HP移転のお知らせ

この度HPを移転いたしました。 https://tmktmck.wixsite.com/luthershimonoseki/ こちらからお入りください。

2014年4月3日木曜日

3月30日 四旬節第4主日の説教

「今は見える」


主日の祈り
恵み溢れる神様。癒しと赦しのみ力によって、私たちをすべての罪から清め、強くしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書4214-21()1129
42:14わたしは決して声を立てず/黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のようにあえぎ/激しく息を吸い、また息を吐く。15わたしは山も丘も廃虚とし、草をすべて枯らす。大河を島に変え、湖を干す。16目の見えない人を導いて知らない道を行かせ/通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え/曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ/見捨てることはない。17偶像に依り頼む者/鋳た像に向かって/あなたたちがわたしたちの神、と言う者は/甚だしく恥を受けて退く。18耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。19わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。20多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。21主は御自分の正しさゆえに/教えを偉大なものとし、輝かすことを喜ばれる。

第二日課エフェソの信徒への手紙58-14()357
5:8あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。9――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――10何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。11実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。13しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。14明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」


福音書:ヨハネによる福音書913-25()184
9:13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。 14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。 15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」 16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。 17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。 18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、 19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」 20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」 22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。 23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。 24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

本日あたえられている聖書の御ことばは、生まれつきの盲人がイエスによって癒され、目が見えるようになったという出来事を受けて、その後に盲人とファリサイ派の人々のやりとりが語られている場面であります。
この盲人の癒しは、大変有名なやり取りの中で起こっています。
それは、この盲人の目が見えないのは、この人、本人に罪があるからか、両親に罪があるからかという弟子たちの問いかけに対して、そうではなく、この人の目が見えないのは、神の業、栄光が顕されるためであると答えた出来事です。

当時の考え方は、何か病気や障がいを負うということは、本人か、その先祖に罪があった結果であるという考え方がありました。すなわち、因果応報の世界の中にあったということです。それは、この物語が語られている古の時代のことでなくとも、現代にあって、私たちの世においてもそのことを強調する傾向にあるようにあります。
何か物事を達成できなかったのは、その人の努力が足りなかったからだとか、また、大変凄惨な事件がよく起こりますが、それは両親が悪い、家庭環境が悪かったからだといわれたりします。そして、それを自己責任、自業自得であるという言葉で片付けようとします。

しかし、イエスは、この考え方を覆すのです。この人が生まれつき目が見えないのは、この人に罪があるからでも、両親に罪があったからでもないとハッキリと否定します。すなわち、因果応報の考えを破られたのです。
そして、それをイエスは「神の業、栄光が現されるためである。」と語るのです。
この神の栄光が現されるということがらは、大変重要な事柄であると思います。
すなわち、神の栄光、恵みが現れるということは、その人の過去がどうであったとか、現状がどうであろうかということを問わないのです。重要な事は、イエスとの出会いがあたえられた後の事がら、すなわち未来を見つめる視点が与えられるということです。言って見るならば、「神の業、神の栄光が現される」ということは、その人の人となりを越えて、これからこの人は神の栄光を現す者とされるのだと語っているのである。

そのような癒しの出来事を受けて、この盲人だった人は、ユダヤ教の規定に従い、祭司たちのところへと行き、自分が癒されたとことを承認して貰いに行きます。その為に彼はファリサイ派の人々のところに連れて行かれたのでしょう。
さて、今日は、この時のやり取りが福音として語られています。
この時のファリサイ派の様子は、前段のイエスの弟子たちと似ているように思います。それは、ユダヤ教の律法に従うならば、イエスが行われたことは、安息日に行われたので、労働の違反であるということを主張します。しかし、一方で罪人であるならば、このようなしるしを行うことはできないであろうという戸惑いも見せます。

