HP移転のお知らせ

この度HPを移転いたしました。 https://tmktmck.wixsite.com/luthershimonoseki/ こちらからお入りください。

2017年5月7日日曜日

復活節第3主日礼拝説教

「心が燃える」

主日の祈り
神様。御子はパンを裂くことによってあらゆる弟子たちにご自身を知らせてくださいます。贖いの働きをされる主イエスを見ることができるように、私たちの信仰の目を開いてください。アーメン

詩編唱 詩編16編(旧)845
16:1【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
2主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
3この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
4「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
5主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
6測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
7わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
9わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
10あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
11命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

本日の聖書日課
1日課:使徒言行録214a36-41()216
2:14aすると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。

36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」37人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。38すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」40ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。41ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

2日課:ペトロの手紙Ⅰ 117-23()429
1:17また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。18知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、19きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。20キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。21あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。22あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。23あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

福音書:ルカによる福音書2413-35()160
24:13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日与えられている出来事は、エマオ途上の出来事です。復活の主イエスと二人の弟子たちとの出会いのやり取りの場面です。いろいろな絵画の題材にされたり、また「わたしたちの心は燃えていたではないか」という弟子たちの喜びに満ちた言葉などが好きだという方も多くいらっしゃいます。復活節にはよく読まれ、親しまれている福音の出来事です。今、改めて私たちはこの物語から神の福音を聴き、復活の主イエスを通して与えられている新らしい喜び、約束をご一緒に味わってまいりましょう。

さて、二人はイエスの遺体が失われていた、そして、婦人たちが天使たちから『イエスは生きておられる』と告げられた言葉を受けてなお、エルサレムから離れようとしています。11節には、この婦人たちの報告に対して「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」とありますから、おそらくこのクレオパともう一人の弟子たちも「信じなかった」一人だったのです。そして、エマオ途上にあったということでしょう。

しかし、彼らは、本当に失意のうちにあったのかというならば、果たしてそうかと思わされるのです。と言うのは、彼らは「この一切の出来事について話し合っていた。」と記されているように、婦人たちが報告してきたこと、振り返って主イエスが十字架にかけられて死んでしまったことの本当の意味は何か測りかねていたのです。しかしながら、人の死は終わりを意味するのですから、師と慕っていたイエスを失い、何も分からないままに、そして、主イエスが予め語られていたことを信じられずにエルサレムを後にしていたのです。

そのような二人の弟子に主イエスが「近づいて来て、一緒に歩き始められた」のです。主イエスは、復活の朝、婦人たちにその正体を現しましたが、この時は、ただ二人と共に歩きながら、事の次第について耳を傾けているだけでした。そして、二人の弟子もまたこの人が復活された主イエスご本人だとは気づいていません。その理由は「二人の目は遮られて」いたからです。

この「遮られている」という言葉は、直訳するならば「つかむ」「捕らえる」「支配する」「強い」という意味があります。とても広い意味を有している言葉ですが、この箇所は、「遮られている」と訳すよりも「支配されていて」と訳した方が福音の意味をより明確にするように思います。

なぜならば、二人の弟子たちに語り掛けられた主イエスの「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」というみ言葉にそのことが現されています。すなわち、彼らは不信仰に陥っていたということです。不信仰が彼らの目を支配し、イエスをイエスと分からなくしていたのです。
主イエスご本人が十字架の前に数々の奇蹟や教えを語られている時は、その姿を見、声を聞き、感銘を受けて、この人こそ「イスラエルを解放してくださると望みをかけて」いたにもかかわらずそれは失意のうちに終わりました。現実に見えること、起きていること、それしか信じられない信仰だったのです。

そのような弱く、躓いた信仰の持ち主である弟子たちに主イエスは、もう一度モーセから始まって聖書全体について説明、すなわち聖書に記されている事について神のみ旨を明らかにしてくださったのです。
復活の主イエスは、不信仰によって目を支配された人に、目は心ですから、それは言い換えるならば心を支配され、信じられなくなっている者に対して、そのままにしてその日に裁かれる者としてではなく、もう一度始めから語り掛け、証ししてくださっているのです。

そして、彼らは、主イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」時、その目が開かれ、その人がイエスだと分かったとあります。ここにルーテル教会が大切にしている二つのサクラメントが示されています。それは説教による見えないみ言葉の恵みと、聖餐による見える形での恵みです。そして、それは私たちがこのようにして慣れ親しみ、毎主日に与っている礼拝そのものです。み言葉が語られ、聖餐の恵みを受けるこの時はまさにエマオ途上なのです。

私たちもまたこの二人の弟子たちなのです。主日の礼拝においてみ言葉を通して信仰を燃やされます。しかし、週日の営みの中でエルサレムから離れていく、すなわち神から離れていきます。そのような中でまたこうして主日にこの会堂に集い、見えざる恵みであるみ言葉の説教の恵みと見える恵みである聖餐の恵みをいただき、神のみ旨、復活の主イエスの姿を見、心を燃やします。

私たちの大切な信仰告白であるアウグスブルク信仰告白には「サクラメントは外的にキリスト者を識別するしるしであるだけでなく、むしろわれわれに対する神のみ旨のしるしであり証明であって、それによって、われわれの信仰を目覚めさせ、強める」(第一三条 サクラメントの意味と用法について抜粋)とあります。まさにみ言葉の説教も、聖餐によって受ける主イエスご自身の体と血が、私たちを目覚めさせ、キリスト者であることの恵みを思い起こさせますし、キリスト者でない人にとってもこのしるしを通して信仰を目覚めさせます。

私たちは、日々の営みの中で、常識の中で過ごすうちに、主を見なくなってしまいます。いろいろな神ならざるものに目を遮られます。しかし、その私を主は、近づき、教え、証しし、目覚めさせてくださるのです。この主の働きの内に私たちは日々生かされているのです。いつも神から離れてしまう弱い信仰、信じられない者でしかない私たちをいつも捕らえてくださっているのは神です。私たちが捕らえたから神の恵みを獲得したのではありません。

いつも神の働きが、神が私たちのために語り、仕えてくださっているから私たちは心が燃え立ち、主に生かされていること、主の恵みを確信するに至るのです。復活の主イエスとの出会いを、毎主日に私たちは与えられている喜びを覚えてまいりましょう。そして、この喜びが真に人を生かし、喜ばせ、心を燃やし、生き生きとさせるのだということを、確信をもって宣べ伝えていきましょう。このよのどんな力や喜びに勝る神との出会いの時は礼拝においていつも体験し、与えられているのですから、この時と場へ多くの人を招待する伝道者として歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。