主日の祈り
永遠の裁き主なる神さま、あなたは正義を愛し、抑圧を憎まれます。あなたは真理を熱く願い、それを伝えるためにわたしたちを召し出されます。あなたの僕や預言者たちに倣い、わたしたちの信仰の先駆者であり完成者であるイエス・キリストを見上げつつ、この世の争いと欲の犠牲者たちの側に立つ勇気をお与えください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
詩編唱 詩編82編
1【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。
2「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
3弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
4弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
5彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
6わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。
7しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。
8神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。
本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書23章23‐29節(旧)1221頁
23わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。24誰かが隠れ場に身を隠したなら/わたしは彼を見つけられないと言うのかと/主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと/主は言われる。25わたしは、わが名によって偽りを預言する預言者たちが、「わたしは夢を見た、夢を見た」と言うのを聞いた。26いつまで、彼らはこうなのか。偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、27互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。彼らの父祖たちがバアルのゆえにわたしの名を忘れたように。28夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと/主は言われる。29このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。
第二日課:ヘブライ人への手紙11章29‐12章2節(新)416頁
11:29信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。30信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。31信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。32これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。33信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、34燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。35女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。36また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。37彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、38荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。39ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。40神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
12:1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
福音書:ルカによる福音書12章49‐56節(新)133頁
12:49「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。53父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」54イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。55また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。56偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
今日示されている福音は、一読しただけではこれが福音なのかと思わされるようなみ言葉が与えられています。聖書には「分裂をもたらす」とありますから、神はそのようなことをなさるのかと思わされるからです。また、そこには家族の対立すら記されていますから、非常にセンセーショナルなみ言葉であるということが言えるかもしれません。しかしながら、ルカはこれが福音であるからこそ記しているのですから、今日与えられたこのみ言葉には、間違いなく神の救いがあるのです。ですから、今日このとき、ご一緒に神の救いがどのように示されているのか、しばしみ言葉に耳を傾けてまいりましょう。
さて、これが福音であるとは言え、しかしながら、「火を投ずるため」に主イエスが来られたということは、それは戦いを意味していると言えます。それはいわゆる戦争という事柄ではありません。結論から言うならば、あらゆるこの世に現れている破れとの戦いです。
主イエスご自身、この世の破れと戦われた方でありました。ユダヤ社会の中で偏見と、間違った律法の解釈、神のみ言葉が人の思いによって捻じ曲げられている現実、差別など様々な事がらと戦われた様が福音書のそこかしこに記されています。すなわち、この戦いは、実際の戦争とかそういう戦いではなく、神の真の平和と私たちの社会、世界における破れとの戦いであるということです。
この事は、今日与えられている詩編唱がよくそのことを現しています。今日のために与えられている詩編は詩編82編です。その一節にはこのように記されています。
82:2「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
82:3弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
82:4弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
まさにこの世の不正、この世の破れ、この世に生きる中で本来の姿を壊されている人々に対し、私たちが無頓着で、無関心であるさまが描かれています。今、この世に、自分が置かれている状況の中に、そのような方がいるかどうか、目を向けなさいという神の御声が響いているのです。
イエスは、その公生涯において徹底的にご自身の置かれた状況の中でそのような破れと出会ったとき、世の常識や、世の権威に頼るのではなく、むしろそれこそが神の平和と最もかけ離れた状態であると認識し、戦われたのでした。それは革命を起こそうとか、現行勢力を圧倒しようとか武力による戦いではありませんでした。それは信仰における戦いでした。
神のみ言葉、神のみ旨に真に聴いていくとき、おのずと私たちの生きる世の中における破れに気づかされるのではないでしょうか。そして、同時にその破れの多さに気づかされます。
一概に良い、悪いとは言えることばかりではありません。私たちが生きる日本という社会の中を見渡してみるならば、まことにその破れの多いことと思わされます。一見するならば、私たちの社会は平和であるように思えます。しかしながら、安全保障の問題、経済の問題、家庭の問題、教育の問題など挙げればキリがないほどに平和ではない状態がそこかしこに存在するのです。
先週は、広島、長崎の原爆の日、また今週は終戦の日を迎えます。過去のこの出来事からしても、私たちは、そのことによる破れが今も継続していることを思わされます。昨年の長崎原爆の日に行われた平和祈念式典で被爆者代表として平和宣言をされた谷口稜曄(すみてる)さんの言葉は、まさに被爆者として立たされた自分と社会の中にある破れとの戦いを示しています。その一文を読ませていただきます。
「核兵器は残虐で人道に反する兵器です。廃絶すべきだということが、世界の圧倒的な声になっています。私はこの70年の間に倒れた多くの仲間の遺志を引き継ぎ、戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の一人として、その実相を世界中に語り続けることを、平和を願うすべての皆さんの前で心から誓います。」という平和宣言をされました。
まさに谷口さんは70年以上もの間、ご自身の置かれた立場の中で気づかされた破れと戦い続けているのです。
このようにして、イエスが「わたしが来たのは、地上に火を投ずるため」と言うのは、このような自分の置かれている社会においてそこかしこにある破れとの戦いであると言えます。世の常識に流されて生きていくならば、何も感じずに生きることも可能でしょう。これが当たり前と思っているほうがよっぽど楽です。しかしながら、その常識によって苦しんでいる人がいるのです。悩みの中にある人がたくさんいるのです。
権威という衣を着て、大手をふるって弱者を虐げている人々がいます。ヘイトスピーチや、SNSにおける炎上という事がらもそのようなことの一つと言えるでしょう。私たちの国は一見すると豊かに見えるからなおのこと私たちは、この破れに対して漫然と生きて、見過ごしてはならないのです。
イエスがそうであったように、私たちもまた今、この世の中で、社会で、世界で生きる者として、主が与えたもうた「火」を見つめ、お一人おひとりが与えられた戦いをしなければならないのです。
ルターは、信仰義認という恵みに気づかされました。その中で行為によって救われる、献金の有無によって、贖宥状、いわゆる免罪符を買えば救われるという事がらと戦いました。それは主のみ言葉、み旨に真に聴いていったルターが、与えられた「火」でした。
それはあくまでも「火」なのですから、敵対は生まれることでしょう。それは今日の51節の事がらそのものです。しかし、それは神の真の平和における戦いです。そして、この戦いにイエスは、剣、槍という武器ではなく、十字架というこの世で最も惨めで、弱いと思えるような仕方で平和をもたらしてくださいました。
私たちは、この悲惨さ、弱さの中にある神の栄光、神の救いという武器によってこの世の破れと戦うのです。武器を取るのではなく、信仰をもって戦い抜くのです。それがたとえ世の人々から見るならば、惨めで弱々しくても、綿たちに与えられている十字架がそうであるように、その弱さ、惨めさこそが最も強く、もっとも破れの中にある方々にとっての救いとなるのだということを信じ歩んでまいりましょう。
主が投じられた火は、たくさんこの世にあることに気が付きます。しかし、それを全て負うことは叶いません。しかし、だからといってあきらめるのではなく、お一人おひとりが置かれた場所で、イエスが投じられた火を見つけ、戦っていくこと、しかもそれは神のみ旨に聴く、神のみ言葉に聴く、信仰による戦いであるということを今日示されたのです。お一人おひとりがこの戦いを戦い抜くことができるように、神が共に在って、力づけてくださいますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。