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2017年5月7日日曜日

復活節第2主日礼拝説教

「あなたが赦せば、赦される」

主日の祈り
全能・永遠の神様、あなたは信じる者の力です。疑う私たちを、見ないで信じる信仰によって、キリストの豊かな祝福に与からせてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編16編(旧)845
16:1【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
2主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
3この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
4「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
5主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
6測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
7わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
9わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
10あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
11命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

本日の聖書日課
1日課:使徒言行録214a22-32()215
2:14aすると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。

22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。23このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。24しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。25ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。26だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。27あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。28あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』29兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。31そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。

2日課:ペトロの手紙Ⅰ 13-9()428
1:3わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。6それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。8あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。9それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

福音書:ヨハネによる福音書2019-31()210
イエス弟子たちに現れる
20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

イエスとトマス
24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日示されていることは、私たちが復活の主イエスを信じることの難しさを示しているように思います。というのは、今日の福音において弟子たちは、復活の主イエスに出会う喜ばしい出来事に際しているのですが、その際にトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」とハッキリと言っています。
これは何と不信仰な、頑なな心だと思われますが、考えてみれば私たちの常識においても人が復活するということはあり得ません。誰でも死を迎えるのですから信じがたいし、それを実際に見るまでは信じないということは至極当然のことです。

しかし、主イエスは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と語り掛けてくださっています。このみ言葉は私たちにとって大切なことを教えてくださっています。それは信仰の本質を物語っているからです。主イエスの復活という信じがたい出来事に際して、このように語り掛けてくる神のみ言葉に示されている福音とは何でしょうか。ご一緒にこの時、主イエスのみ言葉に耳を傾けながら、味わい知りたいと思います。

始めに申しましたように、私たちは様々な常識に囚われ、いろいろな事がらに対して理性や知識を駆使します。それが人間の文明の進歩や便利さを生み出してきたことは間違いありません。しかし、そのような中で私たちの意識は、今目の前に見えることにのみに重きを置く思考になってしまっているように思います。
古代哲学以来、人は真に良く生きるにはどうしたら良いかということを考えてきました。たとえばプラトンは、それをこの世はイデアの似姿にすぎず、それを真に感得するために準備をしたり、学習しているのだと難しいことを論じたりしています。

しかし、哲学など難しいことは抜きにしても、私たちはキリスト者として神の愛を世に伝え、広め、神の御国がこの世に実現するようにという祈りを持っています。ですから良く生きるということは、神の愛によって生きるということです。そして、それを私たちに知らせてくださるのが信仰です。そして、この信仰によって私たちは神の姿を見、神の愛を知り、この世を良くする力を与えられるのです。

そして、その信仰が、私たち一人ひとりの罪を露にします。パウロは「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。」(ローマ7:12)「罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。」と語っているように、信仰によって神の義しさを知った私たちは、律法が善であるからこそ、私たち一人ひとりは罪を知り、その力に支配され、抗うことができないことを知ります。

信仰が無ければ、私は人を愛しています。殺しなどしていないと言うことができたでしょう。しかし、信仰があるからこそ、主なる神がイエスの十字架を通して示された愛を完遂できないこと、殺すなと言われながら、安易な例かもしれませんが街角で困っている人を見かけながらも、自分の心の中でその人の存在を消して、見て見ぬふりをしてしまいます。

ですから、信仰が与えられたからこそ、自分自身の限界や、罪の大きさ、罪に囚われている自分を見出します。しかし、主イエスは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語られます。なぜでしょうか。よっぽど信仰が無い方が楽なような気がします。信仰が与えられているばかりに、自分の弱さや罪深さ、信仰の弱さを露呈し、苦しみます。

まさに家の中に閉じこもっている弟子たちも、トマスもそうでした。そこに居た弟子たち全員が神を信仰するばかりに恐れに囚われ、見ないと決して信じないと言わしめてしまったのです。
しかし、そのような弟子たちに主は、重ねて「あながたに平和があるように」と語り掛けてくださいました。始めは恐れを取り除くために、そして、喜びの上に重ねて主なる神の平和があるようにと、それを強めてくださいました。トマスには「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と語り掛け、信じる者となるように導いてくださいました。

主は躓いた者に対して、それを放っておくのではなく、平和の祝福と、信じないと言ってしまっても、それをそのままに受け止め赦し、「触れなさい」と語りかけてくださるのです。この復活の主イエスとの交わりによって彼らは躓きや恐れから解放され、主を宣べ伝える者へと変えられていきました。そして、神の愛、赦し、救いが世に実現するように、すなわち神の御国が成るように働いていきました。

私たちもまたこの主イエスの愛と赦しによって、そのようにされているのです。信仰が与えられているからこそ、弟子たちの恐れと、トマスの疑いが自分自身の身に起こることであると深く神の出来事を体験するのです。
しかし、その体験は同時に、信仰によって神の愛、赦し、救いを体験するのです。
そして、この体験によって私たちは、神によって自分の罪が赦されていることを知り、もはや自分のために良いことをするのでなく、他者のために、隣人のために善き業に励むことができるのです。

だからこそ、私たちは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」というみ言葉に、すなわち信仰者として生きる幸いを覚えていきたいと思うのです。信じたからこそ、神の愛に触れ、隣人に仕え、良く生きることができるのです。信じることによって、罪人だということを知らされ、死の力に抗うことのできない自分を知ります。さらにそれで終わりでなく、信じることによってイエスの死と復活によって、罪が赦され、罪に死ぬ者から神の命に生きる者へと変えられている恵みを知ります。

ですから良く生きるとは、わたしが充実した人生を送ることではありません。私はすでに神によって善きものに満たされているのですから十分なのです。だからこそ、この神によってすべての人が善きものの内に在ることを伝える働きに召され、それを宣べ伝えるために神からの信仰が与えられているのです。愛し、仕えることを厭う必要はありません。むしろ信じることの恵みを豊かに受け取りながら、主の復活の命に生かされつつ歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。