「命を豊かにする神」
主日の祈り
私たちの羊飼いである神様。あなたは私たちひとりひとりの名を呼んで、死の谷を越えて安らかな地へと導いてくださいます。あなたの家に用意されている喜びの宴に向かって確かな足取りで歩むことができるよう、御声をもって私たちを導いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
詩編唱 詩編23編(旧)854頁
23:1【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
2主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
3魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
4死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
5わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
6命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
本日の聖書日課
第1日課:使徒言行録2章42-47節(新)217頁
2:42彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。43すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。44信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。46そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
第2日課:ペトロの手紙Ⅰ 2章19-25節(新)431頁
2:19不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。22「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。25あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
福音書:ヨハネによる福音書10章1-10節(新)186頁
10:1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。2門から入る者が羊飼いである。3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
キリスト教では、羊飼いと羊というモチーフがよく登場します。いわゆる比喩的な表現として用いられているのですが、これは羊飼いが、神やイエスを示し、羊を私たち人間であるということを示しています。有名なのは、詩編23編のモチーフでしょう。いずれにしてもこの比喩は、キリスト教にとって大切な事がらであり、神の福音を指し示すのになくてはなりません。
今日与えられている福音の出来事もまさに羊飼いと羊のモチーフが登場します。ですから、これは神と人、主イエスと人とのかかわりを表しています。どのような関わりを表わしているのかご一緒に神の御声に耳を傾けてまいりましょう。
有名な詩編の一つ23編の冒頭で「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という言葉があります。この「何も欠けることがない」という断言をもって生きていくことができることは、とても幸せなことのように思います。なぜこのようなことが幸せなのかというならば、私たちは自分自身に多くの欠けや、満ち足りない思いがあるからです。あぁどうして私はこんな容姿なのだとか、なぜこんな家に生まれてきてしまったのだとか、もっとお金があればとか、もっと頭が良ければ、孤独で仕方ないなど、自分自身に足りないものや、欠けているものがあると不服を言いたくなります。
また、苦しいことや、嫌なことがあっても不満を漏らしてしまいます。なぜこのような思いをしなければならないのか、何になるのかと、その苦しみが大きければ大きいほどそれは大きくなりますし、そのただ中にいると、その出来事の意味を問うことを止めて、苦しみからくる自分の不満や、不服に心を囚われてしまいます。
そういう思いに心を支配されやすいのが人間の常であると思うのです。現状自分自身を顧みて、一つでも満たされていないとそれを求めて、足りない、足りないという思いに走っていきます。
しかし、古代の詩編作者は、神を知り、その神を信じる信仰によって、どのような人生を送っていたのかは分かりませんが、ハッキリと「わたしには何も欠けることがない」と言い切る人生を与えられていきました。ここに信仰によって与えられる恵み、宝が示されています。
では何が恵み、宝であるかというならば、私たちの羊飼いであるイエスは、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」と語られているように、私たち一人ひとりの名を知っていてくださっているのです。多くの羊を主イエスは従えています。その数ははかり知れません。私たち自身もその羊の群れの一頭の羊です。しかしながら、その中で私たちは烏合の衆の一頭ではありません。聖書に「羊の名を呼び」とあるように、私たち一人ひとりの存在を知り、認めてくださっているのです。
皆さんにもお一人おひとりに名前があります。これはその人を見分ける記号ではありません。親御さんや、親戚の方が一生懸命にこの生まれてきた子に相応しい名前は何か考えてくださったに違いありません。名前には意味があり、そこに込められた愛情があります。そして、名前を知ってもらうというのは、その人の存在を認めるということです。ですから、例えば、神社で授受していただくお札・お守は神の分身だと考えられています。そしてそのお札やお守りの中身には神を表す文字が書かれています。名前を書くまではそこには神はいませんが、名前を書いた途端にその名前と同じ神がお札、お守りに宿ると考えられているのです。つまりお札、お守りは「眼に見えないエネルギーを名前という呪(しゅ)で固定させている」ものなのです。
そのようにして、名前というのは、大きな意味があり、その人をある意味で縛るのです。そのような考え方からこのみ言葉を聴いていくならば、神は私たちをとらえて離さないということです。私たち一人ひとりの存在を知っていてくださり、養い、育ててくださるのです。時として野の獣に襲われそうになり、命の危険にさらされながらも、命がけで私たちを守ってくださっているのです。そういう存在として主イエスは、私たちと深く関わってくださっているという真実をこのみ言葉を通して主イエスは伝えてくださっているということです。
そもそも私たちは、罪人です。本来であれば神の養いや、恵み、宝を受けるにふさわしくない存在です。裁かれて陰府に降る存在でしかありません。しかし、その私たち一人ひとりを神はご存じであり、そして、その名を呼び求めて、救い出してくださったのです。しかも、その代償を私たちに負わせるのではなく、羊飼いである主イエスご自身が、私たち罪人を守り、永遠の命、恵みの命に溢れさせるために、ご自身の命を投げ打ってくださったのです。
それが十字架です。この十字架の死によって私たちの罪は赦され、完全に贖われたのです。神に赦されている存在とされたのです。裁かれるものではなく、赦され、神の御国に今生きる者とされています。さらに主イエスは、復活という御業を通して、罪人としてではなく、真に神の羊として、いつも神に養われ、神に呼ばれ、神との関わりの中で生かされているのです。
イエスの時代、羊飼いたちは、多くの羊を導きながらエルサレムの荒野を渡り歩いていました。羊飼いたちは、長い年月をかけて、野のあちこちに羊の囲いを設けて、夜になると羊をそこに導きいれて休ませたそうです。この囲いは誰かの所有物ではなく、誰しもが共同で使っていたそうです。そして、朝になると再び自分たちの羊を呼び集めて、羊を養うために野に出るのです。そして、羊たちもまたその羊飼いの声を聞き分けて、他の羊飼いの声に着いていくことはないそうです。
私たちは、罪人である時、神の御声を聞き分けることが適いませんでした。それは、どういう状態だったかというならば、自分自身の思いで生き、自分の欲求を満たすために世の中であちこちとさ迷い歩いていたのです。何かが足りない、何かを欲していたいという思いに囚われ、もがき苦しんでいました。
しかし、主はそのような私の名前を呼び、私という存在を認め、神の養いのもとに置いてくださいました。神から来る恵みは、限りはありません。そうであるならば、この世的には、いろいろな基準を満たしていない存在かもしれませんが、実は満ち足り、むしろ溢れるほどの恵みに生かされている命であるということを覚えていきたいのです。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と主イエスが語られているみ言葉は真実です。この世的に見れば、取るに足らない存在でしかない私を、神は捉えてくださり、いつも養い、守り、導いてくださっています。日々、主イエスが共に居てくださり、名前を呼び、私たち一人ひとりと関わり続けてくださっているのです。
ですから、私たちは孤独ではありません。羊飼いである主イエスが、私たちのこの世での歩みを導いてくださっています。その中で味わう辛苦を知ってくださっています。そして、その辛苦を主イエスは十字架という形で共に担ってくださいました。
ですから私たち自身、このみ言葉を通して羊飼いである主イエスの声を聴く者とされているのですから、主イエスの御声、すなわち、それはみ言葉に、聖書に聴いていくということです。ペトロが「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」と証していることが真実であるということを、み言葉を通して知らされました。「わたしには何も欠けることがない」人生であるということを知らされました。何も欠けのない命の営みの中に生かされている恵みを思い起こしながら、今日からの日々を歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。