今も祝福に生きる
主日の祈り
全能の神様、御子は天に迎えられ、御前で私たちのために執り成してくださっています。全世界のための私たちの祈りを聞き、終わりの時に万物をあなたの栄光へと導いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩編47編(旧)880頁
47:1【指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。】
2すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。
3主はいと高き神、畏るべき方/全地に君臨される偉大な王。
4諸国の民を我らに従わせると宣言し/国々を我らの足もとに置かれた。
5我らのために嗣業を選び/愛するヤコブの誇りとされた。〔セラ
6神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。
7歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。
8神は、全地の王/ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。
9神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。
10諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。
本日の聖書日課
第1日課:使徒言行録1章1-11節(新)213頁
1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
3イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。4そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。5ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
6さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。7イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」9こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
第2日課:エフェソの信徒への手紙1章15-23節(新)352頁
1:15こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、16祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。17どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、18心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
19また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。20神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、21すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
22神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。23教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
福音書:ルカによる福音書24章44-53節(新)161頁
24:44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
今日覚える出来事は、主の昇天の出来事です。主イエスが復活され、40日間弟子たちに神の国について証してくださった後に、生きたまま天に上げられた出来事です。この出来事に示されている神のみ旨、福音とは何か共にこの時、聴いてまいりたいと思います。
主イエスは、復活し、天に上られる時、弟子たちの「心の目を開いて」くださいました。この御業に何の意味があるのでしょうか。この開くというみ言葉を直訳すると「すべて開く」ということです。このことから表されることは、私たち人間の心は、本来開いていない、もしくは開いていてもすべてではないということです。
そうであるならば、人間が様々な思いや出来事を心で受け止める存在ですから、それが閉じていて、中途半端に開いているだけならば、そのことの本質をすべて受け止めることができないということです。
そして、イエスがこの時、弟子たちの心を開いたということは、復活の主イエスに出会ってなお、人は心が閉じていて、主のみ旨、み言葉について完全に悟ること、知ることができないという真実を突き付けています。
しかし、主イエスが弟子たち一人ひとりの心を完全に開いてくださることによって、弟子たちは、「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』」ということが成し遂げられるのです。
預言者の一人は「天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。/天が煙ように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。わたしに聞け/正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。」(イザヤ51:6,7)と語ります。
私たちは自分の思いに陥り、過ちを犯します。過ちを犯さない人間は居ません。そうであるならば、まったく聖でいられることができないのですから、神のみ前においては罪が在るということを意味します。
そうであるならば、私たちから出るものが正しくあること、神の御業を成すことは不可能です。では、どうしたら神の御業を成し遂げ、正しくあることができるのでしょうか。それは神の恵みを受け取ること、神の祝福を受け取ること、そして、その基に神から与えられる信仰という出来事があるのです。
しかし、先ほども言いましたように、私たちは罪や、自己の思いに囚われ心を閉じていたり、中途半端に開いていたりしていて、完全に心を開くことができずにいます。それでは神からの信仰を受け取ることが適いませんし、また同時にそれらの思いを完全に取り除くことも適わないのです。
だからこそ、私たちは神の恵みに生きるほかないのです。イエスが弟子たちの心を開き、祝福しながら天に昇られたということは、人間の限界にしか生きれない私たちを解放し、祝福に生き、神のみ旨を宣べ伝える者として変えてくださっているという真実を伝えています。しかもそれは、祝福しながらなのですから、それは今も続いているのです。この言葉の時制は未完了でありますから、この祝福はこの弟子たちに与えられて以来、今も私たちすべての人間に与えられ続けている祝福です。
私たち一人ひとりは、今までも、今も、そしてこれからも主イエスの祝福のうちに生きる者とされています。そして、イエスは、「あなたがたはこれらのことの証人となる。」と語り掛けられているように、主イエスが私たちの罪のために十字架の死によって贖い、罪の奴隷から救い出してくださり、復活によって神の時の中、永遠の命に与っていることを伝える者となると言ってくださっています。
「なる」です。「なるであろう」ではありません。私たちは、この主イエスがこの世で成し遂げられた救いの業を証しする者として確固として下さっているのです。すなわち、一人ひとりの行動が、言葉が、思いが主イエスの救いを顕す器とされているのです。
罪人にすぎなかった私たちです。神を証するのにふさわしくない器が、この昇天の出来事を通して、神の栄光、救い、恵み、信仰といった神から来るすべてを証する器とされているのです。
み言葉を通して私たちが神と結ばれ、神のみ旨を悟る者とされ、神の御業を証する者と変えられている喜び、光栄を受けているのです。主イエスの昇天の出来事に集う弟子たちも十字架の時、逃げ出し、主を裏切った信仰の弱き者でした。しかし、この出来事を機に彼らは「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」とあるように、主イエスのみ前に遜り、主を賛美し、証しする者とされました。
弟子たちは、この時代、主イエスを賛美するということは、信じない人々にとっては反逆者イエスを主とするということなのですから大変な危険を伴いました。
しかし、そのような恐れ以上に、神に生かされている喜び、恵みが勝るのです。だからこそ、弟子たちは宣教者として神のみ言葉を世界中に宣べ伝えていったのです。彼らが素晴らしかったのではありません。主イエスの祝福、神の恵みがこの世の何にも勝り、将来神の時が訪れれば神の栄光の内にあるという確信があるからです。
同じ喜び、同じ力に与っていることを覚えてまいりましょう。神から来るすべてに勝るものに満たされています。私たちもまた、主イエスに生かされ、救いの喜び、主イエスの祝福の内に生かされている喜びを、神を賛美しつつ、世に響かせ、世界中の人々に神の恵み、救いを宣べ伝えてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。