このファリサイ派の戸惑いは何を意味しているのでしょうか。
それは、彼らは、自分の正しさに囚われているということです。自分たちの信仰の礎は、そもそもは神が与えてくださった律法によるものでした。すなわち、神の意志、神の御こころに生きる事を大切にしていたわけです。しかし、それがいつの間にか、律法の本質である神の御こころに思いを寄せるのではなく、そこに記されている文字にのみ思いを向け、そのことの守れない人々は罪人であると断罪するようになったのです。それは、言ってみれば、自分たちが神にでもなったかのような振る舞いです。
そして、自分こそが、律法を一字一句守って居るのだから正しく、救いに与るに相応しい人間であると考えていたのです。

しかし、イエスが、安息日にもかかわらず盲人の目を癒されたことによって、その正しさが脆弱であるということが露呈されたのです。なぜならば、そこに働いているはずの神の栄光、神のできごとを理解することが出来なかったゆえに、自分の信じていた正しさが揺らいだからです。
すなわち、自分の熱心さを振りかざすあまりに神の栄光が見えなくなり、いざ本当に正しいことが起こった時、心の中に迷いが生じていたのです。この福音の出来事は、目が見えるようになった盲人に起こった神の出来事、神の栄光を見ようとしない人間の罪深い姿が描かれているのです。
自分こそ正しい、イエスは正しくないから何とかして陥れようという思惑に囚われ、そこに働く神の御こころ、出来事に対して逆に盲目になっていた、見えなくなっていたのです。

さて、「罪」ということばは、そもそもは「的外れ」という意味があります。すなわち、人間が神の御こころとは違う生き方をしているという状態を表しているのです。私たちは、このファリサイ派のように自分の正しさや、自分の思いを誇示しようとする時、その事に囚われ、神を省みなくなってしまいます。しかし、それはいつでも神の御旨とは違うものとなってしまうのです。まさに的外れな生き方をしてしまうのです。

しかし、この癒しをあたえられた盲人は非常に素朴な思いをもってこの出来事を受け止めています。
それは、今日の福音の最後のことばである「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」という答えにあります。
この言葉が示すことは、彼がただ純粋に、素朴に神のできごと、神の恵みに立ち、この出来事に思いを寄せ、神の御心に思いを向けていたという生き方です。この事こそが私たちに取って非常に大切な事であると思います。
私たちは生きていく上で様々な思惑の中で生きます。そこに渦巻く思いに囚われそうになります。しかし、そのような中で私たちは、この盲人のように神から与えられた恵みに素直に、素朴に生きていくということが本当に大切な事のように思うのです。

彼は、この後のやり取りでこのように語っています。
「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
実に堂々と臆することなく、自分の身を癒された方のことを証ししています。

この盲人の姿は、ひとつのキリスト者としての生き方を示しています。それは、先ほども述べましたように神の恵みに素朴に立ち、そこに委ねる生き方です。そして、それは神の栄光を現すのです。どのような境遇であろうと、過去であろうと、人となりであろうと、そこに立つことで見えてくるものは、主にある喜びと、主にあって希望の未来に生きる姿です。
私たちは今日、この盲人からキリスト者としての生き方を教えられています。この時、ファリサイ派の人々は、最後にこの盲人に対して「お前はまったく罪の中に生まれたのに我々に教えようというのか」と吐き捨てます。
どこまでも自分の正しさに囚われ、神の御旨に思いを向けることができないまさにまったく的外れな言葉です。

しかし、私たちは本来はそのような者ではないはずです。「人間」とは、ギリシャ語では顔を上げるという意味があります。すなわち人間本来の姿は、神を見上げる者であるという本質を現しているのです。そして、それはすなわち、神の栄光、御旨を現す生き方であるということです。
私たちは、いま四旬節の中にあり、イエスの十字架のできごとに思いを寄せ、悔い改めの時として過ごしています。ですから、今一度自分自身を顧みて、自分が囚われて居るものは何か、自分が他の人に押しつけてしまっていることは何かと言うことを問い直し、そうではなく、神は私に働かれている、ほかの人がどうであるとか、自分の考えにそぐわないからと断罪する生き方ではなく、素直に私に起こっている神の恵み、御旨、栄光に思いを寄せていくそのような時として与えられたこの時を過ごしてまいりたいと願っていきましょう。イエスの十字架を見上げて歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。