウグスティヌスの原罪論こそが、信仰義認の前提であるということに気がついたのでした。
だからこそ、私たちは礼拝のはじめに罪を神様の御前に告白するのです。「私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いとことばと行ないとによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐れみにより頼みます。」という告白は、まさにアウグスティヌスの原罪論が根底にあります。
そもそも原罪論とは、アダムとイブの堕罪以来、私たちの本性は罪を犯すことしかできないということです。すなわち、私たち人間は、あの創世記の出来事以来、神に対して罪を犯すことしかできない、悪を犯すという選択しかできないという厳しい自己否認が根底にあるのです。
今日与えられているみ言葉には、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とあります。そこで、このルターの主張とイエスのみ言葉を照らし合わせてみますと、そこには越えられない壁、溝が存在することに気づかされます。
それは、私たちは神に対して罪を犯すことしか、悪しか選択できないというのであれば、本当に神のみ言葉、主の真理を知ることはできないということです。そして、それは「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷」であるとあるように、罪とは悪ですから、悪の奴隷状態であるということが言えます。
そこから私たち人間は、本来であれば一歩も脱却できないのです。そうであるならば、そこに横たわるのは、絶望のみでしょう。罪を犯していれば、神の御国に入ることは、決して赦されないのですから、不安と、恐怖と、闇とが広がるばかりです。
しかし、そのような私たちのために主なる神は、イエスをこの世に遣わしてくださったのです。そして、この方が私たちを罪の奴隷という状態から解放してくださったのです。
同じ8章の28節に「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう。」と語られているように、真に赦しと救いがもたらされている神の宣言、神の恵みは十字架を通してのみ知るということを語られています。イエスの十字架の出来事を通して私たちは、主イエスが私たちの罪を贖うために来てくださった、すなわち罪の奴隷状態から解放するために来てくださったということを悟り、信じるようにされているのです。
そして、その十字架から与えられた信仰によって、私たちは義とされていること、救われているということを知るようになり、イエスのみ言葉にとどまることの大いなる恵みを本当に実感として受け取ることができるようになるのです。
そこにあるのは、私たちの行いによるのではなく、ただただ神のみ言葉が、それを可能足らしめるということです。言が肉となってこの世に来られたと語られている方はイエスなのですから、イエスの十字架の贖いは、出来事であると同時に、神のみ言葉の赦しの宣言です。
すなわち、み言葉そのものが、私たちの赦しの見えるしるしとして十字架に表れてくださったのです。これが罪からの解放をしてくださっているのです。この神のみ言葉、すなわちそのしるしである十字架の恵みを信じることによってのみ私たちは、本来であれば罪しか犯すことができない救いのない状態であるにもかかわらず、罪の赦しを得る者とされ、神の救いに与り、神の御国に入る者とされているという無限の恩寵を受ける者とされているのです。
それは、36節に「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」と言われていることが明らかにして下さいます。この事がらを私たち人間の側から見るならば、「もし子が私たちを自由にして下さらなければ、わたしたちは本当に自由になることができない」ということになります。すなわち、この言葉に示されているのは、罪からの解放は、徹底的に主イエスの側にあるということであり、改めて私たちの側にその力も、そのようにすることもできないということを示しているのです。
もし主イエスが十字架にかかって下さらないのであれば、私たちは救われないのです。いつまでも罪に罪を重ね、赦されざる者でしかないのです。ですから神の恵みなしには生きることも、希望もない存在でしかないということを私たちは深く心に刻んでいくべきです。そのような私を神は、救ってくださっているのです。しかも、それは無償でしてくださったのです。このことに対価を必要としないのです。むしろこの私たちが払うべき対価をも神御自身が血を流すことによって贖いの供え物としてなってくださっているのです。救いとは、このように徹底的な神の側からの恵みであり、私たちはひたすらにそれを受けるものでしかないのです。
しかしながら、私たちはこのイエスを罪人の一人とし、十字架に架けて殺したのです。あたかも自分が罪無き者であるかのように振舞い、「殺せ、殺せ」と大声を上げている一人の群衆であり、自分の不都合に蓋をし、黙らせようとした祭司長やファリサイ派の一人なのです。自分が自分によって正しくされていると思い込んでしまうのです。
正しい信仰など、私たちの行いからは与えられません。なぜならば、私たちは悪しか犯せないからです。この人間の前提に立って、私たちはこの日、改めて主から与えられる義によってのみ生かされ、恵み溢れる命に変えられていることを思い起していきましょう。
み言葉を聞くことによって、越えられない溝、壁は取り払われ、希望と平安、自由が与えられています。そうであるならば、私たちは、その先にある恵みの中を歩いていけるように、いつも神のみ言葉に立ち、神のみ言葉のみを信じ、歩んでいきましょう。それは、新しい生き方へと私たちをおしだします。常に自分が罪しか犯すことができない存在であるということを覚え、心から悔い改めていくという生き方です。栄光は、この自己省察、悔い改めの内に示されています。自分の正しさを振りかざすことの中には示されていません。
信仰による義とは、私たちの罪の上に打ち立てられた十字架に示されているのですから、強さの中ではなく、弱さの中に、多くの人間が望む栄光の中にではなく、十字架の痛みの中にこそ、真実があるということを心に留めていきましょう。と、同時にこの真実を神が今語り掛けてくださり、私たち一人ひとりを恵みの人に造り変えてくださっている喜びを抱きながら、希望をもって歩んでまいりましょう。主の義のみが私をこの世のあらゆる誘惑や悪の縄目から解放してくださいます。このことを実現してくださった神にのみより頼んで生きていく喜びを、多くの人に証ししてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。