一緒に楽園に居る
主日の祈り
まことの命である神さま、あなたはあなたに仕える自由と、尽きぬ喜びを私たちに与えてくださいます。あなたを崇め、たたえ、大いなる栄光に感謝します。たえずいつもわたしたちと共にいて、守り治め、この世を御心にかなう素晴らしい住まいとしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩編46編
1【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】
2神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
3わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも
4海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ
5大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。
6神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
7すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
8万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
9主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
10地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
11「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
12万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書23章1-6節(旧)1218頁
23:1「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。2それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。3「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。4彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。5見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。6彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
第二日課:コロサイの信徒への手紙1章11-20節(新)368頁
1:11そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、12光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。13御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。14わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
福音書:ルカによる福音書23章33-43節(新)158頁
23:33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
今日は、教会暦の最後の主日を迎えています。主の降誕を待ち望む時から、クリスマス、レント、イースター、ペンテコステと続き、長い聖霊降臨後の期間を私たちは過ごしてきました。
先週にも申しましたように、この時と言うのは、いわゆる終わりの時という事がらについてみ言葉から聴いているわけですが、私たちが昨年から守っているRCLという新しい聖書日課には、今週の主日に対して最終主日とありますが、さらに「王なるキリスト」もしくは「キリストの支配」という名が冠されています。
つまり、この主日において明確な主題があるのです。それは「王なるキリスト」「キリストの支配」とあるように、主イエスの再臨の時に関するメッセージであり、まさにそれは「神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」(ヨハネの黙示録22:5)と記されているように、世の終わりに訪れる、新しいエルサレムの完成の時のことを顕しているのです。
そのような時にあって、与えられているみ言葉は、主イエスが群衆の前で十字架に磔にされ、二人の罪人(ざいにん)と共に在る時のやり取りです。この与えられているみ言葉から、その終わりの時の恵みについてご一緒に暫しの間み言葉に聴いてまいりましょう。
さて、私たちにとっての希望とは何かと単刀直入に申し上げるならば、永遠の命の約束が神と人との間に交わされているということです。では、永遠の命とは何でしょうか。不老不死でしょうか。そうではありません。永遠の命とは、神によって罪人である私が救われているという確信を得ることです。
しかも、この確信は、私によって獲得し、成されたのではなく、主である神ご自身が成し遂げてくださったということです。この神の私たち一人ひとりに対する奉仕が救いをもたらしてくださったのです。
そして、その奉仕のしるしが主イエスの十字架なのです。十字架を通して、私たちの罪が贖われ、神と人との間に和解が成立したのです。ですから、私たちは、主に命を委ねていくのです。それは、自分自身を棚上げにしていくということではありません。自分自身の内にある罪と真正面から向き合わなければなりません。神のみ前において私は何も正しくない存在でしかないという「罪」に対する深い認識です。十字架に磔にされている、一人の罪人と同じように、「我々は、自分のやったことの報いを受け」るべき存在であるという自覚です。この自覚無しに主の贖い、罪の赦しの恵みは、獲得しえないのです。
しかし、そのような私にしも関わらず、主イエスは、「この方は何も悪いことをしていない。」にもかかわらず十字架を背負い、磔にされ、命を投げ打ってくださいました。それは、私たち人間を救うという神の意志であり、そこにあるのは、侮辱され、鞭打たれるという、心身に大きな傷をきたす痛みでありながら、それを乗り越え、打ち破る愛によって成し遂げてくださったのです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ福音書15:13)と主イエスが語られているように、主は、罪人である私たちの友となり、私たちに対する無償の愛を示してくださっているのです。
罪人である私を主は、友としてくださったということだけでも、大きな救いであるにもかかわらず、そればかりか、ご自身の命を通して、私たちの贖いの生け贄となってくださり、和解を成立してくださったのです。この事実に私たちは委ねるばかりなのです。私たちは、罪人にすぎません。しかも、私たちは罪に囚われている者でしかないのですから、私たちの本質は、罪しか選択できないのです。善を成すことができなくなってしまっているのです。にもかかわらず、神は、この十字架の和解を通して、罪人でありながら、義人としてくださり、主の御救いに与り、世の完成の時に御国に在る者としてくださっているのです。
ですから、この十字架の時「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」という一人の罪人の告白は、私たちの告白なのです。私には何も成すことができない。救いは、罪人の私によっては、もたらすことも、叶えることもできない。そうであるならば、ただ主イエスに、自分自身の命を委ねるしかない、命を委ねるということは、自分の存在を全て主に委ねるということです。
日々の営みの中で物質的にも、精神的にもあらゆる事がらについて、何かを得るにしても、失うにしても、そこに主の御心がある。主の御心が在るということは、私たちは主とのつながりの中で生きているのだから、心を平安にして生きていけばよいと言われているのと同様なのです。
私たちの世を見回してみますと、いかに自立し、一人の人間として成熟していかなければならないかということが問われているように思います。もちろん、それは大切なことです。しかし、それを私が成し得なければならないと考え、そのことに囚われていくと、成し得ないとき、自分自身を許せなくなり、そればかりか、こうなってしまったのは周りが悪いのだと、周囲の人々、環境すら許せなくなってしまいます。
しかし、主によって和解され、救いの確信を与えられていくとき、許しが生じます。自分自身は足らざる者であるけれども、主が満たしてくださっている。あらゆる事がらに欠けがあるかもしれないけれども、主は世を愛してくださっている。委ねるということは、自分が無くなることではありません。むしろ、ますます世にあって、立つ力を与えてくださる源である方を知り、弱くとも強く、みすぼらしくとも、輝き、蔑まれていても、栄誉を受けている者とされるのです。それは、この世的な強さ、光、栄誉ではありません。永遠の御国、主イエスが支配される新しいエルサレムに住まう者とされていることによる喜び、恵みです。
詩編46編に「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」(11節)というみ言葉があります。私たちは、力を獲得することが正義だというふうに考えます。しかし、古の詩編作者は、神から「力を捨てよ」と命じられ、「知れ/わたしは神」という言葉を聴きました。神を知るということは、神との繋がりの中に生きているということに気づくことです。今日、私たちは、主イエスの十字架の死と復活にすべてを委ねていけばよいことを教えられました。それは、この死と復活によって救い出され、神の愛による繋がりの中に生きていることを知らされたからにほかなりません。
主を知る恵みを与えられています。主と繋がり、永遠の命の約束の中に在る私を見出します。終わりの時に在って、尚、私たちは世で生きていくにあたって、今一度この神と繋がり、神と和解され、永遠の御国に生きる希望をもって歩んでいる喜びを思いながら、今週一週間を過ごし、その希望が到来する時を待ち望む、待降節、新しい一年の始まりに備えてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。