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2017年5月19日金曜日

復活節第5主日礼拝説教

「主の名によって」

主日の祈り
全能の神様、み子イエス・キリストは道であり、真理であり、いのちです。私たちが互いに愛し合い、主の戒めの道を歩んで、御子の復活の命を世界中の人々と分かち合ことができるように恵みを与えてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編312-616-17節(旧)861
31:2主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。
3あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。
4あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き
5隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。
6まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。

16わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。
17あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。

本日の聖書日課
1日課:使徒言行録755-60()227
7:55ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、56「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。57人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、58都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。59人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。60それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

2日課:ペトロの手紙Ⅰ 22-10()429
2:2生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。3あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。4この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。5あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。6聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」7従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、8また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。9しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。10あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。

福音書:ヨハネによる福音書141-14()196
14:1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

イエスは、今日私たちに「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られます。翻って私たち自身の在り様を見つめてみますと、私たちの人生は道に譬えられますし、時には生きる意味を問う者ですから、真理を求めている存在でもあります。また、わたしたちは命ある者でもありますから、このイエスが語られている事がらは、私たちの存在に関わるみ言葉であると言えます。

さて、ヨハネ福音書の冒頭のみ言葉の中に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記されています。すなわち、このことが私たちに伝えることは、「言は神であった」と語られているように、神が肉となられたということです。同じヨハネ福音書でイエスは「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(6:36)と語られています。
これらのことがらから表されていることは、イエスは、神の言が肉となられた存在となられ、まったく霊であり、神の命に溢れている方が、取るに足らない肉の姿を取ってくださったということです。

それは何故かというならば、フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言った言葉に示されています。
というのは、イエスは、今日与えられるみ言葉まで、ご自身について色々に弟子たちに示されました。しかし、それでもなお、フィリポがそうであるように、イエスという方が誰であり、誰から来て、どこへ帰るか分からずにいるのです。すなわち、肉によっては、神の真理も、道も、命も知りえないということです。
人間とはかくも鈍感で、弱い存在でしかないということをよく表しています。

ですから、私たちは、私たち自身によっては、父なる神の御許に行くことはできないのです。では何が私たち一人ひとりを神の御許に引き寄せ、父の家に住む者としてくれるのかというならば、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」というイエスのみ言葉に集約されるのです。すなわち、私たちが神の家に住まうために唯一必要なことは、父なる神であり、子なる神であり、霊なる神を信じる信仰なのです。

この信仰が、私たちを真に憩わせ、安らかにさせるのです。「心を騒がせるな」とイエスは呼びかけます。それはペトロの離反を予告した後に語られます。神から離れる者であるということを明らかにしてなお、主イエスはそのようにして語り掛けてくださるのです。あなたは私を裏切る、そうであるならば神の恵み、救いに与ることはできないであろう、しかし、あなたは私を信じなさい、その信仰が父の家へと導く、そして、その道は、誰も通ったことのない道を通られた主イエスを信じることなのだと語るのです。

誰も通ったことがない道とは、すべての人間のため、すなわちすべての罪人のために、神から遣わされた神の言、霊である方が、地上に降って来て、命を献げることによって成し遂げてくださった救いです。つまり、十字架の赦しと、その痛みの中に隠されながらもハッキリと示されている神の愛です。それが主イエスが示された道です。

そして、主イエスを信じる者は「わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と言うのです。人であり、肉であり、罪そのものである私たちが、十字架から与えられる愛によって、信仰という賜物が与えられ、それによって、主の御業を成すものとされるのです。
またほかの箇所で「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」とあるように、十字架を信じることは神の業であるのですから、私たちは信仰が神によって与えられ、それによって神の家に住まう者となることは確実な約束なのです。

ですから、私たちは、もはや自分が神のみ前に相応しくあろうと躍起になる必要はないのです。いま申しましたように、私たちは神の業によって信仰が与えられ、その信仰が十字架という主イエスが負われた痛みに神からの愛と恵みと赦しを知る者としているからです。

では、そのようにされた私たちがなすべきは何かというならば、主イエスのみ名によって、そして、神の御心に従い生きるということです。自分の思いを捨てて、主イエスならば今、この私に何を語り掛け、何を成せと命じられているか、そして、それに100パーセントの信頼を寄せて生きていくことなのです。
それは時に困難な道のりもあることでありましょう。主イエスを証したばかりに、ステファノは石打の刑によって処せられ、命を取られました。しかし、彼はそれでもなお、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と石を打つユダヤ人たちの赦しを執り成しました。

本当に大いなる使命であり、時にたじろぎ、恐れにとりつかれることがあるでしょう。しかしながら、そのような中にあっても主イエスは、私たちを命へと至らして下さいます。神の家で生きる者としてくださいます。「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」の内に置かれているのです。殉教しろと言うことではありません。しかし時として神の御心は、世にとって剣となりうるのです。そして、私たちは神のみ言葉という武具を取って戦わねばならないことがあるのです。

その大いなる苦しみと忍耐とを主は御存じでいてくださいます。そして、私たち自身もその先に希望が在ることを様々なみ言葉、使徒たちの証しを通して知っています。幸いなことです。み言葉を通して私たちはどこに居ようとも、どのような状況であろうとも、いつも力強いのです。
神を信じる信仰によって歩んでまいりましょう。その幸いを覚えていきましょう。主の御業を成す者とされている栄光を心に留めながらこれからも雄々しく宣教に励んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。