説教題「だれが救われるのか」
主日の祈り
全能・永遠の神様。私たちが、過ぎ去った日々にこだわらず、あなたの示す道を進み、終わりの日に、永遠の喜びの冠を授かることができるよう、信仰の賜物を増し加えてください。救い主、イエス・キリストによって祈ります。アーメン
本日の聖書日課
第一日課:アモス書5章6‐7、10‐15節(旧)1434頁
6主を求めよ、そして生きよ。さもないと主は火のように/ヨセフの家に襲いかかり/火が燃え盛っても/ベテルのためにその火を消す者はない。7裁きを苦よもぎに変え/正しいことを地に投げ捨てる者よ。
10彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み/真実を語る者を嫌う。11お前たちは弱い者を踏みつけ/彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ/切り石の家を建てても/そこに住むことはできない。見事なぶどう畑を作っても/その酒を飲むことはできない。12お前たちの咎がどれほど多いか/その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り/町の門で貧しい者の訴えを退けている。13それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。14善を求めよ、悪を求めるな/お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように/万軍の神なる主は/お前たちと共にいてくださるだろう。15悪を憎み、善を愛せよ/また、町の門で正義を貫け。あるいは、万軍の神なる主が/ヨセフの残りの者を/憐れんでくださることもあろう。
第二日課:ヘブライ人への手紙4章12‐16節(新)405頁
12というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。13更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
14さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。16だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
福音書:マルコによる福音書10章17‐31節(新)81頁
17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。31しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
本日の福音は、金持ちの男とあるように主イエスと、ある金持ちの男の出会いによってもたらされた福音の出来事です。この青年は、福音の出来事を読む限り、非常にすぐれた人であったように思えます。といいますのは、まずイエスとのやり取りの中で見て取れます。
彼は、イエスのところに走り寄り「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねます。イエスは、その青年の問いに対して十戒を引き合いに出して、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と言っています。十戒を引き合いに出すということは、この教えがどれほどユダヤ人にとって大切な掟であり、「永遠のいのちを受け継ぐ」ということ、すなわち救いについて重要な神の教えであるかを明らかにしています。
そのイエスの答えに対して、この人は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と答えるのです。まず、ここに一つの彼の優れている点を見ることができると思います。おそらく、聖書には記されていませんが、この人は信仰的にも自他ともに認める真剣さと、誠実さをもってこれまで生きてきたのであろうと思います。彼が走り寄ってイエスに近づこうとしたことを弟子たちも咎めようとしませんし、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」という言葉に対して周囲の人々も何の反応を示していないことからも、そういう事がらが推察されます。
ユダヤ人として、主なる神を信じ、律法に記されている神と人との関係の在り方を忠実に守り続けてきたのですから、生半可な信仰ではなく、本当に神に固くたって生きてきたと自負しているのです。
また、財産があるということがこの後で明らかにされますが、財産が多いということは、社会的にも認められている人であろうと思います。あらゆる富は、神の祝福のしるしであり、恵みであると考えられていましたから、この人が富を築いてきたのは、前述の信仰の正しさゆえに、神が与えてくれた恵みであるということと考えられていたのです。ユダヤ人たちは、信仰という事がらが要因となってこの世の繁栄、栄華を表すと考えていました。ですから、この人はよっぽど信仰的に素晴らしい人物であるのだろうと周囲の人から思われていたのだろうと思います。
しかしながら、そのような自他ともに認めるような信仰のすばらしさ、この世における繁栄、栄華を誇っても、彼には満たされない思いがあったのです。「永遠の命を受け継ぐ」すなわち、救いの確信を得られずにいるのです。どんなにか信仰に堅く立ち、主を主として生き、律法に対して、誠実、忠実に生きていても、どうにも永遠の命を得ているという確信が抱けない、そういう迷い、不安を抱えて生きていたのです。
自分としても、他人から見てもおそらく素晴らしい人間性を有し、社会的にも、信仰的にも優れているであろう人ですら、救いの確信を抱くことができないということは、彼にとって最後の謎というような思いがあったのかもしれません。
だからこそ、彼はイエスを「先生」と仰ぎ、あの評判のイエスに聞きさえすれば答えが得られるかもしれないと思ったのでしょう。
イエスは、この出会いによって一瞬でその人の欠けを見抜きます。それは「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」ということでした。
ここに主イエスとこの金持ちとの間に、根本的な考えの相違が存在しているのです。と言うのは、この青年は、救いに欠けている要素は何かということでイエスのもとに来ました。これまでも自分に出来得る限りを尽くし、律法も守ってきた。しかし、何か心に欠けを覚えている。普通、人は何か自分に足らない物があると気づくとき、継ぎ足したり、増やそうとします。彼は、そういう継ぎ足しの人生だったのです。しかし、いくら足したところで魂の平安、充足は与えられませんでした。しかし、一見信仰的に正しく、救いの神髄を知りたいと求めているこの金持ちですが、イエスは、そのような人を見て、彼が何を第一に思っているか、彼の心を捕えているかをご存じだったのです。
それは、彼は信仰とか、救いとかそういうこと以前に、財産こそ、富こそが自分のすべてであったのです。だからこそ、「行って持っている物を売り払い」と唯一彼の救いの確信を妨げている財産の放棄を促し、そして、「わたしに従いなさい」と言われるのです。時として、このみ言葉を読むとき、キリスト者は財産など要らない、清貧を保ち、慎ましくと思う方も居ますが、イエスはこのとき財産、富の存在そのものを否定したのではありません。
このとき否定した事がらは、この金持ちの心を本当に神の方へと向かせ、真理が何であるか、救いの確信が何によってもたらされるかを示すために言われたのです。信仰的にも正しく、社会的にも認められていると思われている彼を見つめ、彼の心が富に囚われてしまっていることを見抜かれたのです。
彼がそのことに気づいていたかは定かではありませんが、彼がこのイエスの言葉を聞いて、「気を落とし、悲しみながら立ち去った」ということは、まさにこのことを証明しています。彼はたくさんの財産を持ち、それを手放すことは、到底かなわない、承服できなかったのです。なぜならば、それこそが自分のアイデンティティであり、神を信仰し、正しくあった故の証しの結果であると考えていたからです。
しかし、それがいつの間にか彼の救いの妨げになっていたのです。それは言うなれば、自分がこれだと信じて、突き進んできた結果の賜物、成果を否定されるということです。私自身も自分を省みてみると、もし自分がしてきたことを否定されたとすれば、しかも自分が信頼を置いて、頼りにしている人ほどそういうことを言われたら、落胆して心に悲しみや、時には憤りすらおぼえることでしょう。
しかし、イエスが示された救いの確信を抱かせる極意、真理はこの世に在ると思い込んでいる拠り所の一切を投げ打って、ただ「わたしに従いなさい」という一点なのです。つまり、本当に拠り所とし、救い、平安、平和に満ちたらせるのは、主イエスご自身にのみあるということを明らかにしているのです。
すなわち自分の中や、自分の持ち物の中に救いがあるのではなく、救いとは主イエスからもたらされる恵みなのです。私たちは、この世の事柄や、自分自身の事柄に囚われてしまいます。しかし、イエスはそうではなく私を見なさい、私のみに従いなさいと言うのです。これこそが救いの確信を得る唯一の方法であると述べているのです。
つい私たちは、充足を得るためには、足し算を考えます。そうしているうちに私たちはいつの間にか、神を仰ぎ見て生きていくためにしているようで、自分の中に、自分の神を創造してしまうのです。そして、それが神の姿を取り、信仰的にも、社会的にも正しくあるように見えて、そうでないことに気づかずに生きてしまうのです。
そうであるならば、私たちはこのみ言葉に触れて自分自身を省みる時、何を自分の中で神としてしまい、救いを妨げてしまっているか深く見つめることこそが大切なことであると思います。富や財産、人物、他の物的な充足管、自分自身、義しいと思い込んでいる信仰の在り方、様々に姿を取って、私たちはそれを神としてしまい、真の神を仰ぎ見ることができなくなってしまっています。それを見つけることの難しさもあるでしょう。
しかしながら、今日主イエスが言われているように、自分の持ち物、得てきたものを投げ打つことできるかと問われたとき、それが能わないと思うならば、それは自分自身がこの金持ちの人であるということです。
本日のヘブライ人への手紙には、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」と記されているように、私たちは、どんなにかこの世的な評価や、権威、力、富で着飾ったとしても、神の目には何も持たざるものでしかないのです。
そして、神はこの何も持たざる私たちに対して深い愛を示してくださっているのも真実です。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」とあるように、この世の事柄に囚われている私たちを主は慈しんでくださいます。この言葉は、ギリシャ語本文から直訳するならば「愛して」となります。すなわち、主イエスは囚われている私たちを愛してくださっているのです。正しいと思い込み、誇っている私たちを戒めるのではなく、愛の眼差しを向けてくださり、諭し、教えてくださっているのです。
このことから示されるのは、罪人に対して、すなわちそれは人間すべてを意味するわけですが、その私たち一人ひとりに、主はなぜ従わないのかという怒りの眼差しではなく、この世のものに囚われ、救いを見出せずに迷う私たちを愛しぬいてくださっているという真実です。この愛ゆえに、イエスは、ご自身何も持たざる者となられ、十字架の上で死んでくださったのです。この世の名声でも、富でもなく、何も持たずにただただ十字架の道を歩み、主なる神にのみ従った姿を示し、そのことにのみ救いがあることをご自身の行いを通しても示してくださっているのです。
私たちはつい、自分の中や、この世の中に救いを求めます。しかし、それらが本当に私たちを満ち足らすことはできないことをみ言葉を通して教えられています。そして、同時に私たち一人ひとりがこの世のものに囚われている真実をも浮き彫りにします。そのような私たちを主は見放し、捨てるのではなく、愛を注いでくださり、本当の救いについて明らかにしてくださっています。この世のものではなく、今日の主日の祈りでも唱えましたように、主の道、すなわち主のみを神として生きる幸いを覚えていきましょう。
主のみを仰ぎ見る信仰が永遠のいのちの喜びを与えてくださいます。欠けることは恐ろしいです。しかしながら、この世の欠けを恐れるのではなく、主なる神が欠けること、主の愛が欠けることこそが本当に恐ろしいことなのですから、あらゆるこの世の事柄から解放され、主の愛に本当の救い、平安を見出すことができますようにとせつに祈り求めながら歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。